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第1話 高熱の夜

八歳のエルディナが高熱で厨房の床を這っていた夜、屋敷では妹メリアーヌの誕生会が開かれていた。


 シュン、シュンと、黒い鉄鍋の中で湯が沸いている。


 薄暗い厨房の石床は冷たく、熱を持った掌に鋭く刺さった。息を吸うたび、肺の奥でひゅん、と細い音が鳴る。


 屋敷の奥からは、弦楽器の軽やかな調べと、銀の食器が触れ合う音が届いていた。


 誰かが笑う。


 そのたびに床がかすかに震えた。


 エルディナが寝室からいなくなったことに、気づいた者はいない。


 メリアーヌは病弱で、守らなければならない子。


 対してエルディナは、手のかからない丈夫な子。


 いつからか、それがこの家の決まりになっていた。


 かまどの前まで辿り着き、薪の籠へ手を伸ばす。


 細い枝を組み、火打ち石を打った。


 一度では火がつかなかった。


 二度、三度と打ち合わせ、ようやく火花が枯れ葉へ移る。


 エルディナは火吹き竹を唇に当てた。


 息を吹き込む。


 胸が焼けるように痛んだ。


 それでも、小さな炎はやがて薪へ燃え移り、鉄鍋の底を赤く照らした。


 戸棚から小刀を取り出し、生姜を薄く刻む。


 熱で視界が揺れた。指先も震えている。


 誰も来ないのなら、自分でやるしかない。


 刻んだ生姜を湯呑みに入れ、沸いた湯を注ぐ。白い湯気が鼻先を掠めた。


 両手で湯呑みを包み、一口ずつ飲む。


 熱い湯が喉を通るたび、身体の震えが少しだけ収まった。


 誰にも気づいてもらえないのは、苦しかった。


 だから自分は、誰かが苦しそうにしていたら、見ないふりをしないようにしよう。


 幼いエルディナは、朦朧とする頭でそう思った。


 ふと、厨房の入り口に人の気配がした。


 明るい廊下を背にして、若草色のドレスを着たメリアーヌが立っている。


 妹は、かまどの前にうずくまる姉を見た。


 エルディナと目が合う。


 メリアーヌの唇が、何かを言いかけるように動いた。


 その時、広間の方から妹を呼ぶ声がした。


「メリアーヌ様、次の曲が始まりますよ」


 妹は一度だけ広間を振り返った。


 そして、何も言わずに駆けていった。


 若草色の裾が廊下の角へ消え、厨房には再び湯の沸く音だけが残った。


     *


 翌朝。


 かまどのそばで丸くなっているエルディナを見つけた乳母は、胸を撫で下ろした。


「まあ、エルディナお嬢様。もうご自分で起きられるのなら、大丈夫ですね」


 昼下がりには、廊下の向こうを両親が通った。


「熱は下がったそうだな」


「元気そうで何よりです」


 二人の足音は、部屋の前で止まることなく遠ざかっていった。


 エルディナは寝台の上で、毛布を顎まで引き上げた。


 あの夜に使った湯呑みだけが、枕元に置かれていた。


     *


 それから十年が経った。


 冬の陽射しが差し込む応接間で、エルディナは婚約者と向かい合っていた。


 青年は育ちの良さが滲む穏やかな顔立ちをしている。声を荒らげることも、責めるような目を向けることもなかった。


「メリアーヌを愛してしまった」


 膝の上で組んだ彼の指が、わずかに動いた。


「君に不満があるわけではない。だが、メリアーヌには私がついていなければならない」


 エルディナは黙って聞いた。


 青年は少しだけ安堵したように息を吐く。


「君は、一人でも大丈夫だろう」


 その言葉を聞いた瞬間、八歳の夜の冷たい石床が、足元へ戻ってきた気がした。


 エルディナは膝の上で両手を重ねた。


「承知しました」


 それ以上は何も言わず、深く頭を下げた。


 青年が部屋を出ると、入れ替わるようにメリアーヌが入ってきた。


 十年前と同じ若草色のドレスだった。


「ごめんなさい、お姉様」


 妹は胸の前で両手を組み、困ったように眉を下げた。


「でも、お姉様なら……きっと大丈夫でしょう?」


 悪意のない声だった。


 だからこそ、エルディナには返す言葉がなかった。


 メリアーヌの視線が一度だけ、応接間の扉の向こうへ泳いだ。


 厨房がある方角だった。


 だが妹はすぐに視線を戻し、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。


     *


 辺境のヴァルドグレイヴ家への嫁入りが決まったのは、数日後だった。


 書斎で父は羊皮紙から目を上げなかった。


「先方も急いで妻を必要としている。お前なら、あの厳しい土地でも問題ないだろう」


 ペン先が紙を擦る音が続く。


「メリアーヌとは違って、お前は強いからな」


 父にとっては、褒め言葉だったのかもしれない。


「承知しました」


 エルディナはそれだけ答えた。


 ひと月の間に、代理人を通じた婚姻手続きが進められた。


 ラウレン・ヴァルドグレイヴ辺境伯の妻。


 書面の上では、すでに新しい身分を得ている。


 荷造りはすぐに終わった。


 簡素なドレスを数着と、日用品を少し。


 この十年間、エルディナは厨房や洗濯場、病に伏せた使用人の寝所へ足を運び、生活を回す手つきを覚えてきた。


 必要なことを見て、尋ね、繰り返した。


 最後に、棚の奥から小さな器を取り出す。


 八歳の頃、厨房の下働きから余った陶土を分けてもらい、パン窯の余熱を借りて焼いた湯呑みだった。


 底はわずかに傾き、縁も一か所欠けている。


 それでも、あの夜から十年間、捨てることはなかった。


 エルディナは厚手の布で包み、革鞄の底へ入れた。


     *


 辺境へ向かう馬車は、何日も北へ走り続けた。


 王都を離れるにつれ、石畳は途切れ、窓の外から色が失われていった。


 灰色の空。


 葉を落とした木々。


 遠くに連なる雪山。


 馬車が石を踏んで揺れるたび、鞄の底で湯呑みが、こつり、と鳴った。


 やがて、冷たい風の向こうに石造りの館が見えてきた。


 堅牢な門が開き、馬車が玄関前へ止まる。


 館の中に、王都の屋敷のような金箔や華美な絨毯はなかった。


 飾り気はないが、床も壁もよく手入れされている。


 エルディナが玄関ホールへ入ると、奥から硬い靴音が近づいてきた。


 現れた男は、豪奢な衣装ではなく、実用的な執務服を着ていた。


 袖口には、乾いたインクの染みが残っている。


 ラウレン・ヴァルドグレイヴ辺境伯。


 書面上では、すでにエルディナの夫となった人だった。


 ラウレンは数歩手前で立ち止まり、エルディナを見た。


 品定めするような視線ではない。


 長旅で具合を悪くしていないか、確かめるような短い視線だった。


「歓迎はしない」


 低く、抑揚のない声が玄関ホールに響く。


 エルディナは手を重ねたまま、次の言葉を待った。


「ただ、ここに居ていい」


 指先が、わずかに動いた。


「……お世話になります」


 エルディナは深く頭を下げた。


 ここに居ていい。


 その言葉だけが、冷えた玄関ホールに残った。

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