第30話 【推しの谷間に住所変更する時は市役所で申請しないとダメですか?】
ドラッグストア奥の部屋。外ではまだ、時折ゾンビの呻き声と物音が響いていた。けれど今は扉一枚隔てたこの空間だけが、妙に静かだった。ひまりが父親の服をぎゅっと掴く。
「お父さん……」藤堂が顔を向ける。「ん?」小さな声だった。「……また、お家帰れないね……」その言葉に部屋の空気が少し止まる。藤堂は優しく娘の頭を撫でた。「……そうだね…」苦笑いだった。「でも、生きてる。ひまり、帰ったら何食べたい?」「オムライス!」「ふふ、材料あるかな?」こんな会話だけで十分だと、自分に言い聞かせるように。
その横で豪鉄が壁にもたれながら腕を組む。
「さて、どうする?」低い声。皆を見る。「結局、強行突破か?」湊は床に座ったまま首を振った。
「それはない」即答だった。「確実に、全員無事で帰る」ルナが眉を上げる。「へぇ?」釘バットを肩に乗せたまま笑う。「湊、なんか作戦あるの?」湊は少し黙った。「……ない」「「ないんかいっ!!」」ルナとサヤカの声がぴったり重なった。湊が肩をすくめる。「でもさ……」少し考える。「今までのパターンだと、ゾンビって朝になると動き悪い気がする」ひまりが首を傾げた。「なんで?眠たいの?」真っ直ぐな目。湊が頷く。「うん。たぶん」大野が即座に突っ込む。「いや、市役所のやつ朝でも元気だったぞ」「……えっ?ほんとに?」湊の説が一瞬で崩れた。「却下だね〜」ルナが笑う。
作戦会議は平行線だった。そして湊は、あっさり会議から離脱した。「んー……」棚をごそごそ漁る。レトルト食品。スナック菓子。缶ジュース。「これ美味そう」「あははっ!おい、現実逃避すんな」ルナが笑いながら、その場にごろんと釈迦寝になる。完全にくつろぎモードだった。湊が戻って来て、ルナの前に次々置く。ポテチ。グミ。カフェオレ。レトルトハンバーグ。「ほい」「ありがと♡」そして湊もそのまま隣にごろん。ルナの胸に頭を預ける。ルナが自然に頭を撫でた。「疲れた?」「うん…疲れた……」「そっか」
ぽりぽり。ごくっ。ぽりぽり。ごくごく。静かな夜にやけに響く。サヤカが呆れた顔をした。「あの〜……この状況でポリポリタイムですか?」ルナが笑った。「うん☆」湊の頭を撫でながら言う。「今慌ててもしょうがないでしょ?」湊の髪をくしゃくしゃする。「ほら、うちの子、疲れちゃったから♡」「野良犬拾ったみたいに扱うなっ!」「あははっ!なでなで好きなくせに〜」湊は眠そうに目を擦った。豪鉄と大野がそれを見て笑う。「がははっ!そうじゃな!」豪鉄がどかっと座る。菓子を掴んでむしゃむしゃ食う。
「こういう時に焦ると死ぬ」大野も隣に腰を下ろす。「同意です」缶コーヒーを開ける。カコッ。ふと、大野が豪鉄を見る。
「そういえば、何で豪鉄さん噛まれないんですか?」腕を組み不思議そうに聞く。「ぐはははっ!!」豪鉄が大笑いして、革ジャンをばんばん叩く。「噛まれとるわ!!」「え?」「これじゃ!」革ジャンを摘まむ。「昔アフリカで仕事した時に買った、サイ皮の革ジャンじゃ!」全員が止まる。「サイ?」豪鉄が誇らしげに頷く。「ある部族の殺し屋を追って行ったら貰ったんじゃ!あいつらの噛む力程度じゃ貫通できんらしい!」どんっと胸を叩く。「がはははっ!!」
「現実離れしすぎて、最早どこをツッコんだらいいのか分からない…」湊が半分寝ながら呟く。
その横で藤堂もようやく力を抜いた。ひまりを抱き寄せて横になる。数秒後。すぅ……すぅ……もう寝ていた。サヤカがそれを見て、小さく笑った。「……相当気を張って疲れてたんですね」ルナも笑う。そして胸元の湊を指差した。「ふふ、こっちも♡」くすっと笑う。「普段こんなリーダーシップ取らないから」湊はもう半分寝ていた。「……んぁ……」「あははっ」
外ではまだ、ゾンビが呻いている。けれどこの小さな部屋だけは、少しだけ穏やかだった。戦いの合間の、短い休息。静かな時間が、ゆっくりと流れていった。
◇◇◇
数時間後、部屋の中。みんなの静かな寝息だけが響いていた。外ではまだ時折、遠くでゾンビの呻き声が聞こえる。豪鉄は壁にもたれたまま眠り、サヤカはチビを枕にうたた寝。大野は工具箱を抱えたまま寝落ちしていた。藤堂はひまりを腕の中に抱いている。
その中心で、湊だけが、ゆっくり目を開けた。
「……ん」眠そうに瞬きをする。隣を見る。ルナがすやすや眠っていた。頬が少し赤い。口元が少し緩んでいる。「はぁ、……寝顔かわい♡」小声で呟く。起こさないように、そっと谷間に顔を近づける。
