第7話 【俺が帰ったら推しがスイッチ入って暴走してたんだが】
マンションへ戻る頃には、外は少しだけ薄暗くなり始めていた。湊は自転車をマンション脇へ止め、リュックを背負い直す。
「よし……無事帰宅っと!」
小さく呟いて、エントランスへ入る。
静かな廊下。遠くで何かが軋む音だけが聞こえる。
そして階段を上り、ルナの部屋の前まで来たところで、湊はふと立ち止まった。
「……あ」インターホンに手を伸ばしかけて、止める。「いや、今鳴らしたら絶対怒られるな……」
“びっくりするでしょ!”とか、
“ゾンビ来たらどうすんの!”とか、
ルナがぷんぷん怒る姿が簡単に想像できた。
湊は苦笑しながらスマホを取り出す。
『帰ったよ〜。開けて〜』送信。
「……」既読がつかない。
「ん?」少し待つがつかない。
「……寝てるのかな?」
いや、でもルナはさっきまで普通に返信していた。
湊はなんとなく嫌な予感がして、ドアノブへ手をかけた。
ガチャ。「……え?」開いた。
「いや、鍵……」嫌な汗がじわっと滲む。
「……ルナちゃ〜ん?帰りましたよ〜…」
静かにドアを開け、呟く。部屋の中は、妙に静かだった。テレビもついていない。人の気配がない。
「……お〜い」靴を脱ぎながら、小さく呼ぶ。
「帰ったよ〜。ちゃんとエクレア買って来たよ〜?」
返事はない。湊の表情が少しずつ曇る。
「ちょっ……どこ……?」
リビングを見る。誰もいない。
キッチン。いない。トイレ。空。
「……えっ……ちょっと待って……」
心臓が嫌な音を立て始める。
「ルナちゃん?」寝室を覗く。いない。
スマホを見る。既読は、まだつかない。
「……嘘だろ……」
湊は力が抜けたみたいに、その場へ座り込んだ。
「……やだって……こういうの……」
静かな部屋。さっきまで、“帰る場所”だった空間。
なのに今は、冷たく感じた。
その時だった。、、ガチャ。
「っ!?」背後で、静かにクローゼットが開く音。
湊が振り向いた瞬間。笑顔のルナ。
「隙ありぃぃっ!!」「うわぁぁぁっ!?」
どんっ!!ルナが後ろから勢いよく飛びついてきた。
「っはははは!!」「な、なに!?えっ!?うわっ!?」完全に不意打ちだった。
ルナはそのまま後ろからぎゅーっと抱きつく。
「ゾンビに無敵でも、このルナちゃんには敵わないな!!」「いやいやいや!!」湊は本気で息を切らしていた。
「ちょっ、まじで心配したんだから!!」
「あははっ!」「てか鍵!!開けっぱなし危ないって!!」
「あははっ!大丈夫!大丈夫☆」ルナが笑う。
「あんた帰ってくるの窓から見えてたし☆」
「……え?」
「だからタイミング合わせて隠れたの!」
「えぇぇ……」湊は脱力したみたいに床へ崩れる。
「びっくりしたぁ……ほんとに……」
「あははっ!引っかかった引っかかった♪」
「いや怖いって!」「でも私は面白かったし?」
ルナは楽しそうに笑いながら、さらにぎゅっと抱きついた。
「俺のこと……好きすぎるでしょ?」湊が呆れ半分で言う。
するとルナは、ふっと目を細めて笑った。
「自惚れてんな♡」そのまま、不意打ちみたいにキス。
「んっ……」一瞬だけ、時間が止まる。
唇が離れる。ルナが近い。近すぎる。
「……っ」「なにその顔♡嫌だった?」
「いや……その……嫌じゃないけど…」湊の視線が泳ぐ。
ルナはくすっと笑った。
「じゃあ、受け入れなさい♡」「うん。よく考えたらご褒美タイムだった」
「……あっ、ほらっ、お風呂入ってからじゃないと」湊が慌てて話題を変える。
「ねぇ、お、お風呂は?」
「えへへ、無理♡」「えっ?!無理とは??」
「私、もうスイッチ入ってる♡」
「いや、スイッチの切り替え早っ!?」
「あははっ!君が出て行ってすぐに入っちゃいましたが!いつも自分のタイミングで出来ると思うなよ!」ルナはそのまま湊の肩へ頬を擦り寄せる。
外では、遠くで誰かの悲鳴が聞こえていた。
でも、この部屋だけは「あんっ♡」と言う声が聞こえていた。
◇◇◇
ソファーの上で、二人は完全にぐったりしていた。
「はぁ〜〜〜……気持ちいぃぃ……」ルナがだらんとソファへ沈み込む。
その横で、湊はルナの内腿に頭を挟まれたまま動けなくなっていた。
「……うん……なんも言えねぇ……」力なく呟く。
するとルナが吹き出した。
「あははっ!」「ん?」
「あんたさぁ、事後にその言葉使うと怒られるやつだよ☆」「えっ、そうなの!?」
「テレビ的にね♡」「あははっ!」
静かな部屋に、気の抜けた笑い声が広がる。
外では相変わらず遠くで何かが騒いでいるのに、
この部屋だけ時間がゆっくりだった。
「……てかさ」ルナがじーっと湊を見る。
