第8章 片目の男
峠道の岩場で、五つの人影が下りてきた。
石が踏まれる音が、乾いた音を立てて谷へ落ちる。先頭の男は大柄で、革の胸当てをしている。肩に担いだ棒の先に、白い毛皮が一枚ぶら下がっていた。雪潜の毛皮だ。血の匂いは薄いが、獣の生臭さだけは風に乗って先に届いてくる。
左目がない。
眉間から頬へ、古い傷が一本走っている。去年の師走、荒れ野の小屋で会った男だ。あのときも左目はなかった。ダリオは剣の柄に手をかけた。かけたまま、抜かない。
「剣を抜かなくていい」ヴィルマが小声で言った。
「わきまえてる」ダリオも小声で返した。
後ろの四人は荷を背負い、手に槍か斧を持っていた。足取りが重くない。山に慣れている。ケスの姿は見えないが、上の岩の稜線に黒い点が一つ、じっとしていた。
五人は二十歩ほどの所で止まった。
先頭の男が、ダリオを見て口の端を上げた。
「師走の剣士か。また北か」
「仕事だ」ダリオは言った。
「壁の街の連中は、雪が解けると決まって北へ向かうな」男は毛皮の棒を持ち替えた。「羊でも失くしたのか」
「魔物だ。上のほうでな」
男の視線が、ダリオの背後へ移った。リナ、ブリギッテ、パウル、そしてヴィルマを順に舐めるように見て、ヴィルマの所で止まった。
「姐さん、連れてきたのか」
ヴィルマが一歩、ダリオの横に出た。
「組合の者だ、ゴルム」
(ゴルム)
ダリオはその名を初めて聞いた。去年の師走、小屋で会ったときは名を名乗らなかった。ダリオも訊かなかった。野盗と剣士が名を交換する場面ではない。
「姐さんを知ってるのか」ダリオは訊いた。
ゴルムはヴィルマを見たまま答えた。
「北の者は、みんな知ってる」
それ以上は言わなかった。ヴィルマも補足しなかった。ダリオは二人の顔を順に見て、深く訊くのはよそうと判断した。北の村と山の関係は、壁の街の帳簿には載っていない。
「南から来るんだろう」ゴルムは話を変えた。「今年は南から来る荷が多い。川舟が増えたんだとよ」
「知らんね。俺は山の仕事だ」
「ほう」ゴルムは片目を細めた。「山の仕事なら、まあいい」
そして、ゴルムはダリオの顔をまじまじと見た。視線が顎のあたりで止まる。
「なんだ、その髭は」
ダリオの髭は、右が短く刈られ、左の先が焦げて縮れている。祝の日の蝋燭の仕業だ。鏡を見るたびに、ダリオ自身も腹が立つ。
「揃えてる途中だ」
「途中か」ゴルムは納得した様子もしなかった。「剣士は顔で食うんじゃないのか」
「剣で食ってる」
「その割には、荷が重そうだな」とゴルムはダリオの背の包みを見た。「黒パンか。十二本なら、まあ、六日だな」
数え方が妙に正確だった。ダリオは無意識に荷の紐を握り直した。
「で、用はなんだ」ダリオは訊いた。「通り過ぎるだけなら、それでもいいが」
ゴルムは少し黙った。手下の一人が、荷から水袋を出して飲んだ。
「北の砦には手を出すな」ゴルムは言った。「あそこの犬は人の匂いを覚える」
「犬?」
「砦の衆だ。灰狼の連中のことだよ」ゴルムは棒で北の尾根を指した。「一度会えば、次に会ったときも覚えている。二度会えば、十年来の知り合いみたいに鼻を寄せてくる。手を出していい場所じゃない」
「手は出さん。見て報せるだけの仕事だ」
「そうか。それが一番だ」
ゴルムは少し声を落とした。
「上に、雪潜がもう二匹いる。坑のほうから下りてきた。昨日、一匹仕留めた」
棒の先の毛皮が、風でひらりと揺れた。
「二匹とも、でかいぞ。雪のない岩場でも速い。昨日のは夜に来た。焚き火の光に気づいて、回り込んでから飛び出してきた。一匹はなんとか仕留めたが、あと二匹は気をつけろ。音で探ってくる。足音を止めても、呼吸が大きいと分かる」
「焚き火は焚かないほうがいいか」
「小さく焚け。石で囲め。それから」ゴルムは自分の左の目元を指した。「あいつらは上から飛びかかってくる。目線より下を警戒しろ」
