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第18話 【ゾンビに襲われた推しを抱っこして逃げたら全部見られてました】


 ショッピングモールの女子トイレ。薄暗い空間に、ぽつりぽつりと水滴の落ちる音だけが響いていた。

「ふぅ……」ルナは小さく息を吐く。こんな世界になってから、トイレ一つ行くにも気を遣う。


「まったく……」用を済ませ、お尻を拭きながら苦笑する。「デート中にトイレでビクビクするとか、どんなロマンチックだよ……」外では湊が待っている。だから大丈夫、そう思っていた。


 その時だった。コツ……。「ん?」足音。誰かがトイレの中を歩く音がする。ルナは少しだけ表情を緩める。「おいっ!変態!覗きに来たのか?」わざと軽い調子で声を掛ける。


 返事は無かった。「……おーい?」静寂。

 そして、、「おぁぁぁぁ……」低い唸り声。ルナの背筋が凍った。「……っ」心臓が嫌な音を立てる。聞き間違いじゃない。この世界で何度も聞いた声。ゾンビだ。ルナは咄嗟に口を押さえた。


「おい……ふざけるなよ……湊がでしょ…?」小声で呟く。「マジで怖いんだから……やめてよ…」

「ぉぉぉ……」声が近い。そして、ドンッ。

「っ!?」個室のドアが揺れた。ルナは反射的に息を止める。ドンッ。ドンッ。重たい音が響く。


(うわぁっ!やばい!本物かよ!)頭の中で警報が鳴る。(ゾンビだ!そりゃ湊も女子トイレの中までは見ないよな!てかあいつ!外に居ないのか!?この音聞こえてないのか!?)冷や汗が首筋を伝う。選択肢が頭を巡る。


(飛び出して一気に湊に抱きつくか?いや無理だ!居なかったら詰む…それにドア開けた瞬間いたら終わる!じゃあ隠れる?湊が気付くまで?)その瞬間、ドンッ!!ドアが大きく揺れた。「ひっ……」思わず声が漏れそうになる。ルナは必死に口を押さえた。

(うぅぅぅっ!こぇぇぇよ!!さっきしたのに漏れそうだよ…ドア壊れたら死ぬって!!)その時だった。視界の端に違和感が映る。


「……あっ」ドアの鍵。固定しているネジが半分ほど外れていた。ガタガタと揺れている。


(あっ……)嫌な予感が頭をよぎった。(これ……ダメなやつだ……)次の瞬間。バキンッ!!「っ!!」ドアの鍵が外れた。ルナは反射的に飛び退く。開いたドアを咄嗟に盾のように立て、その裏側へ身を隠した。心臓が喉から飛び出そうになる。


「ぁぁぁぁ……」ゾンビが個室へ入ってくる。足音。生臭い血の臭い。近い。近すぎる。ルナは震える手で口を押さえた。


(お願い……気付かないで……お願いだから……)

 ゾンビはゆっくり個室の中を見回している。倒れたドアの向こう側。ほんのわずかな死角。そこにルナは身を縮めていた。


 見つかるな。見つかるな。見つかるな。そう願った。


 だが、ふとドアの隙間から覗いた視線。

 濁った充血した目。自分で引っ掻いたであろう傷だらけの顔。そして。ルナとゾンビの目が合った。


「…………」「…………」時間が止まった。

「湊ぉぉぉぉぉ!!」その瞬間、ルナが絶叫する。「助けてぇぇぇぇぇぇ!!」返事は無い。聞こえてくるのは、「ぁぁぁぁぁ……」ルナに気付いたゾンビの唸り声だけだった。

「いやっ……!」ゾンビが隙間へ手を伸ばしてくる。

 腐りかけの指先。爪の割れた手。それが少しずつ隙間から近付いてくる。「くんなって!!」ルナは必死にドアを押さえた。「マジで!!」


 ぐぐぐっ、、ゾンビの力でドアが少しずつ動く。

「いやっ!!」ルナも全力で抵抗する。「やめろっ!!」だが、体格差は大きかった。ミシッ。ドアが軋む。ぐっ。さらに開く。「うわぁぁぁぁ!!」ルナの腕が震える。汗で手が滑る。もう限界だった。


