第7章 峠道
皐月七日の朝、カルトブルンに鐘は鳴らなかった。
代わりに、パンを焼く匂いが、布一枚隔てた隣の部屋まで来た。ブリギッテは目を開けて、天井の煤の模様をしばらく見ていた。それから、窓の外の空を見る。東の山の稜線が白く、その上の空は昨日の雨をすっかり忘れて、青かった。
(もう六つ前だ)
村に鐘がないので、ブリギッテは空で時を数える練習をしていた。昨日の六日は曇っていて、昼の刻を数えるのに腹の時計と相談しなければならなかった。今日の空は晴れている。太陽の位置で数えるのは、手習い所で習った算術より、ずっと難しい。
戸口へ行くと、ベアタが炉の前で腕を拭いていた。小柄な体が、よく笑う。よく揺れる。
「よく眠れたかい」
「はい。羊の毛布が、温かくて」
「そりゃあよかった」
卓の上には、焼きたての黒パンが山になっていた。皮の厚い、持つとずしりと重いパンだ。ベアタはそれを布にくるんで、ダリオの荷の上に置いた。
「湿ると堅くなるけどね。あぶれば戻るから」
「帰りも楽しみだ」ダリオが言った。「北の姐さん、おふくろさんが街でパン屋をやったら、俺が毎日買うぞ」
ダリオは荷を担ぎ上げた。布の包みの重さで、肩の布が軋んだ。昨日の夜、四つ目に手を伸ばしかけて引っ込めた男が、今は平然と重くなった荷を背負っている。
ヴィルマは戸口で、靴紐を締め直していた。母親に背を向けている。ベアタはそれを見て、何も言わずに、娘の背中に向かって少し手を上げて、また下ろした。
「行こう」
ヴィルマは言った。振り向かなかった。
村を出ると、昨日の雨で濡れた土が、朝の日差しで表面だけ乾き始めていた。靴の裏に、重い泥がついて、歩くたびに剥がれる。ブリギッテは一行の真ん中を歩いた。一番前はヴィルマ、一番後ろはダリオだ。リナは父のお下がりの杖を持って、ダリオの少し前を歩いている。
畑を抜け、羊の囲いの横を過ぎて、山へ入ると、足元が石に替わった。
*
峠道は、すぐに登りになった。
石ころだらけの道で、足の裏に石の角が当たる。雪解けの水が、道の脇を流れている。水の音が、村にいたときよりずっと大きい。ブリギッテの息が、上がってきた。
(肺が、小さすぎるのかもしれない)
背が高いのに、肺だけが小さいのかもしれない。ブリギッテは、歩きながら自分の体を疑った。息を整えようと口を閉じて鼻で吸うと、喉が乾いた。
袖が、また肘まで上がっていた。
布の袖を、下ろす。手首まで覆う。十歩も歩くと、また勝手に上がっている。薬箱の背負い紐が、袖に引っかかるのだ。仕方がない。下ろして、三歩目でまた上がる。ブリギッテは諦めて、袖のことは袖に任せた。
道の脇に、ハイマツが生えていた。背の低い、這うような松だ。枝を撫でると、松脂の匂いが指に着いた。強くて、少し辛い匂いだ。匂いだけで、指がべとつきそうになる。
岩の上に、小さな黄色い花が咲いていた。豆に似た花だ。名前は知らない。薬草かどうかも分からない。ただ、灰色の岩の上で、鮮やかに黄色だった。風が来ると、茎ごと揺れて、また止まった。
(きれいだ)
それを見て、少し息が楽になった気がした。気のせいだろうけれど。
「水だ」
前のヴィルマが、指を差した。岩場を滑る沢があった。水は白く泡を立てて、石の間を飛びながら下っていた。
*
山の肩に、白いものが、細く一本、立ち上っていた。
煙だ。真っ直ぐに立って、上の風に少しだけ折れて、消えている。雲がない空の中で、それだけが、はっきりと動いていた。
「あれは……」
ブリギッテは目を細めた。
「人の火です」
パウルが言った。
パウルは、煙を見上げていた。白い法衣の裾は、朝の泥で染まっていた。
それだけを言って、パウルは視線を下ろした。それ以上は、誰も訊かなかった。
ブリギッテは、煙を見た。あそこで、誰かが火を焚いている。三日の野営で見た、あの橙の点。あの灯と、この煙は、同じ元なのだろう。
(暖まっているのかな。それとも、合図なのかな)
訊かれる前に、自分で訊いて、自分で首を振った。分からないことは、分からない。
ヴィルマは煙を見て、すぐに視線を足元に戻した。何も言わない。
「行こう」
ダリオが荷を上げた。
ブリギッテは歩き出した。
*
昼になっていた。
日が高くて、岩が熱を持っている。一行は沢のほとりで休むことにした。ダリオが荷を下ろし、リナが杖を置いた。
「水を汲みますね」
ブリギッテは水袋を持って、沢の石へ降りた。
石は、水で濡れて黒く光っていた。よく見ると、その黒い表面はツルツルしていて、苔なのか水なのか、原因がよく分からない。ブリギッテは、一番端の平たい岩に足をかけた。
その瞬間。
足の裏が、右へ滑った。
(あ)
体が傾く。頭の中で、薬箱が肩からずり落ちる姿が見えた。中には、包帯と、軟膏と、鋏と、聖印が入っている。縫い針も一本、予備で入っている。
ブリギッテは咄嗟に、両手で胸の前に薬箱を抱え込んだ。
体はそのまま、後ろへ倒れた。
そして、尻から、水の中へ落ちた。
水は冷たかった。膝まで浸かる。尻のほうが、もっと冷たい。流れが、法衣の裾を下へ引こうとする。
「薬箱は無事です」
ブリギッテは、水に浸かりながら、真っ先に報告した。
薬箱は、濡れていない。両手で死守した甲斐があった。
ダリオが上から覗き込んだ。喉の奥で「くっ」と、笑いを噛み殺す音がした。
「落ちてるぞ」
「薬箱は無事です」
ブリギッテはもう一度言った。
リナが岩の上から手を伸ばして、引き上げてくれた。法衣の後ろが、びしょ濡れだ。水が、靴の中でチャプチャプと鳴る。尻の骨が、岩の一つを覚えている。
「冷たいです」
「当たり前だ」ダリオは言った。「水だぞ」
その時、頭上から風が降ってきた。
ケスだ。鴉人の斥候は、一行の上を大きく旋回して、翼の先で岩の稜線を一度払うように示して、前の尾根のほうへ飛んでいった。
「先へ行く」
風を切る音だけが、返事の代わりだった。黒い影は目の前の岩場を越え、尾根の向こうへ消えた。
ブリギッテは、濡れた尻を気にしながら、水袋に水を入れた。手が震えている。寒さのせいか、尻の痛みのせいか、まだ見分けがつかない。
「濡れたまま歩くと、風邪をひきますよ」
「だな」
ダリオは言ったが、着替えは誰も持っていなかった。
「火を焚きますか?」リナが訊いた。
「ここで焚くと、煙が目立つ」
*
昼を過ぎてしばらく、ケスが戻ってきた。
黒い羽が、日差しの中で縁だけ光った。ケスは一行の前の岩の上に降りて、首を傾げた。羽を、風が一方向へ撫でていく。
「人が来る」
ケスは言った。声が低い。
「五人。片目が一人」




