第22話:君の声だけが、台本にない
アフタートークが公開されたのは、翌日の夕方だった。
律は通知が届いても、すぐにはページを開かなかった。昨日、確認音源は聞いた。公開の許可も出した。内容は知っている。
それでも、公開された音源は確認用のそれとは決定的に違っていた。確認用は、まだ引き返せる余地のある声だった。公開されたものは、もう戻らない声だった。
《コエバコ》の特設ページには、新たな再生ボタンが置かれていた。
>アフタートーク
>ミオリ × ナナセ × 空欄
>「台本が声に届くまで」
三つの名前が、同じ行に収まっている。同じ場所に並んでいるが、決して同じ声にはならないことを律は知っている。再生ボタンには触れなかった。今はまだ、もう一度聞き直す必要はないと感じたからだ。
コメント欄だけを覗く。
『空欄さん、本当に話してる』
『普通なのに、途中で少し止まるのがよかった』
『ミオリさん、「そこだけで覚えないで」って言ったの刺さった』
『ナナセさんが困ったまま話してるの、珍しい』
『聞きたいけど、流さないでほしいの分かる』
律は、最後の一文で指を止めた。聞きたい。でも、流さないでほしい。
矛盾しているようで、今の律にはもう、それは矛盾には見えなかった。
* * *
ミオリからメッセージが届いた。
『公開されましたね』
『はい』
『聞きました?』
『公開されたものとしては、まだです』
『そういう言い方、少し嫌です』
『すみません』
『謝るところじゃないです』
いつもの、乾いたやり取り。
『コメント、見ました? 「そこだけで覚えないで」って書かれてました』
『はい』
『でも、たぶん覚えられますよね。そこだけで』
律は画面を凝視した。読めなかった箇所。剥き出しの怒り。最後の一行の前の、あの空白。人は、分かりやすい象徴を記憶する。それは悪意ではなく、ただの性質なのだ。
『それでも、言ったほうがよかったと思います』
律がそう送ると、返信は少し遅れて届いた。
『はい。言わないよりは、少し嫌じゃなかったです』
『「少し嫌じゃない」、ですか』
『はい。好きとは言ってません』
『分かっています』
『分かった顔をしないでください』
『顔は見えていません』
『声は公開されました』
律の指が止まる。声は世界に放たれた。それでも、顔は見えていない。その距離感に、律は微かな安堵を覚えていた。
* * *
ナナセからも、連絡が届いた。
『公開音源、聞きました』
『困りましたか』
『困りました。でも、全部を聞けてしまったわけではありませんでした』
律は、その文を何度か読み返した。
『どういう意味ですか』
『空欄さんの声は、音源としては聞けました。でも、途中で少し、置き場所が分からなくなりました。困ったまま聞く、というのは、こういうことなのかもしれません』
律は返信欄に指を置いた。
『それは、良いことですか』
今度は、消さなかった。聞いてもいい気がした。
ナナセの返信は、少し遅れて届いた。
『分かりません』
さらに少しして、次が届く。
『でも、今度は少し違いますね。空欄さんが、聞いたことをすぐ台本にしなかったので』
律は画面を見つめた。台本にしなかったこと。それは、何もしなかったこととは違う。この数日間、何度も噛み締めてきた事実だった。
* * *
夜、律はメモアプリを立ち上げた。『まだ、聞き方を知らない声』。
本文欄には、四つの断片が並んでいる。
>ここから先は、声の速さで聞いてください。
>まだ、台詞にしない。
>録音としては、まだ渡さない。
>名前は付けた。
律は、その下に新しい一行を足そうとして、指を止めた。ここに足すべきことは、まだあるのだろうか。
公開された声。流さなかった録音。名前を付けたファイル。ミオリの嫌い。ナナセの困る。自分の、書けなかった声。どれも、まだ終わってはいない。けれど、終わっていないことをさらに一行で整理する必要はない気がした。
