第2話 自分の分だけない
辺境で迎える最初の朝は、王都の真冬よりも冷たかった。
夜明け前。
エルディナは薄暗い部屋で目を覚ました。
与えられた私室は北向きで、調度品も必要最低限しかない。
だが、床は隅まで掃き清められ、寝台には分厚い羊毛の毛布が重ねられていた。
窓には風を防ぐ厚手の布が張られ、足元には湯を入れて使う陶器の容器まで用意されている。
「歓迎はしない」
昨夜のラウレンの言葉を思い出す。
歓迎するつもりはなくとも、妻として迎えた相手を寒さの中へ放り出す人ではないらしい。
エルディナは寝台から足を下ろし、厚手のショールを羽織った。
館の中は、まだ深く眠っている。
廊下へ出ると、底冷えが靴底から這い上がってきた。
古い床板を軋ませながら階段を下り、薪の残り香を頼りに厨房へ向かう。
広い厨房は冷え切っていた。
かまどの灰を探ると、奥にわずかな熱が残っている。
エルディナは乾いた葉と細い枝を置き、息を吹き込んだ。
赤い点が広がり、やがて薪へ火が移る。
鉄鍋へ水を張って火にかける。
シュン、シュンと、湯が沸く音が厨房に満ち始めた。
エルディナは戸棚を開け、分厚い陶器の湯呑みを三つ取り出した。
一つは、昨日館の中を案内してくれた老家令ハーヴィスへ。
一つは、昨夜、使用人部屋の方から乾いた咳を響かせていた誰かへ。
そしてもう一つは、先ほど廊下を通った際、すでに扉の下から明かりが漏れていた執務室の主へ。
木盆の上に、三つの湯呑みを並べる。
自分の分は置かなかった。
「……奥様?」
背後から嗄れた声がした。
振り返ると、カンテラを持ったハーヴィスが厨房の入り口に立っている。
「おはようございます、ハーヴィスさん」
「おはようございます……ではございません。奥様が、なぜこのような時間に厨房へ?」
「目が覚めましたので」
エルディナは鍋を火から下ろした。
ハーヴィスの視線が、木盆の上へ落ちる。
三つの湯呑みを数え、それから厨房の中を見回した。
「奥様。ご自分の分は、どちらに?」
「わたしは平気です。必要ありません」
考えるよりも先に、言葉が出ていた。
ハーヴィスの表情が変わる。
驚きというより、古い傷に触れられたような顔だった。
「……先代奥方様も、いつも同じことをおっしゃいました」
エルディナは手を止めた。
「先代の?」
「はい」
ハーヴィスはそれ以上語らず、深く頭を下げた。
カンテラを持つ手だけが、かすかに震えている。
その時、廊下から靴音が近づいてきた。
ラウレンだった。
すでに執務服を着ている。
袖口には昨夜と同じインクの染みがあり、手には数枚の書類が挟まれていた。
「朝から何の騒ぎだ」
「騒ぎというほどではございません」
ハーヴィスが答える。
ラウレンの視線は、木盆へ向いていた。
三つの湯呑み。
その横に残された空白。
エルディナは一つを持ち上げた。
「白湯です。よろしければ」
ラウレンは差し出された湯呑みを受け取った。
「あなたの分は」
「わたしは一人でも大丈夫ですので」
ラウレンの眉間へ皺が寄る。
何かを言いかけ、結局、口を閉じた。
熱い湯を一口飲み、木盆の空いた場所へもう一度目を向ける。
「ハーヴィス」
「はい」
「朝食の席を一つ増やせ」
「承知いたしました」
ラウレンはそれだけ言い、執務室の方へ戻っていった。
*
朝食の準備が始まる頃、一人の若い使用人が厨房へ入ってきた。
十六、七歳ほどの少女だった。
青白い顔をして、腕に抱えた薪をかまど脇へ置こうとする。
その途中で、激しく咳き込んだ。
エルディナは刻んでいた野菜から手を離した。
「待って」
少女のそばへ歩み寄り、額へ掌を当てる。
少女は肩を跳ねさせた。
「お、奥様」
「少し熱があるわ」
「これくらい、いつものことです。仕事を休むほどでは――」
少女は言い終える前に、また咳をした。
エルディナは彼女が持っていた薪を受け取り、床へ置いた。
「名前は?」
「ノアです」
「ノア。今日は座っていて」
「でも、わたしが休んだら、ほかの人の仕事が増えます」
「倒れたら、もっと増えるわ」
エルディナは湯呑みに白湯を注ぎ、薄く切った生姜を一枚だけ浮かべた。
「喉が痛むなら、少しずつ飲んで。食事が済んだら部屋で休みなさい」
ノアは差し出された湯呑みを受け取らず、戸惑った顔でエルディナを見た。
「奥様が、わたしなんかに?」
「熱があったから」
「でも、わたしは使用人です」
「熱は身分を選ばないでしょう」
エルディナがもう一度差し出すと、ノアはようやく両手で受け取った。
湯呑みの熱が掌へ移ったのか、強張っていた指が少しずつ緩んでいく。
「ありがとうございます」
ノアは頭を下げ、厨房の隅にある椅子へ腰掛けた。
エルディナは作業へ戻る。
野菜を刻み、鍋を見て、次に使う布を整える。
しばらくすると、背後からノアの声がした。
「奥様は、朝食を召し上がらないのですか?」
「あとでいただくわ」
「いつですか?」
問い返され、エルディナの手が止まった。
「仕事が終わったら」
「みんな、そう言います」
ノアは湯呑みを胸元で抱えていた。
「あとで休む。あとで食べる。これくらい大丈夫だって」
誰のことを言っているのか、エルディナにはわからなかった。
あるいはノア自身のことかもしれない。
「でも、さっき奥様は、倒れたら仕事が増えるっておっしゃいました」
エルディナは手元の野菜へ目を落とした。
ノアの言葉は、先ほど自分が口にしたものだった。
「……そうね」
それでも、すぐに食事を取りに行くことはできなかった。
長年染みついた習慣は、言葉一つで変わるほど軽くない。
ただ、ハーヴィスが運んできたパンと温かなスープを、いつものように断ることはしなかった。
*
その日のエルディナは、屋敷の中をハーヴィスとともに回った。
使用人部屋、洗濯場、備蓄庫。
どこに何があり、誰が何を担当しているのかを尋ねて歩く。
勝手に仕事へ口を出すことはしなかった。
ただ、洗濯場の女中が荒れた手を隠すように袖を下ろしたことや、備蓄庫の奥だけ床が湿っていることを覚えておいた。
夕方には、足の感覚が薄くなっていた。
自分が疲れていることに気づいたのは、私室へ戻る階段で一度つまずいた時だった。
扉を開ける。
朝にはなかったものが、机の上に置かれていた。
丁寧に畳まれた追加の毛布。
その隣には、陶器の蓋がついたカップが一つ。
蓋を取ると、白い湯気とともに蜂蜜の甘い香りが立った。
手紙も、名前もない。
ハーヴィスなら、必ず一言添えるだろう。
エルディナはカップへ触れた。
まだ温かい。
朝、木盆の上になかった四つ目の湯呑み。
彼女は椅子へ座り、両手でカップを包んだ。
一口飲む。
蜂蜜を落とした白湯が、冷えた喉を通っていく。
窓の外では、雪が降り始めていた。
礼を言う相手の姿はない。
それでも、その夜はカップが空になるまで、机を離れなかった。




