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第15話:正しい読み方を、書かない

 ナナセとの通話の翌日、放課後の教室で《コエバコ》運営から連絡が届いた。

 件名は、「追加導入文のご相談」。


 律は、件名を見ただけで指を止めた。「相談」「導入文」。その二つの単語が並んでいるだけで、またしても何かを「書かされる」予感がした。

 本文の内容は簡潔だった。ミオリ版、ナナセ版、そして二人のアフターコメントへの反響が想定を超えたため、特設ページを再編し、二人の音声を対置させて紹介する新たな枠を設けたいのだという。依頼は、その冒頭に置く二十秒ほどの導入文だった。


 律はしばらく、青白い画面を見つめていた。

 二十秒。台本と呼ぶには短すぎる。けれど、単なる作者コメントでもない。それはミオリやナナセが読み上げる言葉ではなく、二人の声が響く前に置かれる「前口上」だ。

 たとえ短い文であっても、それが先にあるだけで聴き手は無意識に誘導される。どこを聴くべきか、何を差異として受け取るべきか。どちらを「剥き出しの音」とし、どちらを「調律された音」として分類すべきか。


 律は、逃げるようにスマホを伏せた。

 まだ一文字も書いていない。けれど、もう書き方を間違えそうな恐怖だけがあった。


* * *


 夜、律はメモアプリを立ち上げた。『まだ、聞き方を知らない声』。昨日書き換えたばかりのタイトルが、視界の端に居座っている。その下に、運営用の導入文を綴り始めた。


「読めない声と、読めてしまう声がありました」

 即座に消去した。違う。

 それでは二人を役割という檻に閉じ込めているだけだ。ミオリを「読めない側」、ナナセを「読めてしまう側」としてラベリングする。それは、耳にする前に彼女たちに名前を貼り付けてしまう行為だった。


 次に、別の角度から言葉を置く。

「どちらが正しい読みなのかではなく、それぞれの声を聞いてください」

 これも消した。正しくない、と断じた時点で、議論を「正しさ」の土俵に引きずり出している。


 律の指が止まった。

 ほんの短い導入文のはずなのに、一文置くだけで、聴き手の耳の向きを決めてしまう。

「空欄さん、聞くための台本を書こうとしてませんか」

 ミオリに突きつけられた言葉が、耳の奥で疼いた。


 これは、聞かせるための導入文だ。そして間違いなく、聞き方を固定するための台本になってしまう。

 律は、空白のままの本文欄を凝視した。白い余白は沈黙を守っている。けれど、そこへ放たれる言葉は、もう黙ってはいられないのだ。


* * *


 ミオリにメッセージを送ろうとして、思いとどまった。

『これでいいと思いますか』

 打ちかけた文字を抹消する。その刹那、スマホが震えた。ミオリからだった。


『今、私に見せようとしました?』

 律は、浅く息を止める。

『やめました』

『少し良いです』

『見せない方がいいですか』


 ミオリの返信は、微かな躊躇を含んで届いた。

『見せないでください、ではないです。私に「正解」を言わせないでください』


 律は画面を見つめた。

 そうだった。見せることが不誠実なのではない。判断を相手に丸投げし、彼女を「正解」の座に据えてしまうことが、何より危ういのだ。


『正しいかどうかを、見てほしかったんだと思います』

『だと思いました』

『すみません』

『謝るところじゃないです。でも、私が「正しい」って言ったら、空欄さんはそれを使うでしょう?』


 律は返せなかった。使うと思った。

 ミオリが許せば。それを免罪符にして、運営に送れてしまう。

『だから、正しいかどうかでは見ません。でも、見たいです。空欄さんが、また私たちを並べようとしているかもしれないので』


 律は、先ほど消したばかりの一文を思い出した。「読めない声と、読めてしまう声」。並べていた。その通りだった。


* * *


 ナナセにも、送ろうとしていた。

『読みやすいですか』

 そう打ちかけて、指を止める。ナナセに聞けば、彼女は器用に整えてくれるだろう。読みやすい場所、聞き手が迷わない温度。彼女はそれを見つけるのが上手い。だからこそ、聞いてはいけない気がした。