 そして、ガタンッ!ドアが完全に開いた。


「……あ」目の前。ほんの数十センチ先。ゾンビが立っていた。「ぁぁぁぁ……」血だらけの口が開く。ルナはその場で固まる。逃げ場は無い。武器も無い。距離も無い。


「……ぁぁ」小さく声が漏れる。「これ…だめだ……」心臓が嫌な音を立てる。「終わった……」


 そう思った瞬間だった。バタバタバタッ!!遠くから激しい足音が聞こえた。「ルナちゃーーーん!!」聞き慣れた声。「ごめーーーん!!」ルナが目を見開く。「俺もトイレ入ってたぁぁぁぁ!!」「このタイミングかよぉぉぉぉ!!」思わずツッコミが飛び出した。


 ゾンビも突然の大声に反応する。「ぁぁ?」顔が音の方へ向いた。その隙だった。「うおぉぉぉぉっ!!」ルナが渾身の前蹴りを放つ。ドゴッ!!ゾンビがよろめく。「どけぇぇぇ!!」そのまま個室から飛び出した。「はぁっ!はぁっ!」全力疾走。背後では、「ぁぁぁぁ!!」ゾンビも追いかけてくる。


「ぎゃぁぁぁ!!来てる来てる来てる!!」女子トイレの入口付近。そこには湊が立っていた。両腕を広げて飛び込んで来いと言わんばかりに「ルナちゃん!!」「湊ぉぉぉぉ!!」「おいでぇぇぇ!!」「今行くぅぅぅぅ!!」ルナは迷わず飛び込んだ。


 ぎゅっ。湊に抱きつく。その瞬間。バサッ!湊が持っていた大きな布が二人を覆った。まるで大きなマントのように。ゾンビが近付いてくる。「ぁぁ……?」


 だが、目の前にいたはずの獲物が消えた。ゾンビは困ったように首を傾げる。「ぅぅ……?」右を見る。左を見る。キョロキョロする。そしてそのまま、ふらふらと別の方向へ歩いていった。


 静寂。数秒後。湊が小声で言う。「……大丈夫?」「…………」「もう居なくなったよ…」「…………」「ルナちゃん?」返事が無い。布の中を見ると、ルナは湊にしがみついたまま震えていた。

「まっじで……死ぬかと思った……」かすれた声。「ご、ごめん……」「いや……」ルナは深く息を吐く。「あのバキバキの目……」思い出しただけで鳥肌が立つ。「湊ぉぉぉ、こえぇぇぇよ……」「あはは……」

「笑い事じゃねぇ……」


 しばらくそのまま抱きついていたが、ルナがようやく落ち着いてきた頃。湊が何かに気付いた。

「……ルナちゃん」「なに……」「その……」湊が手の位置を少し逸らす。「ズボンとパンツ、トイレに忘れてない……?」「…………」ルナ、固まる「…………」女子トイレを見る。個室を見る。さっきのゾンビの気配を感じる。

「…………」「ルナちゃん?」ルナは真顔で呟いた。「もうあいつにあげる……」「えぇぇぇぇ!?」「いらんっ!!ノーパンでいいっ!!」「いやでも一応……!」「いらんっ!!絶対いらんっ!!」ショッピングモールに、ルナの悲痛な叫びが響いた。


◇◇◇


 女子トイレ事件のあと。ルナは湊の首にしがみついたまま離れなかった。


「まだ、怒ってる?ごめんってぇ……」「ダメ。許さない」「いや、ほんとごめんって」「女子トイレでゾンビと二人きりになったんだけど?」「あはは、返す言葉もございません……」「笑うな!」湊は肩を落としルナを抱っこしながら、二台のカートを交互に押して進む。


