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第6話 あなたも覚える?

春を迎える頃には、辺境から咳の音は少しずつ消えていった。


 赤い熱は多くの命を奪った。


 それでも、五年前と同じ惨状にはならなかった。


 街道沿いの村では、具合を悪くした者を早めに休ませることが当たり前になり、井戸の管理も見直された。


 屋敷でも、誰かが咳をすれば隠さず伝えるようになった。


 エルディナが気づき、


 土地の者が知恵を出し、


 ラウレンが決める。


 その積み重ねが、少しずつ辺境を変えていた。


     *


 ある日の午後。


 孤児院の子どもたちが館を訪れた。


 届け物のお礼だという。


 年長の少女が、少し照れたように頭を下げる。


「奥様」


「どうしたの?」


「ノアさんから教わったこと、今もみんなで続けてるんです」


 少女は抱えていた籠を差し出した。


 中には春の青菜が並んでいる。


「咳をしている子がいたら、すぐ先生を呼ぶこと」


「うん」


「無理をさせないこと」


 少女は指を折る。


「ちゃんと水を飲ませること」


 隣の男の子が元気よく続けた。


「あとね、自分もちゃんと食べること!」


 エルディナは思わず笑った。


「それも教わったの?」


「うん!」


 子どもたちは嬉しそうに頷く。


「具合の悪い子に、すぐ気づけるようになったんだ」


 ノアの名前は、今も子どもたちの中で生き続けていた。


     *


 数日後。


 王都から侯爵家の紋章が押された書状が届く。


 父からだった。


 内容は短い。


 侯爵家へ優先的に食料を回すこと。


 メリアーヌのため医師を王都へ寄越すこと。


 侯爵家には、それだけの資格があるのだから、と。


 エルディナは静かに書状を畳んだ。


「どうする」


 ラウレンが尋ねる。


「ほかの領民と同じです」


 迷いはなかった。


「重い方から診ます。物資も同じ順番です」


 ラウレンは一度だけ頷く。


「異議が来れば、私が答える」


 その一言だけで十分だった。


 エルディナは小さく微笑む。


「ありがとうございます」


     *


 春の終わり。


 一台の馬車が館へやって来た。


 降りてきた女性を見て、ハーヴィスが息を呑む。


「メリアーヌ様……」


 以前より痩せていた。


 華やかなドレスは色褪せ、旅の泥が裾へ残っている。


 応接間へ通されても、妹は俯いたままだった。


「婚約は……なくなりました」


 小さく笑う。


「家が傾いてから、少し距離を置こうって」


 袖を握る指が震えている。


「お姉様なら、一人でも大丈夫だろうって」


 十年前。


 婚約者が口にした言葉だった。


     *


 夕暮れ。


 二人は厨房へ移った。


 鍋の中では湯が静かに沸いている。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 やがてメリアーヌが言った。


「覚えてるの」


 エルディナは顔を上げる。


「八歳のお姉様を」


 声が震える。


「厨房にいた」


 唇を噛み締める。


「声をかけようと思った」


 涙がこぼれる。


「でも、あの日はみんなが私を待っていて……私が戻らなきゃいけないって、そう思ってしまったの」


 肩を震わせながら続ける。


「だから、何も見なかったことにしたの」


 長い沈黙が流れた。


「忘れていたんじゃない」


 メリアーヌは俯く。


「忘れたことにしていました」


 エルディナは鍋の湯気を見つめる。


 怒りは消えていない。


 悲しみも残っている。


 あの夜の冷たい床は、今でも思い出せる。


「ごめんなさい」


 妹は深く頭を下げた。


「許してくださいとは言えません」


 言葉が止まる。


 エルディナは静かに口を開いた。


「許せるかどうかは、まだ分からない」


 メリアーヌは目を閉じる。


「でも」


 エルディナは続けた。


「凍えている人を追い返したいとは思わない」


 妹が顔を上げる。


「今日は使用人用の客室を使って」


 静かな声だった。


「ここへ残れるかどうかは、これからのあなた次第」


 棚から湯呑みを一つ取り出す。


「働いて」


 妹へ差し出す。


「誰かの熱に気づける人になって」


 メリアーヌは両手で受け取り、何度も頷いた。


     *


 一か月後。


 朝。


 この一か月、メリアーヌは厨房と洗濯場を行き来し、言われた仕事を一度も投げ出さなかった。


 今では、少し慣れた手つきで湯呑みを並べている。


「これで合っていますか?」


「ええ」


 ハーヴィスの分。


 使用人たちの分。


 そして、縁の欠けた小さな湯呑み。


 ラウレンが鍋を持ち上げた。


「私が注ごう」


「ありがとうございます」


 エルディナは湯呑みを整える。


 ラウレンは静かに湯を注いだ。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして最初に湯を満たしたのは、欠けた小さな湯呑みだった。


 エルディナは少しだけ目を見開く。


 ラウレンは穏やかな声で言う。


「あなたは他人の熱には、よく気づく」


 少しだけ笑みを浮かべた。


「だから今度は、私があなたの熱に気づく」


 エルディナは欠けた湯呑みを見つめた。


 あの日。


 誰にも気づいてもらえなかった、小さな器。


 今は、一番最初に満たされている。


 ゆっくりと顔を上げる。


「では、わたしも」


 ラウレンが彼女を見る。


「あなたが大丈夫だと言っても、信じません」


 一瞬だけ沈黙が流れた。


 ラウレンは小さく笑う。


「ああ。そうしてくれ」


 エルディナも笑った。


 二人は同時に湯呑みを手に取る。


 窓の外では雪解け水が静かに流れていた。


 厨房では今日も、


 湯が、沸いていた。

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