第20話:台本のない席で、声を出す
アフタートーク収録の日、律のスマホには運営から修正版の進行表が届いていた。大まかな項目は、律が提示した案に近い形に改められている。
>一、自己紹介
>二、台本が声に届くまで
>三、同じ台本の前で、三人が止まった場所
>四、録音を流さず、あの日の声について話すこと
>五、まだ名前を付けていないものについて
ただ、完全に同じではなかった。各項目の下には、司会用の補足が追加されている。
> ミオリさんには、「読めなかった」瞬間について。
> ナナセさんには、「読み切れた」理由について。
> 空欄さんには、未公開音声を流さない理由について。
律はその三行を何度か読み返した。修正はなされたが、外側の言葉はやはり分かりやすいラベルへと回帰しようとする。どれも完全な間違いではないからこそ、無遠慮に使われる。
律は録音アプリを開かなかった。名前のない録音は、今もスマホの中に沈殿している。流さない。それはもう決めている。
けれど今日、律は声を出す。台本という盾のない席で。
* * *
収録は《コエバコ》のオンラインスタジオで行われた。
画面には司会、ミオリ、ナナセ、そして空欄の四つの枠が並んでいる。律は自分の表示名を見つめた。声を出すための名前としてはひどく頼りないが、今さら別の名前を上書きすることもできなかった。
「本日はよろしくお願いします」
司会の声は明るく、淀みがない。場を制御するための、整備された声だ。
「それでは、簡単に自己紹介からお願いします。まずはミオリさん」
「ミオリです。よろしくお願いします」
ミオリの声には配信用の明るさが微かに残っていたが、慎重に足場を確かめるような、重みのある響きだった。
「ナナセです。本日はよろしくお願いします」
ナナセの声はよく整っていた。それでも、これまでとは少し違う。整った声の奥に、声を置く場所を見失いかけているような気配が混じっていた。
「では、空欄さんもお願いします」
律の番だった。律は息を吸い込んだ。
「空欄です。よろしくお願いします」
短い挨拶。けれど自分の声が電波に乗った瞬間、喉の奥が微かに熱くなった。台本でも、録音でもない。ただ、今の声だった。
* * *
「ミオリさんは、最初にこの台本を読んだとき、どう感じましたか」
司会が進行表をなぞる。丁寧だが、そこには「感じたことを適切に言語化してください」という強制力が働いていた。
「嫌でした」
ミオリは答えた。司会が一瞬、返答を遅らせる。
「はい。嫌でした。でも、読まないとは思いませんでした。読めなかったところを、演技が上手かったことにされたくなかったんです。でも、読めなかった人として定義されるのも嫌です。……読めなかったところがある。けれど、それだけじゃない。たぶん、そういうことなんだと思います」
場が静まり返った。「なるほど」と漏れた司会の相槌は、いつもの業務的なそれよりも一拍、遅れて届いた。
* * *
「ナナセさんはいかがでしたか。同じ台本を、かなり自然に読み切られていた印象がありましたが」
ナナセの枠がわずかに明るくなる。
「はい。私は台本として、読めたとは思います。ただ、読めてしまった、という感覚もありました」
ナナセは続ける。
「ミオリさんの朗読を聴いたあとで、自分なら止まらずに読めると思いました。そして、実際に読めました。……だから、怖かったです。読めることが、常に正しいとは限らないので。……完成度の話だけに集約してしまうと、私はそこへ合わせて『話せて』しまいます。それが少し、困るんです」
声は相変わらず綺麗だったが、綺麗なまま、少しだけ居場所を失っているように聞こえた。
* * *
「では、空欄さんにも伺います。お二人の朗読を聴いて、どう感じられましたか」
律は、用意していた答えを持っていなかった。持たないようにした、という方が正しい。作っておけば、自分もまた「読めてしまう」のだと分かっていたからだ。
「違いました」
律は言った。司会がどう違うのかと問いを重ねる。