そして、すー……はー……すー……はー……谷間に顔を埋めて深呼吸。「あぁ……生き返る……どんな栄養ドリンクよりもビンビンだわ〜♡」その瞬間、ルナが寝ぼけた声を漏らした。
「んぅ……」ぴくっと動く。「湊……お風呂入ってないから……だめぇ〜♡」「む、起きてる!?」湊が胸元から飛び退いた。だがルナはまた寝息を立て始める。「寝言……?寝言でも俺の名前……さては…好きだな」小声で笑う。
そして静かに立ち上がり、扉の方へ向かう。ギィ……手をかけた、その時、、「……行くんか?」低い声。豪鉄だった。目は閉じたまま。湊が振り返る。「起きてたの?」豪鉄が薄く笑う。「ふふ、眠たいふりなんぞして、役者やのぉ」全部見透かしていた。湊が少し笑う。「……うん」扉に手を置く。「今しか、俺にしか出来ないことやる」豪鉄は何も言わない。ただ静かに聞いていた。「ここ頼みました」湊が真っ直ぐ見る。「必ず迎えに来ますから」
豪鉄が鼻を鳴らした。「おぉ、気をつけてな」湊が頷く。そして静かに扉を開けた。真っ暗な部屋の外。そこにはまだ大量のゾンビがいた。呻き声。血の匂い。壊れた棚。散乱した商品。
湊はポケットから懐中電灯を取り出した。カチッ。小さな光。ゾンビたちの首が、一斉に向く。
「……よし」湊はゆっくり歩き出す。静かに、淡々と。一体ずつ、一群れずつ。百近いゾンビを、少し離れた場所へ誘導していく。走らない、焦らない、ただ歩く。まるで行進みたいだった。
「……はぁ」ぽつり。独り言が漏れる。「結局、人助けか……」ゾンビが後ろをついてくる。ぞろぞろ。ぞろぞろ。「会社にいた頃もそうだったな……これお願い……」一歩進む。「あれもお願い」また一歩進む。「結局さ、出来るやつがやる」後ろの群れが増えていく。「それで、自分で出来なければ、頼む」笑う。でもどこか寂しい笑いだった。「そんでさ、頼んだやつは定時で帰って」使われてない倉庫の前に着く。扉を開ける。「楽しい飲み会して、彼女出来て…」中へゾンビを誘導する。「出来るやつは残業して帰ってフ○ンザ…」一体、また一体。群れの最後の一匹を押し込む。ガシャン。扉を閉めた。ドンドンドン!!内側から叩く音。湊は背中を預けた。息を吐く。「会社……いや…社会…それが嫌で関わるの辞めた」空を見上げる。夜が少し薄れてきていた。
「でも父さんは……」少しだけ目を細める。「こんな俺を良く思わなかったなぁ……」風が吹く。少しだけ冷たかった。「何してんのかな……」遠い空を見る。「生きてんのかな……」少しだけ物思いにふけり、それからふっと笑う。「……まっ」ポケットに手を突っ込み笑う。「ルナちゃんいれば幸せか」
ドラッグストアに戻り少し歩く。また店内を確認する。入口、通路、バックヤード。残っていた数体も誘導し終える。全部終わった頃には、東の空が白み始めていた。朝日がゆっくり昇る。壊れたガラス越しに光が差し込む。血に濡れた床が、赤金色に染まる。湊はその光を見つめる。
「……うん」小さく呟く。「“今が幸せ”だから」その言葉だけが、朝の静けさに溶けた。
◇◇◇
朝焼けの光がドラッグストアの隙間から差し込んでいて、店内は静かだった。湊は周囲を確認しながら、そっと奥の部屋の扉を開けた。ギィ……中を見る。まだみんな寝ていた。規則正しい寝息とイビキ。少しだけ安心する。
その時、「……戻ったか」豪鉄が目を開けた。湊が小さく笑う。「うん。起きて待っててくれたんですね」豪鉄は壁にもたれたまま鼻を鳴らす。
「疲れたか?」少し間を置く。「悪かったのぉ……お前さん一人に任せてしまって」湊は首を振った。「あははっ!全然大丈夫!」いつもの軽い笑い。湊は少し伸びをする。「これは俺にしか出来ないことだから」
そう言って、ふらっとルナの隣へ。ルナの手が自動扉のように湊を胸元に誘導する。「でも……ちょっと寝かせて」そのまま、するりとルナの胸元へ潜り込んだ。ルナは起きない。確認もせず、自然に抱き寄せる。ぷにゅ。ぎゅっ。湊の顔が埋まる。「……んぁ……落ち着く〜♡ヨギボー超えに認定します」
豪鉄がそれを見て呟いた。「……自然すぎるが…そこが定位置なんか?」誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
◇◇◇
太陽がすっかり昇った頃。みんなが少しずつ目を覚ます。サヤカが起きる。大野も起きる。藤堂とひまりも。用意を始める。その中心で、まだ湊とルナだけ寝ていた。
