第14話:聞くための台本は、まだ書けない
ナナセのアフターコメントを聞いた翌日、律はメモアプリを開いたまま、一文字も打てずにいた。
画面には、昨日のままのタイトルが残っている。
『まだ、聞いていない声』
それは間違いではない。ナナセの声を、まだ十分に聞けてはいない。台本の外側で立ち止まったあの数秒を、律は自分の中でどう扱えばいいのか測りかねていた。
けれど、何かが決定的に違う気もしていた。聞いていないのではない。聞き方が、分からないのだ。
ナナセは「台本があれば声を置ける」と言った。台本がなければ、どこまで自分の声で話していいか分からなくなる、とも。
なら、聞けばいい。単純な結論に至った瞬間、律はメッセージ欄を開いていた。
『少し話せますか』
打って、指が止まる。
話して、一体何を聞くつもりなのか。律は別のメモを開き、脳裏に浮かぶ問いを書き出し始めた。
「台本がないとき、何が怖いんですか」
「止まったとき、何を考えていましたか」
「どこまで自分の声で話していいか分からない、とはどういう意味ですか」
最後の一つだけは、消せなかった。質問としては正しい気がした。
けれど、並べてみるとそれはただの取材票だった。相手の声を聞くための準備ではなく、こちらが望む答えを引き出すための装置に見えた。
律はメッセージ欄に戻る。『少し話せますか』という一文だけが、送信されないまま取り残されている。不意にスマホが震えた。ミオリからだった。
『また、私に聞こうとしました?』
『まだ送っていません』
『それは、少し良いです。私に判断させようとしなかったので』
律はその文を反芻した。今までどこかで、彼女の返事を待っていた。
書いていいか、止めていいか、聞いていいか。それは相手を尊重しているようでいて、実は最終的な責任をミオリに預けて逃げているだけだったのかもしれない。
『でも、質問を並べすぎたら、それも台本みたいになりますよ。空欄さん、聞くための台本を書こうとしてませんか』
『たぶん、そうです』
『たぶんじゃないと思いますよ』
『はい』
『でも、前より少し良いです。今度は、自分で気づきかけているので』
律は、メモに残した質問の羅列を見つめた。全部消去しようとして、思い直した。消してしまえば、同じ過ちを犯そうとした自分までなかったことにしてしまう。
律は質問の上に、一行だけ書き添えた。
『聞くための台本』
それから、そのメモを閉じた。使わない。でも、なかったことにはしない。
* * *
『少し話せますか』
理由を添えて補強したくなる衝動を、律は抑え込んだ。余計な足場を用意すれば、相手はそこに乗ってしまう。結局、削ぎ落とされた一文だけを送った。
既読がつくまで、長い時間がかかった。ナナセからの返信は、硬く、短かった。
『台本ですか』
『違います』
『質問ですか』
『質問にしようとしていました。でも、やめました』
『では、何ですか』
『まだ、分かりません』
『分からないまま、話すんですか』
『はい』
『それは、少し困りますね』
整った文面。けれど、そこから微かに彼女の吐息が漏れ出たように見えた。直後、通話の着信が画面を占拠した。律は、その呼び出しに応じた。
「ナナセです。お時間いただいて、ありがとうございます」
第一声は、やはり整っていた。文字で見ていた彼女と同じ距離の声だった。
「空欄です」
律の声は、自覚していたよりもずっと硬く響いた。
「何を聞きたいんですか」
ナナセが言った。逃げ道のない、真っ直ぐな問いだった。
律は、机の上に広げたメモを視界に入れた。使わないと決めたはずの質問表。台本がないとき、何が怖いのか。止まったとき、何を考えていたのか。どれを投げかけても、ナナセは答えてくれるだろう。
けれど、それでは意味がないのだ。それではまた、彼女が声を置くための場所を、こちら側が用意してしまうことになる。
* * *
「分かりません」
律は答えた。通話の向こうで、ナナセが沈黙する。
「分からないまま、通話していますか」
「はい」
「それは、困りますね」
メッセージと同じ言葉。けれど声で聞くと質感が違う。ナナセは本当に、少しだけ途方に暮れていた。その困惑の響きを、律は初めて聞いた気がした。
「すみません」
「謝られると、余計に困ります」
律は言葉を失った。ナナセの声が、ほんの少しだけ笑ったように揺れる。
「私、こういうとき、何を話せばいいのかあまり分からないんです。……台本があれば声を置く場所が分かりますが、台本がないと、借りる場所がないんです。だから、自分の声をどこに置けばいいのか、少し分からなくなります」
律は、その言葉を書き留めたくなった。指が反射的に動きそうになる。けれど、机の上にはスマホしかなかった。メモアプリは閉じたままだ。それだけで、取り返しのつかない過ちから救われたような気がした。
「今の、書かないんですか。……分かりますか。少しだけ。空欄さん、声を聞くときも、どこかで文字にしている気がします。……でも、今は少しだけ、書かれない方が楽です」
律は硬直した。何も書いていないのに、手を止められたような気がした。
「分かりました」
「分かった声をしないでください」
律は、喉の奥で息を詰めた。ナナセが、困ったように笑う。
「すみません。今のは、ミオリさんみたいでした。……嫌ではないです。でも、同じではありません」
その声は、さっきよりも少しだけ、重みを増していた。
* * *
通話は十分にも満たなかった。けれど切ったあと、律はしばらくスマホを置けなかった。
ミオリからメッセージが来た。
『聞けました?』
『分かりません』
『それは少し良いです。分かったことにしていないので』
通話の中でナナセが言った、「書かれない方が楽です」という声を、律はまだどこにも置いていない。
『ミオリさん。聞くことも、難しいです』
『今さらですか。……遅いですよ。でも、少し良いです。書くことだけが難しいと思っていた顔をしていたので』
律は何も返せなかった。たぶん、その通りだったから。
* * *
夜、律はメモアプリを開いた。
『まだ、聞いていない声』
タイトルを見て、少しだけ違うと思った。聞いていないのではない。聞き方を、知らないのだ。
律は、タイトルを書き換えた。
『まだ、聞き方を知らない声』
本文欄は白いままだった。今日はそこに何も置かなかったわけではない。
使わなかった質問。ナナセの「書かれない方が楽」という声。ミオリの「分かったことにしていない」という言葉。それらはもう、画面の外に残っている。
けれど、本文欄にはまだ、それらを入れられなかった。
律は、スマホを伏せた。書く前に、自分がまだ「聞き方」を知らないことだけは、置いておくことができた。




