第13話:台本のない声は、置き場所に困る
翌日の夕方、《コエバコ》運営から短い連絡が届いた。
件名は、「アフターコメント公開について」。
律は、机の上に置いたスマホをしばらく眺めていた。アフターコメント。その言葉に、台本ほどの重みはない。朗読を終えた演者が感想を話し、礼を言う。それだけのことだ。
けれど、律はすぐにメールを開けなかった。台本ではない声。その言葉が、まだ形を持たないまま胸のどこかに引っかかっていた。
内容は事務的だった。ミオリ版とナナセ版の両方に反響があったため、二人の短い音声コメントを特設ページに追加掲載するという。律が新たに書くべきものは何もない。
そのことに少しだけ安心しながらも、律はスマホの中にあるメモアプリの存在を思い出していた。
『まだ、聞いていない声』
タイトルだけのメモ。本文は空白のまま。何も書き込んでいないのに、何かが音もなく動き出したような予感があった。
* * *
アフターコメントは、その夜に公開された。二つのアーカイブの下に、小さな再生ボタンが並んでいる。律はまず、ミオリの方をタップした。
短い無音。それから、彼女の声が流れた。
「ミオリです。聞いてくださって、ありがとうございました」
いつもの配信用のトーンより、声は少し硬かった。かわいく作っているわけではないが、完全に崩れているわけでもない。
人に向けて話すための声と、自分の中から漏れ出してしまう声。その中間に、危うく留まっているような響き。
「読めたかどうかは、まだ分かりません」
律は、そこで指を止めた。「まだ」。その二文字が、録音アプリの中に眠る自分の声を軽く叩いた気がした。
「でも、読めたことには、しなかったと思います。……空欄さんの台本は、まだ、少し嫌いです。でも、嫌いなまま、残っています」
そこで音声は途切れた。彼女の声は不器用なまま、けれど確かな質量を持ってそこに置かれていた。
* * *
次に、ナナセのコメントを再生した。
「ナナセです。このたびは、『マイクは顔を知らない』を読ませていただき、ありがとうございました」
声は、よく整っていた。台本のないフリートークであっても、彼女の声は迷うことなく自らの居場所を見つけていた。
「同じ台本でも、演者によって届き方が変わることを改めて感じました。空欄さんの台本は、声を置く場所がとても明確で、だからこそ解釈が出るのだと思います」
上手い。律は、素直にそう思った。
ナナセは台本の外側であっても己を整えることができる。その事実に、律は安堵すると同時に、少しだけ怖くなった。
音声はそこで終わるかと思った。けれど、運営スタッフの小さな問いかけがその均衡を破った。
「では、ナナセさんにとって、最後の一行の前の『間』は、どういう時間でしたか?」
律は画面から目を離せなかった。
数秒、音が消えた。それはコメント用に用意された間でも、計算された呼吸でもなかった。ただ、ナナセという一人の人間が、言葉の置き場所を必死に探している沈黙だった。
「……すみません。今のは、少し、台本がないので」
ナナセの声が、わずかに低く沈んだ。
「たぶん、私はあそこを『間』として置きました。……でも、それだけではなかったのかもしれない、と今は思っています。まだ、そこは読めていません」
そこで音声は終わった。
ナナセは、止まった。けれど、それは律の台本の中での出来事ではなかった。台本の外側、何の後ろ盾もない場所で、彼女は言葉を失い、立ち止まったのだ。
* * *
メモアプリの起動場所を、指が記憶していた。律はスマホを見つめたまま、微動だにできなかった。
(書ける)
直感が、そう告げていた。今のナナセの、あの剥き出しの沈黙なら。そこから、一行を書ける。
そう確信した瞬間、背筋に冷たいものが走った。誰かを止まらせるためではない。今度は、本当の「音」を聞いてしまったから。……そう自分に言い訳しようとして、スマホが震えた。ミオリからだった。
『今、書こうとしました?』
『少しだけ』
『嫌です。でも、前よりは少しマシです。今度は、止まらせるためじゃなくて、聞いたから書きそうになったんですよね』
律はその一文をなぞった。それは微かな救いのように見えた。けれど、それを救いとして受容してしまえば、また別の逃げ道を自分に与えてしまう気がした。
『書いてもいいんですか』
『まだ早いです。ナナセさんの止まったところを、空欄さんの台本にしないでください』
律はメモアプリを開かなかった。ナナセの沈黙は、まだ自分のものではない。律の台本の一部として消費していいものでもないのだ。
『分かりました』
『分かった顔をしないでください。顔は見えていません。……でも、今かなり「分かった」顔をしていますよ』
律は、何も返せなかった。おそらく、彼女の言う通りだったからだ。
* * *
少し遅れて、ナナセからもメッセージが届いた。
『アフターコメント、聞きましたか。……整えられませんでした』
その一文は、ナナセの文面にしては短く、無防備だった。
『止まっていました』
『はい。でも、台本の中ではありませんでした。台本があれば声を置く場所が分かりますが、台本がないと、どこまで自分の声で話していいのか分からなくなることがあるんです』
律は画面を見つめた。
ナナセは台本という「場所」さえあれば、声を置ける。だからこそ、その外側へ放り出された瞬間、一瞬だけ自らの居場所を見失う。
『さっきの沈黙も、声だと思います』
『そう言われると、少し困ります。……でも、消したいわけではありません』
律はその文を読んだ。ミオリの言葉と、どこか重なる響き。
(嫌いなものを、消したいわけじゃありません)
二人は、同じ場所の近くにいるように見えた。
* * *
深夜、律はようやくメモアプリを立ち上げた。
『まだ、聞いていない声』
タイトルだけが残されたまま、本文は白紙。
律はそこに指を置いた。
ナナセは台本の外で一度止まった。ミオリは、それを嫌がらなかった。律は、それをまだ台本にしていない。
空白は、少しだけ広くなっていた。けれど、今日はそれを無理に埋めるべき日ではなかった。
律は本文欄に一文字も打たず、メモアプリを閉じた。暗転したスマホの画面に、自分の顔が薄く映り込む。
見えないはずの顔が、確かにそこに存在していた。