「片目の男に、目線の話か」と手下の一人が小さく笑った。ゴルムは振り返らなかった。手下はすぐに笑うのをやめた。
「村へ降りるのか」ヴィルマが訊いた。
「降りる」ゴルムは毛皮の棒を担ぎ直した。「これを、囲いの柵の外に飾っておく。匂いだけで、羊が半分はおとなしくなる。残り半分は、まあ、運だ」
「野盗が、村に土産か」ダリオは訊いた。
「切れたのは壁の街とだ」ゴルムは答えた。「村と切れた覚えはない」
それ以上は言わなかった。ダリオも訊かなかった。
「気をつけて降りろ」ダリオは言った。
「剣士に言われるとはな」ゴルムは口の端を上げた。「姐さん、道を間違えるなよ」
ヴィルマは首を一度縦に振っただけだった。
五人は隊列を組み直し、来た道を戻って行った。石を踏む足音が、だんだん小さくなり、沢の音に混じって消えた。ケスの黒い点も、いつの間にか稜線から消えていた。あとを追っているのか、先を行っているのか、ダリオには分からなかった。
*
日が傾いて、岩場の影が長く伸び始めた。東の岩はもう日陰で、触るとひんやりしていた。西の岩はまだ暖かく、ダリオはその境目に荷を置いた。ちょうど背中が暖かく、足元が涼しい。
夕飯は干し肉だった。
ダリオは干し肉を、まず両端から均等に齧ることにしている。片側から齧ると、残りが片寄って食べにくい。しかし今日の干し肉は、硬さがいつもより上を行っていた。歯で齧ると、歯茎のほうが悲鳴を上げそうになる。ダリオは肉を手のひらで二、三度叩き、隙間を広げてから齧った。
「硬いですか」ブリギッテが訊いた。
「硬い。だが、硬いのは長くもつってことだ」
「理屈だけは、うまいですね」
リナは自分の干し肉を、小さく削ってから口に入れていた。賢い。ダリオはリナのやり方を真似ようとして、小刀が滑り、指を切らないようにと力みすぎて、肉を岩に落とした。肉は石の上でカツンと音を立てた。拾って、埃を吹いて、齧った。
「あの片目の人、砦のことをよく知ってるみたいでしたね」リナが言った。
「そうだな」
「村と切れた覚えはない、っていうのは」
「さあな」ダリオは肉を齧りながら首を振った。「北のことは、北の者に訊け」
ダリオはヴィルマを見た。ヴィルマは火の番をしていた。小さな火で、石で囲んである。ゴルムの忠告どおりだ。
「あいつは、村の何なんだ」ダリオは訊いた。
「ゴルムは、村の羊を盗らない」ヴィルマは火を見つめたまま言った。
「それだけか」
「それだけだ」
「そうか」
それだけ、というのは、たぶん本当なのだろう。ダリオは、それ以上訊かなかった。そして、姐さんと呼ばれていたことも、腹のどこかで引っかかっていた。北の者はみんな知ってる、という言葉は、はぐらかしのようでいて、嘘ではなさそうだった。去年の師走のときも、この男は嘘をついた感じがしなかった。剣を向けていたときでさえ。
腹がいっぱいになってくると、考えるのが億劫になってきた。
(まあ、いい)
今日の分は、二匹の雪潜と、犬の匂いの話で手一杯だ。姐さんの話は、明日の腹の具合と一緒に考えることにしよう。
火は小さくなった。ブリギッテが灯の術で、各自の足元に小さな光を出した。石に囲まれた火と、足元の灯。夜の山は、その二つと星だけだ。
*
夜半のほうの刻だった。
ダリオは横になったまま、目だけを開けていた。交代の番ではないが、慣れた時間に目が覚める。
風が止んでいた。
そのとき、山の上のほうで、音がした。
シャ、シャ。
雪を掻く音だ。少しずつ、こちらへ降りてくるのではない。横へ移動する音だ。尾根の岩と岩のあいだの、残り雪の斜面を、何かが爪で引っ掻いている。
音は、遠い。だが、雪を掻く音は静かな夜によく通る。
ダリオは眠っている四人とケスを一つずつ目で数え、剣の柄を握ったまま、音の消えるのを待った。
シャ、シャ。
音は、北の尾根のほうへ遠ざかっていった。




