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第3話 母の手帳

辺境で暮らし始めて、ひと月が過ぎた。


 エルディナは毎朝、小さな紙片へ日付を書き入れるようになっていた。


 ノアの咳は三日前から減っている。


 北側の廊下は、日が沈むと窓枠の右下から風が入る。


 備蓄庫の奥に積まれた麦袋は、手前のものより底が湿りやすい。


 洗濯場では、湯を運ぶ女中の手が荒れている。


 どれも領地を揺るがすような大事ではない。


 それでも、小さなほころびは、放っておけば誰かを苦しめる。


 紙片を束ね、日付順に紐で綴じる。


 誰かに見せるためではなく、忘れないための記録だった。


     *


 その日の午後。


 エルディナは執務室を訪れた。


「失礼します」


 返事を待って扉を開けると、ラウレンは机に広げた帳簿へ目を落としていた。


「何かあったのか」


「備蓄庫の麦について、ご相談があります」


 エルディナは綴じた紙片を机へ置いた。


「奥側の袋だけ、底の湿りが強くなっています。三日前より広がっていました」


 ラウレンは紙片を手に取る。


「袋が破れているのか」


「外側には傷がありません。床から湿気を吸っているのだと思います。ただ、この土地の保管方法はまだ分かりませんので、倉庫番の方にも見ていただきたくて」


 ラウレンは記録へ目を通した。


 湿りに気づいた日。


 触れた感触。


 ほかの袋との違い。


 短い文章が日付順に並んでいる。


「これは、今日だけの話ではないな」


「はい」


「ほかにも記録しているのか」


 エルディナは残りの紙片も机へ置いた。


「必要ないことも書いているかもしれません」


 ラウレンは一枚ずつ読み進める。


 ノアの咳。


 北廊下の隙間風。


 洗濯場の女中の手荒れ。


 夜になると冷え込む部屋。


 読み終えると、紙片を静かに重ねた。


「今夜、書斎へ来てほしい」


「承知しました」


     *


 夜。


 暖炉の火が静かに燃える書斎で、ラウレンは一冊の古い手帳を机へ置いた。


「母が遺したものだ」


 革表紙は擦り切れ、何度も開かれた跡が残っている。


 エルディナは両手で受け取り、そっとページを開いた。


 春先、東井戸は濁りやすい。


 北の備蓄庫は床板の下へ湿気が溜まる。


 解体場では暑い日に汚れが残りやすい。


 誰が咳をしたか。


 どの部屋が冷えやすいか。


 どの家で病人が続いたか。


 領民の暮らしだけが、何年にもわたって記されていた。


 エルディナはゆっくりとページをめくる。


 自分が紙片へ書いていた内容と、よく似ている。


「先代奥方様も、こうして記録を?」


「ああ」


 ラウレンは暖炉へ目を向けた。


「母は、自分より先に他人を見ていた」


 薪が小さく爆ぜる。


「五年前、赤い熱が流行した」


 エルディナは顔を上げた。


「母は最後まで病人の看病を続けた。休むよう言っても、大丈夫だと笑っていた」


 しばらく沈黙が流れる。


「その言葉を信じた」


 ラウレンは拳をゆっくり握った。


「倒れてからでは、遅かった」


 それ以上、自分を責める言葉は続かなかった。


 十分に伝わったからだ。


 エルディナはもう一度、手帳へ目を落とした。


 自分の分だけ湯呑みを置かなかった朝。


 一人でも大丈夫だと言った自分。


 すべてが、この手帳へつながっている気がした。


「……わたしは、初めてです」


 思わず声が漏れた。


「誰かに似ていると言われたのは」


 ラウレンは静かに頷く。


「似ている」


 少しだけ間を置く。


「だから、同じ言葉をもう一度信じるつもりはない」


 エルディナは顔を上げた。


「あなたが大丈夫だと言っても、私は確かめる」


 短い言葉だった。


 それだけで十分だった。


 エルディナは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


「この手帳を、お借りしてもよろしいでしょうか」


「そのために見せた」


 ラウレンは頷く。


「だが、一人で抱え込むためではない」


「はい」


「気づいたことは話してほしい。判断するのは私の役目だ」


「わかりました」


     *


 翌日から、エルディナは手帳を持って屋敷を歩いた。


 まず、備蓄庫の倉庫番へ湿気のことを尋ねる。


「先代奥方様にも同じことを言われましたよ」


 老人は苦笑した。


「昔は木枠を敷いていたんですが、壊れてからそのままで」


「作り直せますか」


「廃材があれば今日にも」


 必要な木材を確認し、ラウレンへ報告する。


 その日のうちに修繕が決まった。


 井戸では、水汲み役へ昔のやり方を教わる。


 雪解けの後は布で一度濾していたこと。


 人手が減り、いつの間にかやらなくなったこと。


 手帳に書かれた知恵は、土地の人々の経験と結びついて初めて役に立った。


 エルディナが気づき、


 現場が方法を考え、


 ラウレンが決める。


 屋敷は少しずつ変わり始めていた。


     *


 ある夜。


 エルディナは自室で手帳を書き写していた。


 夢中になっているうちに、窓の外は暗くなっている。


 扉が叩かれた。


「はい」


 入ってきたのはラウレンだった。


 手には湯気の立つカップと、一枚の毛布。


「まだ書いていたのか」


「今日の分だけ終わらせようと思って」


 ラウレンは机へカップを置く。


「続きは明日でいい」


「ですが」


「文字は逃げない」


 毛布を椅子へ掛ける。


「今日は休め」


 エルディナはペンを見つめた。


 以前なら、あと少しだからと続けていただろう。


 だが、机の上の白湯から蜂蜜の香りが立っている。


「……はい」


 ペンを置いた。


 ラウレンはそれを見届けると扉へ向かう。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 扉が閉まる。


 エルディナは白湯を一口飲んだ。


 甘い香りと温かさが、冷えた身体へゆっくりと広がっていった。


     *


 数日後。


 王都から早馬が駆け込んできた。


 書状へ目を通したラウレンは、すぐにハーヴィスと警備責任者を呼ぶ。


「赤い熱が再び広がり始めた」


 部屋の空気が張り詰める。


「街道沿いの村へ知らせを出せ。王都から来た者は、体調が分かるまで人の多い場所へ入れるな」


「承知しました」


 二人が部屋を出る。


 エルディナは手帳の一ページを見つめていた。


 五年前の日付。


 その横には、先代奥方の字で短く書かれている。


 ――最初の一人を、見逃さないこと。


 その夜。


 門の外から激しい馬の蹄の音が響いた。


「開けてくれ!」


 男の叫び声が夜気を裂く。


「商隊に高熱を出した者がいる!」


 エルディナとラウレンは、同時に顔を上げた。

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