律はメモを閉じた。録音アプリを開くと、名前の付いたファイルがそこにあった。
>切らない理由を、まだ
再生はしなかった。送信もしなかった。ただ、その名前だけを見た。律はそのファイルを長押しし、共有メニューを開いた。送信先の候補に、ミオリとナナセの名前が並ぶ。律はそれを見つめたあと、静かに画面を閉じた。
送らない。けれど、それはもう逃げているだけではなかった。
* * *
しばらくして、ミオリから通話の着信が入った。律は少し迷ってから、それに応答した。
「空欄さん。……今、送ろうとしました?」
律は、肺の空気を止めた。「少しだけ」
「やっぱり」
ミオリの声は怒っているようでもあり、微かに笑っているようでもあった。
「送らないんですか」
「送らないです」
「聞きたいです」
「はい」
「でも、今は送られたくないです」
「はい」
「分かった顔をしないでください。……顔は見えていませんが、声は聞こえていますから」
律は何も返せなかった。ミオリが小さく息を吸い込む。
「空欄さん。次の台本、書くんですか」
机の上に置いたままのキーボードに視線を落とした。書くのか、書かないのか。
「書くと思います」
「私のことですか」
「違います」
「ナナセさんのことですか」
「違います」
「自分のことですか」
律は数秒、沈黙した。「それも、少し違います」
「じゃあ、何を書くんですか」
律は答えを持っていなかった。けれど、今度は逃げるための沈黙ではなかった。
「まだ、分かりません」
「また、『まだ』ですか。……嫌です。でも、少しだけ、いいです。分かったことにしていないので」
律は目を伏せた。その言葉は、いつか自分が誰かに投げたものに似ていた。けれど今は、まるで違う響きを持って届いていた。
* * *
通話を終え、律は新しいメモを立ち上げた。タイトル欄に、ゆっくりと一文字ずつ打ち込んだ。
『君の声だけが、台本にない』
打った直後、指先が微かに震えた。これはミオリのことだけを指しているのではない。ナナセのことも、そして自分自身の声のことも。
台本に、声そのものを書き込むことはできない。台詞は綴れる。間も指定できる。けれど、その人の喉から放たれる声だけは、台本のなかには存在しない。
律は本文欄に指を置いた。一文字も書けなかった。それでいい、と律は思った。今は、まだ。
律はメモを保存した。本文は白紙。台本になる手前の、声を閉じ込めてしまわないための、まだ白い場所。
* * *
ナナセから、最後に一通だけメッセージが届いた。
『公開音源、もう一度聞きました』
律は返信欄を開いた。『困りましたか』
『困りました。……でも、一度目より、少し困り方が分かりませんでした』
律はその文を読んで、少しだけ笑った。『それは、良いことですか』
今度は、消さなかった。聞いてもいい気がしたのだ。ナナセの返信は、ゆっくりと届いた。
『分かりません。……でも、分からないまま聞くことは、少しだけ覚えました』
律は画面を伏せなかった。『覚えておきます』。そう返した。
* * *
深夜、律はもう一度だけ特設ページを開いた。再生ボタンは押さない。コメント欄も見ない。ただ、タイトルと三つの名前を見る。
> アフタートーク
> ミオリ × ナナセ × 空欄
> 「台本が声に届くまで」
三つの名前は、同じ場所に並んでいる。けれど、同じ声にはならなかった。
律はページを閉じた。机の上には、スマホと、開いたままの新しいメモ。
『君の声だけが、台本にない』
本文欄は、まだ白い。それでも、律はもうそこを急いで埋めようとは思わなかった。誰かの声を閉じ込めるためではなく、声が台本の外側に残ることを、忘れないために。
録音は、まだ送らない。台本にも、まだしない。けれど、聞こえたことにはする。
律は画面を閉じた。暗転したスマホに、自分の顔が薄く映る。
その向こうに、声はない。けれど耳の奥にはまだ、残っている。
ミオリの声。ナナセの声。自分の声。
どれも、台本にはなかった。




