第16話:同じ場所に、声は並ばない
導入文が特設ページに掲載されたのは、翌日の昼だった。
>ここから先は、声の速さで聞いてください。
>うまく届いたところも、少し止まったところも、そのまま残しています。
自分が書いた二行が、ミオリとナナセ、二つの音声リンクの上に置かれている。律は昼休みの教室でその画面を見つめていた。台本ではない。台詞でもない。けれど、自分の言葉が二人の声の前に置かれている。
コメント欄はすでに動いていた。
『声の速さ、いいな』『並べて聞くと全然違う』『空欄さんも含めた三人の話、聞いてみたい』
律は指を止めた。「三人」。その言葉だけが、他のコメントより重く見えた。
急がずに聞いてほしい。そう願って書いたはずだった。比べろとも、どちらが正しいとも書かなかった。
それでも、二つの声を同じ場所に置けば、人は並べて聞く。意味を探し、違いを探し、そこにいないはずの書き手の声まで聞きたがる。
律はスマホを伏せた。机の上で画面が暗くなり、自分の顔が一瞬だけ映った。
* * *
放課後、《コエバコ》運営から「アフタートーク企画のご相談」という連絡が届いた。
特設ページの反響を受け、ミオリ、ナナセ、台本提供者である空欄の三名による短い鼎談を収録できないか、という打診だった。
律はすぐに返信欄を開いた。『参加できません』。
打ち込んで、止まる。かつてリハーサル会場へ行く前にも、同じように打って消した。あの時は、顔を見ないことで済んだ。声を聞くだけで済んだ。
けれど、今回は違う。書くか書かないかではない。自分の声を、同じ場所に置くかどうかだった。
律は返信欄を閉じた。断る理由はいくらでもある。けれど、断ることで何が守られるのかは分からなかった。
* * *
律はミオリへメッセージを送った。
『運営さんから、三人で話す企画の相談が来ました』
既読はすぐにつき、返信は少し遅れて届いた。
『嫌です』
『断ります』
律が送った瞬間、既読がつく。
『それも嫌です』
律は画面を見つめた。
『ナナセさんと話すのが嫌なんですか』
『違います。空欄さんが、私たちを並べて聞く場所にいるのが嫌なんです』
律はその文を何度か読んだ。昨日、二人を役割で分けない文を書いたつもりだった。けれど、同じ場所に置くこと自体が、もう並べることなのかもしれない。
『僕は、何をすればいいですか』
送信してから、また彼女に判断を預けてしまったことに気づく。
『私に決めさせないでください』
ミオリの返信に、律は喉の奥を詰まらせた。
『すみません』
『謝るところでもないです。……でも、聞くなら、ちゃんと自分の声もそこに置いてください。私たちの声だけを聞く場所にしないでください』
律は指を止めた。自分の声。「まだ」の前で止まった録音が、胸の奥で重さを増した。消していない。送ってもいない。けれど、確かにそこにある。
* * *
ナナセにも、運営の相談は届いていた。メッセージが来る。
『三人で話す企画の件、確認しました』
『無理なら、断ってください』
『無理ではありません。……無理ではないことが、少し困ります』
律は画面を見つめた。ナナセらしい返答だった。彼女ならできてしまうのだ。整えて、距離を取り、聞きやすい会話として成立させてしまう。
『話せてしまう、ということですか』
『はい。私は、話せると思います。でも、話せてしまうと思います』
律はその二行をなぞった。読めてしまう、話せてしまう。ナナセの困り方は、また少し形を変えていた。
『では、どうしますか』
打ちかけて、すぐに消した。律は逡巡の後、別の提案を送った。
『事前に、三人で少しだけ話せますか。公開用ではなく、確認として』
ナナセの返信は、一拍遅れて届いた。
『分かりました。……台本はありますか』
『ありません』
『では、困ると思います。……でも、その方がいいのかもしれません』
* * *
三人の通話は、その日の夜に行われた。
律は開始五分前からスマホを机に置いたまま、何もできずにいた。何も準備していないことが、逆に落ち着かなかった。