「ねぇ、そろそろもう下りる?」「絶対嫌」「もう大丈夫だって」「いや! 絶対どこかにいる!」「いないって」「いる!」即答だった。湊は苦笑する。

「車までこのまま?」「このまま」「手がぷるぷるしてくるよ…」「知らない」「理不尽だなぁ。ねぇ、もうゾンビいないから下りようよ?」「いや!絶対ここにいる!車まで絶対下りないし、離れない!」とグイグイと抱きつく。生尻をぐいっと持ち上げる湊。鼻の穴が膨らむ。

「ねぇ、下、直で当たってるんだけど…」「えっ、いや、だってお尻むにむにしてるから…」「はぁ、あんた、よくこの状況で…てか…ちゃんとしまってある?なんか生々しい感触なんだけど…」「えっ…あっ、チャック締め忘れてる…」「はぁぁ」と呆れる。そんなやり取りをしていた、その時だった。


 湊の表情が変わる。「……あれ?」「ん?」「ルナちゃん…ちょっと静かにしてて…」ルナも息を止める。遠くから聞こえる足音と呻き声。ひとつじゃない。

 薄暗いショッピングモールの通路。あちこちから聞こえる唸り声。バックヤードに閉じ込めたはずのゾンビたちが、物音に反応して動き始めていた。


 湊が小声で「ねぇ、ルナちゃん…走っていい?」「なんで?てか早くチャック閉めてよ…危ないって…」「いや…チャックよりも目の前が危ないかなぁ…って」「えっ、なに…」と言った所で、湊走り出す。ルナは驚きしがみつく。「うわぁぁ!急に走らないで、危ないっ!てか、そんな揺らしたら下も危ない!」「ごめん!でも、手もぷるぷるしてきたし一回車に戻る!ルナちゃんは静かに抱きついてて!」とルナを抱っこして走る。だが揺れ方が危ない。

 ルナが小声で「あ、ちょ、や、湊、角度、はい、っ……んっっっっ!!」湊立ち止まる。ルナは蕩けた顔。

「ごめん…少し狙ったら一気に…痛かった?」「いや…狙ってたのかよ!もうあんたの形になってるから痛くは無かったけど……軽く…んっ♡」とギューっと抱きつく。

 湊がギュッと抱き返して「これで安定したから一気に行くよ!二つの意味で!」「アホ♡全然上手くないわっ!あんっ♡揺らすな…」抱っこしたまま車に向かう二人。揺れるたびになぜかルナは蕩けた顔。湊はその顔をたまに見る。ルナは息荒く「湊、顔見ないでぇぇ♡恥ずかしい♡」「はぁぁぁん!ショッピングモールデート楽しいぃぃぃ!」「こんなデートあるかぁ!!」


◇◇◇


 そして二人は車に到着。バタンとドアを閉めるとルナから濃厚なキス。「んぷぅ♡ルナちゃん、カート置きっぱなしだから取りに行かないと…」「ダメっ!こっちからにして!死にかけて色んな意味で私のスイッチ壊れた!」とまた濃厚なキス。


 そして1時間後、シートでぐったりする二人。

 湊が満足顔で「俺、カート取ってくるね…」と言うと、ルナはホクホク顔で「頼んだ…私は…寝る」「あははっ!りょ〜かい♡」そして湊はまたショッピングモールへと戻って行った。


◇◇◇


 ショッピングモールの駐車場へ続く通路を、湊はご機嫌な足取りで歩いていた。両手にはカート。ガラガラガラ。大量の荷物を積んだ二台のカートを器用に押しながら進む。


「ブーンブーン♪」なぜか口でエンジン音まで再現している。「右に曲がりまーす」ガラガラ。「危険物積載車通りまーす」ガラガラ。周囲にはゾンビがうろついているが、湊にはまるで関係ない。音に反応して近寄ってくるものの、本人を見失って首を傾げるだけだ。