「僕は、書いたところより、書かなかったところを聴いていました。台本には台詞がありますが、声に出ると、そこにないものも聞こえます。ミオリさんの朗読では、最後の一行の前にそれがありました。ナナセさんの朗読では、そこを通り過ぎたことが聞こえました」
ナナセが静かに、低くなった声で応じた。
「はい。通り過ぎました。それも、消したいわけではありません」
ミオリも小さく吐息を漏らす。
「私も、読めなかったところを消したいわけではありません」
律はそれ以上、何も言わなかった。言えば、また何かを不自然に整えてしまう気がしたからだ。
* * *
「空欄さんご自身の音声について、今回、その録音は流さないという方向で伺っていますが、理由を伺ってもいいですか」
司会が次の項目を場に置いた。
「録音にすると、聴ける形になるからです」
律は答えた。
「止めたり、戻したり、何度も聴き返したりできてしまう。僕がいなくても、そこに声だけが物として残ります。それが悪いわけではありません。でも、あの録音はまだ、そういう形で手渡すものではないと思っています」
沈黙を破ったのはミオリだった。
「あの日、聞きました」
司会が、録音のことかと問い返す。
「違います」
ミオリは短く言った。
「あの日の声を、です」
ナナセも言葉を重ねる。
「私も聞きました。でも、聞けてしまったわけではありませんでした。困りました。だから、たぶん、そのまま残っています」
司会は強引にまとめることも、明るく言い換えることもしなかった。ただ、一拍の間を置いてから告げた。
「では、その録音は、今日は流さないままにしておきます」
「はい」
律の答えは、自分でも驚くほどはっきりと響いた。
* * *
最後のメッセージの時間になっても、三人の声はどこか落ち着かなかった。けれど、それでいい気がした。
ミオリは「読めなかったところも聞いてくれてありがとう。でも、そこだけで覚えないで」と言い、ナナセは「今日は少し、困ったまま話しました」と笑った。
最後に、律の番が来た。
「聞いてくださって、ありがとうございました」
それだけでは足りない。けれど、何を足せばいいのか分からない。律は一度だけ息を吸った。
「まだ、台本にしていない声があります。でも、今日はそれを流しません。流さないまま、ここに座りました」
そこで声が止まりかけた。けれど、今度は切らなかった。
「それだけです」
「ありがとうございました」
収録終了の合図が入り、画面の枠がひとつずつ暗くなっていく。最後に残った自分の「空欄」という文字を、律はしばらく見ていた。
* * *
収録が終わったあと、律は録音アプリを開いた。名前のない録音は、まだそこにある。再生せず、流さず、名前も付けない。けれど、今日の声はもう戻せない。
ミオリからメッセージが届く。
『聞きました。録音ではない声でした。少し嫌でしたが、逃げた感じは少なかったです』
『ゼロではないですか』
『ゼロではないです』
律は少しだけ笑った。
少し遅れて、ナナセからも届く。
『今日は少し困りました』
『すみません』
『謝るところではないです。困る声が、外に出ることもあるんですね』
困る声。外に出た声。それでも録音ではなかった声。それらをどう扱えばいいのかはまだ分からないが、今日の声は、もう戻せなかった。
* * *
深夜、律はメモアプリを開いた。
『まだ、聞き方を知らない声』
本文欄には、三つの文がある。
> ここから先は、声の速さで聞いてください。
> まだ、台詞にしない。
> 録音としては、まだ渡さない。
その下に一行だけ、打ち込もうとしたが、指が止まった。今日足すべきものは、このメモの中にはない。
律はメモアプリを閉じた。代わりに、収録ログの参加者一覧を開く。
ミオリ。ナナセ。空欄。
三つの名前は同じ場所に並んでいた。けれど、最後まで同じ声にはならなかった。
録音は、まだ流していない。
けれど、今日の声は、もう戻せなかった。