通話の通知が鳴る。ミオリ、ナナセ。二つの名前が同じ画面に並ぶ。律は応答ボタンを押した。
「……空欄です」
自分の声が最初に出た。少し遅れて、ナナセの声。
「ナナセです。よろしくお願いします」
整った声だった。短い挨拶のなかにも、正確な距離の取り方があった。さらに少し遅れて、ミオリの声。
「……ミオリです」
いつもより少し硬かった。
「ミオリさんの朗読、聞きました」
ナナセが沈黙を破った。ミオリは、すぐには言葉を返さない。
「ナナセさんのも、聞きました」
それだけだった。静寂が三人の間に落ちる。律は場を繋ごうと言葉を探したが、それよりも早くミオリが口を開いた。
「ナナセさん。私の読めなかったところを、読めたんですよね」
律の指が止まった。その問いは律ではなく、ミオリから直接、ナナセへと向けられていた。ナナセは数秒、沈黙した。
「読めた、というより。通り過ぎたのだと思います」
「それ、嫌じゃなかったですか」
「少し、嫌でした。でも、消したくはありませんでした」
ミオリが黙り込む。律もまた沈黙を共有した。しばらくして、ミオリがぽつりと零した。
「私も、嫌いなまま残っています」
「はい」
ナナセは短く息を吐いた。それだけだった。
けれど、その一音で、二人の声の距離が少しだけ変わったように聞こえた。同じ場所に立ったわけではない。ただ、遠く離れた場所から同じものを見つめているような距離だった。
* * *
律は、何も言えなかった。
二人は、律の台本を挟まずに言葉を交わしている。律が質問を用意しなくても、二人の声は互いの元へ届いていた。安堵と同時に、どこか置き去りにされたような感覚が胸を掠める。
「空欄さん」
ミオリの声がこちらへ戻る。「空欄さんにも、まだ送っていない声がありますよね」
律は呼吸を止めた。ナナセはすぐには何も言わない。
「空欄さんの声、ですか」
「はい。……『まだ』で止まった声です」
律はスマホを握りしめた。
言わないでほしいという気持ちと、なかったことにされたくない気持ちが、同時にあった。ナナセは安易に「聞きたい」とは口にしなかった。
「それは、聞いていい声なんですか」
律は答えられなかった。ミオリも口を閉ざしたままだ。
「……まだ、分かりません」
それしか言えなかった。ナナセも責めなかった。
「分かりました。聞いていいかどうか、分からない声なんですね」
律は目を伏せた。「はい」。自分の声なのに、自分でも扱いきれない。その不格好な事実が、ようやく確かな形を持った。
* * *
通話は長くは続かなかった。公開企画の話はほとんど進まず、三人が同じ場所に声を置いただけだった。
切ったあと、律はしばらくスマホを持ったままだった。録音アプリを開き、名前のない、「まだ」の前で止まった声を確認した。
ミオリからメッセージが届く。『言ってしまいました。嫌でした?』。
『嫌でした。でも、消された感じはしませんでした』
『よかった、とは言いません。でも、言わないままにするのも、少し違う気がしました』
ミオリはまた勝手に踏み込んだ。けれど、それをなかったことにはしなかった。
ナナセからもメッセージが来た。『今日はありがとうございました。聞きたいとは、まだ言いません。でも、聞いていい声なのかどうかは、少し気になっています』。
聞いていい声かどうかを決めるのは、律だけではない。でも、律抜きでは決められない。律はファイルに名前をつけず、スマホを閉じた。
* * *
夜、律はメモアプリを開いた。
>ここから先は、声の速さで聞いてください。
昨日の一行の下に何かを打とうとして、指を止めた。
今日、三人の声は同じ場所にあったが、並びはしなかった。ミオリにはミオリの、ナナセにはナナセの速さがあった。律の声にはまだ、速さがなかった。録音の中で、「まだ」の前に止まっている。
律は本文に何も足さなかった。ただ、タイトルを見つめる。
『まだ、聞き方を知らない声』
その中に、自分の声も含まれているのだと、ようやく少しだけ分かった。




