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第5話 四つ目の湯呑み

ノアが倒れてから三日が過ぎた。


 領内の指揮はラウレンが執り、ハーヴィスが屋敷の人員をまとめている。


 エルディナは決められた時間だけ隔離部屋へ入り、そのほかの時間は厨房と使用人部屋を回った。


 誰か一人が無理をすれば、支える側まで倒れてしまう。


 この数日で、何度も見てきたことだった。


 それでも、ノアとの約束だけは諦めたくなかった。


 ――明日、また教えるわ。


 あの約束は、まだ終わっていない。


     *


 部屋には、薬草を煎じる匂いが漂っていた。


 ノアは浅い呼吸を繰り返している。


 エルディナは汗で濡れた額を布で拭き、少しずつ水を飲ませた。


 熱は下がらない。


 窓際では、老医師が首を横へ振った。


 エルディナは何も尋ねなかった。


 その表情だけで、十分だった。


 夕方。


 ノアがゆっくりと目を開けた。


「奥様……」


 風よりも細い声だった。


 エルディナは寝台の傍らへ椅子を寄せる。


「ここにいるわ」


 ノアはわずかに笑った。


「厨房……今日は……ちゃんと、ご飯……食べました?」


 思いがけない言葉だった。


 エルディナは目を見開く。


「ええ」


 本当は、昼のパンを半分しか口にしていない。


 それでも頷いた。


 ノアは安心したように息を吐く。


「よかった……」


 その笑顔が、最後になった。


 夜更け。


 苦しそうだった呼吸は、少しずつ穏やかになった。


 やがて、静かに止まった。


 部屋では誰も声を上げなかった。


 老医師が祈りを捧げる。


 ハーヴィスは帽子を胸へ当てた。


 エルディナは、ノアの手を握ったまま動けなかった。


     *


 ぬるま湯へ布を浸す。


 固く絞り、額を拭く。


 頬。


 首筋。


 細い指先。


 生前と同じように髪を整え、衣服を正す。


 最後に、胸元へ両手を重ねた。


 ノアは眠っているような顔をしていた。


「……湯を沸かすだけでは、救えませんでした」


 声が落ちる。


 握った布から雫が一つ、床へ落ちた。


「もっと早く気づいていたら」


 違う方法があったのではないか。


 そんな思いだけが胸を締めつける。


「わたしは……」


 その先は、言葉にならなかった。


 ラウレンが隣へ来た。


 しばらくノアを見つめ、それから口を開く。


「そうだ」


 低い声だった。


「湯だけでは、人は救えない」


 エルディナは俯いたまま、動けない。


「だが、ノアが教えた者たちは残っている」


 ラウレンは開いた扉の向こうへ目を向けた。


 廊下では、見習いの少女たちが、病人用の桶を間違えないよう並べ直している。


 厨房からは、誰かが白湯を沸かす音が聞こえてきた。


「あなたがノアへ渡したものは、消えていない」


 ラウレンはそれ以上言わなかった。


     *


 部屋を出ようとした時だった。


 エルディナの足元が揺れる。


 壁へ手をつくより早く、ラウレンが腕を支えた。


「座れ」


「大丈夫です」


「大丈夫ではない」


 エルディナは首を横へ振る。


「まだ、やることが――」


「最後に食べたのはいつだ」


 返事ができなかった。


 ラウレンは、冷え切った彼女の手を包む。


「厨房へ行く」


 命令するような口調ではなかった。


 それでも、逆らう気にはなれなかった。


「……はい」


     *


 夜明け前。


 厨房では、いつものように湯が沸いていた。


 エルディナは棚から湯呑みを取り出す。


 一つは、ハーヴィスへ。


 一つは、もう受け取る人のいないノアへ。


 そして少し迷ってから、鞄の奥にしまっていた縁の欠けた湯呑みを取り出した。


 八歳の夜から持ち続けてきた、自分のための器だった。


 木盆へ置き、欠けた縁を指でなぞる。


「起きていたのか」


 振り返ると、ラウレンが厨房へ入ってきた。


 まだ夜明け前だというのに、すでに執務服へ着替えている。


 彼の視線が木盆へ向く。


 三つの湯呑み。


 そのうち一つは、見慣れない小さな器だった。


「今日は」


 ラウレンが言う。


「あなたの分もあるのだな」


 エルディナは頷いた。


「……はい」


 ラウレンは棚から湯呑みを一つ取り出し、木盆へ並べた。


 四つ目だった。


 エルディナは鍋から湯を注ぐ。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして、四つ目。


 湯気が立ち上り、二人の間を白く満たした。


 ラウレンは、自分が置いた湯呑みを受け取る。


 一口飲み、息を吐いた。


「あたたかい」


 それだけだった。


 エルディナも、欠けた湯呑みへ口をつける。


 温かさが、冷え切った身体へ染み込んでいく。


 ノアの湯呑みからも、白い湯気が立ち上っていた。


 エルディナは自分の湯呑みを、両手で包んだ。

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