「ん?」「あんた今日、ちょっとカッコよかったよね」
「えっ?いつ?」湊が固まる。
「急に褒めるじゃん」
「自転車で帰って来た時とか?無敵〜って感じ?」
「あ〜、あれ?まあね?風になってたからね俺」
「うん。髪ボサボサで汗だくだったけど」
「悪口混ざったな??」「あははっ!」ルナが笑う。
「でも、ちゃんと帰って来た時ちょっと安心した」
一瞬だけ、湊の動きが止まる。
「……それ、反則だよ」「なにが?」
「推しにそんなこと言われたら好きになるでしょ」
「もう十分好きだろ♡」
「はい、世界崩壊レベルで好きです」
「重っ♡あぁ、……喉乾いたぁ…あんたの粘っこいから」ルナがぽそっと呟く。
「ん〜……ごめん…」
「一回起きるよ〜」「やだ〜……このままがいい〜」
「重い♡」ルナは笑いながら、ぐいぐい内腿で挟み、湊を押し退けた。
「うわっ」ごろん、と床へ転がる湊。
「退かし方雑っ!!」「あははっ!ごめんごめん」
ルナは薄いシャツを羽織りながらキッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける音。グラスの鳴る音。
「コーヒーでいい〜?」「お願いしまぁす……」
湊はソファーに沈み込みながら天井を見る。
「……なんかもう、終末世界に適応してきた気がする……」「適応先そこなんだ♡」
数分後。ルナはマグカップを二つ持って戻ってきた。
「はい」「ありがと」
湊へコーヒーを渡しながら、もう片方の手で一枚の紙を差し出す。
「ん?何これ?」「今日ね、玄関の隙間に入れられてた」
湊は紙を見る。
『計画停電のお知らせ』
『通信制限及び計画インターネット停止のお知らせ』
『炊き出し実施について。お越しになる際は気をつけて来てください』
「……あぁ」湊はゆっくり息を吐いた。
「やっぱこうなるよね……」
電気。ネット。物流。今まで“当たり前”だったものが、少しずつ壊れ始めている。
ルナもソファへ腰を下ろした。
「停電とか嫌なんだけど〜…こっから夏よ…汗だくプレイはあんまだよね…」
「ふふ、俺は嫌いじゃない。まぁでもゾンビよりマシじゃない?」
「臭いフェチには極楽でしょうね。あとさ、鼻つけて匂い嗅ぐのやめてよ……恥ずかしい♡でもさ、それ言われると全部“ゾンビよりマシ”になるんだけど」
「あははっ!ごめん。今度は鼻を差し込んで匂い嗅ぐスタイルにさせていただきます」「馬鹿♡それをやめろって言ってんの!」
湊は紙を見ながら苦笑する。
「でもさ、計画インターネット停止って地味に終わってるな……」「えっ、YouTube見れないの?湊、YouTube好きじゃん」
「うん。でも俺よりルナちゃんの方が困るでしょ」
「確かに。エゴサ出来ない。でもサービスやってないからエゴサする必要ないでしょ」
「終末世界でエゴサする女初めて見た」
「あっ、でもさ!」ルナが急に真顔になる。
「ネット止まったら、あんたの大好きな動画サイトで“素敵なムフフ”なの見れないね♡」
「いやいや!俺そんな四六時中見てる人みたいじゃん!」
「だって今のあんた絶対“ムラムラで生きてる人類代表”だもん」
「否定しづらいっ!!だが、推しの嬢と、この状況で我慢できる聖者を俺は見てみたい!」
二人で笑う。
そのあと、湊は炊き出しの紙をひらひらさせた。
「……明日、行ってみる?」「炊き出し?」
「うん。情報集まるかもだし」
ルナは少し考えてから頷く。
「……そうだね。ずっと二人で引きこもってても分かんないこと多いし」
「よし、じゃあ明日は社会復帰だ」
「終末世界でその言葉聞きたくな〜い」
笑いながらコーヒーを飲む。
その時だった。湊の視線が、ふとルナへ止まる。
大きめのシャツ。覗く肩、胸元。
ソファへだらっと座る無防備な姿。
「……」じぃぃぃ。
ルナがちらっと見る。「……なに?」
「……」「なにその顔」
「……」「鼻の穴膨らんでるけど?」
「っは!?」湊が慌てて顔を逸らす。
ルナは吹き出した。
「あははっ!」「いや違うって!」
「絶対また変なこと考えてた〜♡」
湊は観念したみたいに笑った。
「……だって好きなんだもん」
「おっ、でも私、今、女賢者モードだよ…」
「ダメ!スイッチ入った。だって最強の推しですから♡」
一瞬。ルナの動きが止まる。湊の手が伸びる。
「……ちょ、こら、……バカ…♡」顔を赤くしてクッションでガードしようとする。
「うわっ!?」
「あんたそういうの不意打ちで言うのズルいっ!!」
「ズルくない!」「ちょっ、だから鼻押し付けちゃダメだって……♡」
世界は壊れていく。でも二人は、今日も笑っていた。
続