もぞ……ルナが寝ぼけながら動く。湊の体を探るように触る。湊も寝ぼけながら反応する。もぞもぞ。
「んっ……」ルナが薄く笑う。「あっ、湊……いきなりそこ触っちゃうんだ……♡」寝ぼけ声。「君は相変わらずえっちだなぁ……」指先が湊に返ってくる。
「お返し♡」「ふぁっ!?」湊が飛び起きかける。「こら!逃げんな♡」「だめ、そこ弱いっ!」ルナが笑う。「えっ?知ってる♡」にやり。「だから集中攻撃なのじゃ」「はぁはぁぁん」その時。ゴホンッ。サヤカだった。腕を組んでいた。
「湊さん、ルナさん。何回も言いますけど……ダメです」真顔で見る。二人が固まる。「なんでちょっとすると、すぐそうなるんですか!?」湊とルナが顔を見合わせる。そして。「……彼女だから?」「……彼氏だから?」ぴったり同時だった。
二人とも少し照れている。サヤカが頭を抱えた。
「もうっ!」豪鉄と大野が笑う。「ぐはははっ!」「仲いいなほんと」
◇◇◇
みんなの準備が終わる。荷物をまとめる。薬も食料も揃った。大野が周囲を見る。「さてと」腕を組む。「どうやってここを切り抜ける?」「グハハっ!心配ないじゃろ!」豪鉄が笑い胸を張る。ちらっと湊を見る。ウィンク。「なぁ、湊。もうあいつら、どっか行ったじゃろ?」湊が苦笑した。「あはは、そうだね。……ドゥインのウィンク貰っちゃったよ……」ルナが吹き出す。「ファンサ貰っちゃってんじゃん」
豪鉄が扉を開ける。ギィ……店内は静かだった。ゾンビは一体もいない。藤堂が目を見開く。「なっ……!?」サヤカも止まる。大野も気づく。誰も何も言わない。でも分かっていた。これをやったのが誰か。湊だけが笑った。「さぁ♪」ルナの手を取る。「荷物を市役所に届けて帰ろう」ルナはその顔を見る。全部察した。ぎゅっと手を握り返す。そして、ぽすっ。軽く湊のお尻を蹴る。「ん?」湊が振り返る。ルナが笑った。「やるじゃん♡」耳元で囁く。「家帰ったら、ご褒美のルナちゃんスペシャルな♡」
その瞬間、湊の鼻の穴がぶわっと広がった。「そ、それって……期待していいやつ?」「もちろん♡」湊が固まる。「ぽっぽっぉぉぉぉぉ!!」意味不明にその場で暴れ始めた。「バカっ!」ルナが叩く。「落ち着け!」ひまりが父親を見上げる。「パパ……」真顔で父を見つめる。「お兄ちゃん、機関車になっちゃったよ」藤堂が頷いた。「うん……」真顔で見つめ返す。「あとでお薬あげようね…」
◇◇◇
ドラッグストアからの帰り道。ひまりは湊のリアカーの中で布をかぶって揺られている。大人たちは周囲を警戒しながら歩く。だが、湊は鼻歌。ルナはデンスパをぶんぶん素振り。豪鉄は薬棚リアカーを引きながら口笛。サヤカとチビは、まるで朝の散歩だった。その横で、湊が小声で聞く。
「ねぇ」ルナを見る。「ルナちゃんスペシャルって何?」ルナがにやっと笑う。「えぇぇ、もったいな!今聞いちゃう?」「えぇぇぇ、聞いちゃダメなやつ?でも気になる!」「まぁ、いいけど」湊に顔を寄せる。「もう我慢できなくなっちゃうよ?」「ふぁっ!?」湊の顔が赤くなる。「そんな凄いの!?」慌てる。「そんなハードル上げて大丈夫!?凄いの期待しちゃうよ!」ルナが胸を張る。「ふっ」余裕の笑み。「湊の想像…余裕で越えるよ♡」そして笑った。「あははっ!てか鼻の穴膨らましすぎ!」「やめて!茶化さないで!今絶賛妄想中♡」
後ろで大野が藤堂を見る。「なぁ」苦笑い。「今って、世界終わってるよな?」藤堂も笑った。「……えぇ」周囲を見る。この異常な空気。でも、不思議とこのメンバーでいると安心する。「この人たち以外の空間はね…」大野が笑う。「あははっ!確かに。なんか……どうでもよくなるな」空を見る。「この先のこととか」藤堂も頷く。「あはは……」少し肩の力が抜けた。「私もそんな気がしてきました」
その時だった、前方に市役所が見えてきた。だが、空気が違った。湊の顔から笑みが消える。
「……やっぱりね」小さく呟く。豪鉄もディアドロップサングラスをクイッと上げた。「そうじゃな」低い声。「儂もそんな気がしておったわ」
そこには、即席バリケードをよじ登るゾンビたち。中から響く悲鳴。壊れかけた扉。逃げようとしている人達。そして、まだ戦っている人影。物資が届いても何も終わっていなかった。
続
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