 ちょうどその時、ナナセからメッセージが届いた。

『何か、書いていますか』

 律は画面を見つめた。

『運営さんから、導入文を頼まれました。……私たちが読むものではありません。でも、あなたたちの前に置かれるものです』


 ナナセの返信は、少し遅れて届いた。

『それは、少し怖いです。先に置かれた言葉があると、そこへ声を置いてしまうので』


 律の指が止まった。

 台本があれば声を置ける。台本がなければ借りる場所がない。なら、導入文はどうなるのか。それは台本ではないが、聴き手だけでなく、演者にとっても一つの「場所」を規定してしまう。


『強すぎる言葉は、避けた方がいいですか』

『分かりません。でも、強すぎる言葉が先にあると、私はたぶん、そこへ合わせて「読めて」しまいます』


 律はその一文を凝視した。止まらせるための台本であれば、彼女は読めてしまう。聞き方を決める導入文であれば、彼女はそこへ声を適応させてしまう。

 また、同じ過ちを繰り返そうとしていた。何かを置こうとするたびに、相手の声の居場所を先に決めてしまう。


 律は代わりに、こう送った。

『決めさせないように、書きます』

『それは、少し読みづらそうですね。……でも、たぶん、その方がいいです』


* * *


 律は、もう一度メモアプリに向き直った。『まだ、聞き方を知らない声』。

 その下に、いくつかの文を書いては消す。


「二つの声を、聞き比べてください」

 消す。比べることを先に置いている。


「ミオリ版とナナセ版、それぞれの違いをお楽しみください」

 消す。違いを楽しむための企画ではない。


「正しい答えはありません」

 消す。答えという言葉が、もう違う。


 律は、指を止めた。何を聞いてほしいのか。

 止まったところ。通り過ぎたところ。嫌いなまま残ったところ。台本がなくて困ったところ。書かれない方が楽だと言ったところ。

 全部、聞いてほしい。けれど、全部を指さした瞬間、それはもう聞き方の指定になる。


 律は、画面を見たまま、長く息を吐いた。

 聞く人の耳を、どこかへ連れていく文ではなく。少しだけ、急がないようにする文。

 それだけでいい。


 律は、ゆっくりと打った。


>ここから先は、声の速さで聞いてください。

>うまく届いたところも、少し止まったところも、そのまま残しています。


 書いてから、すぐには送らなかった。

 正しい文かどうかは分からない。ただ、少なくとも、ミオリとナナセを役割で並べてはいない。どちらが正しいとも書いていない。

 声の速さで。それが何なのか、律にもまだよく分かっていない。でも、分からないまま置ける文に、少しだけ近い気がした。


* * *


 律は、その文を二人へ送った。判断を求めるためではない。

『正しいかどうかではなく、先に見せておきます』


 まずミオリから返事が来た。

『正しいかどうかじゃないなら、見ます。……少し嫌です。でも、消されていない感じがします。だから、嫌なまま見ます』


 次に、ナナセから返事が来た。

『読みやすいかどうかではなく、見ます。……少し困ります。でも、声を置く場所を決められすぎてはいない気がします』


 少し嫌。少し困る。どちらも「よかった」とは言っていない。けれど、どちらも消してほしいとは言わなかった。


* * *


 律は、運営への返信フォームを開いた。導入文を貼り付ける。


>ここから先は、声の速さで聞いてください。

>うまく届いたところも、少し止まったところも、そのまま残しています。


 送信ボタンを押す前に、少しだけ止まる。

 声の速さ。それは、律が決めるものではない。ミオリの声には、ミオリの速さがある。ナナセの声には、ナナセの速さがある。聞く人にも、聞く人の速さがある。


 律の文は、そこへ少しだけ手を添えるものだ。引っ張らない。止めない。決めない。ただ、急がないようにする。

 律は、送信ボタンを押した。


* * *


 夜、律はメモアプリを開いた。『まだ、聞き方を知らない声』。

 本文欄に、今日初めて一行だけ残した。


>ここから先は、声の速さで聞いてください。


 それは台詞ではなかった。正しい聞き方を指定するための言葉でもなかった。ただ、聞く側の速度を少しだけ遅くするための文だった。


 まだ台本は書いていない。けれど、何も置かなかったわけではなかった。

 律は、スマホを伏せた。画面の奥に残った一行は、まだ誰の声にもなっていない。

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