「あははっ!今日も平和だなぁ」実に楽しそうだった。だがその時だった。


「あの……」「ブーンブーン♪」

「あの……」「ブンブブーン♪」

「生きてる人ですか……?」「ひぃぃぃぃぃぃっ!!」湊が飛び上がった。カートがガシャンと揺れる。

「誰っ!?!?」「静かにしてっ!」慌てた女性の声。湊が辺りを見回す。「どこ!?」「こっち!」

 声のした方向を見ると、下に逆さまに置かれた段ボールの隙間から、若い女性が顔を出していた。


 ぼさぼさの髪。疲れ切って汚れた表情。それでも生きている人間だった。

「……人?」「人です!」「よかったぁぁぁ……」「こっちの台詞なんだけど!?」女性は思わずツッコんだ。湊は胸を撫で下ろす。「いやぁ、最近ゾンビしか会ってなかったからさ」「その感覚の方が怖いよ……」女性は呆れたように息を吐いた。


 だがすぐに表情が曇る。「お願い……助けてください……」震える声だった。「お爺ちゃん家に帰りたいの……」


 その言葉に湊は首を傾げる。「帰ればいいじゃん?」「は?」「え?」二人とも固まる。

「いや、この状況で帰れないから困ってるんだけど?」「あっ?」湊はようやく理解した。

「あー!そうか!普通は無理か!」「そう!普通は無理なのよ!どこ行ったって追いかけてくるし…」女性が半泣きで叫ぶ。湊は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「ごめんごめん」そしてニッと笑う。「オッケー!じゃっ!帰ろう!送ってくよ」あまりにも軽い返事だった。

 女性は一瞬ぽかんとする。「……随分簡単に言うのね」「そう?」「この状況でだよ?」女性はショッピングモールの中を見回した。


 遠くから聞こえる呻き声。徘徊する大量のゾンビ。

 普通なら絶望する光景だ。だが湊は首を傾げるだけだった。

「まぁ何とかなるでしょ」「何とかならないから皆あれになっちゃったんだけど……」女性は乾いた笑いを漏らした。


 そして少しだけ真剣な目になる。「さっきから見てたんだけど……」「ん?」「なんであなた襲われないの?」湊が固まる。「えっ?見られてたの?」「うん。見てたよ」

「どこから?」「ずっと」「ずっと!?」「うん。ずっと」湊の顔が引きつる。女性は続ける。「その……」「うん」「彼女さんと抱き合ってイチャイチャしてるところも」「……うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」湊が頭を抱えた。


「見てたの!?」「だから見えてた」「全部!?」「暗いからだいたい」「ごめんなさいぃぃぃぃ!!」全力で土下座した。女性は思わず吹き出す。「ぷっ、別に謝らなくていいから」「二人だけだと思ってたんだよぉ……」「仲良いなって思って見てた」「恥ずかしいぃぃぃぃ……」湊は耳まで真っ赤だった。


 しばらく悶絶した後、ようやく立ち上がる。

「まぁ、その……」少しだけ照れながら笑った。「見せちゃったのはごめん」「ううん」「それで、なんで襲われないかだけど」湊は近くを歩くゾンビを指差した。「なぜか俺、あいつらから見えないんだ」「……え?」「声は聞こえるみたいだけど、人として認識されない」女性の目が大きく開かれる。信じられない。でも今まで見てきた光景を考えれば説明がつく。


「だから」湊は笑った。「助けられるよ」

 その言葉に女性はしばらく何も言えなかった。

 絶望しかなかった世界で、初めて希望みたいなものを見た気がした。

「……変な人」「あははっ!よく言われる!君も段ボール被って変な人」「生きるためっ!普段は被らないわよ!」湊はカートの取っ手を握り直す。


「じゃあ行こうか」女性は小さく頷いた。ショッピングモールの薄暗い通路の中。大量のゾンビに囲まれながら。不思議なくらい明るい声が響いた。


「まずは自己紹介からかな!」「え?」「俺、湊!」女性は少しだけ笑う。そして答えた。「あはは……私は、サヤカ。お願いします」


 終末世界の片隅で何かが静かに始まろうとしていた。



            続

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