第6章 羊の囲い
糧倉を出たあと、一行は村はずれの羊の囲いへ向かった。皐月五日の夕方。空は下ろした布のように曇って、北の山の頂は雲に呑まれていた。村の家々の煙出しは、夕餉の支度の細い煙を立て始めていたが、煙は低い雲にぶつかると横へ流れて、どこで消えたか分からなかった。道の泥は、昼のうちに乾きかけたのが、夕方の湿気でまた足裏に吸い付くぐらいに戻っていた。
囲いの前には、若い羊飼いがいた。杖を片手に、口で掛け声をしながら、群れを柵の中へ追い込んでいる。掛け声は短く鋭く、羊の流れを一箇所ずつ曲げていく。羊は白い頭をわっと動かして、泥の地面を埋めた。百を少し超えるか。数える気にはならなかった。囲いの柵は石積みの土台に木の横木を渡したもので、泥に埋まった下のほうは黒く濡れ、羊の毛がところどころ引っかけて残っていた。
囲いの上の高い岩には、鴉人が一人とまっていた。黒い羽。首を傾けて、群れを見下ろしている。岩の灰色の面に、黒い墨の点のように映って、ときどき首の角度だけを変えて、群れの端から端へ視線を動かしていた。
(街で組合が斥候を雇うなら、ああいうふうに探すんだろうな)
ダリオは思って、それきりにした。ケスはとっくに高い所にいた。囲いの門柱の上で、羽を少し広げて、風向きを確かめている。門柱の上のケスと、岩の上の鴉人と、二つの黒い点が、同じ群れを見下ろしていた。
「如月から、三頭と犬を一匹やられましてな」羊飼いは言った。「今夜も、番を増やしてるんです」
「ほう」とダリオは言った。目はもう、囲いの外の泥に落ちていた。
あった。
熊の足に似た足跡だ。ただし、指が六本ある。泥にぐっと沈んで、縁が崩れかけている。ダリオはしゃがみ込んで、自分の長靴を横に並べてみた。拳二つぶんはある。歩幅は、俺の二歩と半といった所か。足跡の底の泥は水を吸って柔らかく、指の間が盛り上がって崩れかけていた。列を追うと、新しいのは湿った黒で、古いのは縁だけが乾いて白っぽく残っていた。
「雪潜だ」
ダリオは言った。
「去年の暮れ、街道で見た。体は馬二頭ぶんだ。長い胴が一本につながって、足で泥を掻いて走る。目は利かんが、音と震えには敏だ」
リナが覗き込んで、半歩引いた。
「六本、指があります…」
「そうだ。数えなくても分かる。多いからな」
ダリオは足跡の縁を指でなぞった。泥は冷たく、ねっとりと指に絡んだ。足跡の列は囲いの外を大きく回るように続いて、柵にいちばん近いところで、横木の下の泥に爪の跡を残していた。
「ここで立ったな」とダリオは言った。「羊の匂いは、風に乗ってここまで来る」
羊飼いは門柱の上のケスを見上げて言った。
「鴉さんは、羊も慣れてるんで平気なんですが、灰狼が来ると、羊が騒いでな。山の衆の灰狼は、囲いへは寄らんようにしてくれてるんです」
「ああ」とダリオは言った。目は足跡から離さなかった。
*
囲いの番小屋の前に、老人が座っていた。竿を膝に、泥靴をそろえて。近くに火桶があって、消えかけの炭が一つ、赤く息をしていた。炭の赤が、夕方の薄い光の中で、いちばん暖かな色だった。老人の顔の皺は深く、煤と泥で、影のところが黒くなっていた。
老人は、ダリオの足元を見て言った。
「坑の水が、冬に引いたんだと。だから、下りてくる」
「坑ってのは」
「山の、古いのだ」
老人はそれきりで、目を囲いの羊へ戻した。誰が言ったのか、とダリオは一瞬思った。が、足元の足跡の列が、囲いの角から北へ、山のほうへ向かって続いているのに目が戻って、訊かなかった。足跡は三歩先で、雪解けの水たまりに切れて、向こう側ではもう分からなかった。水たまりの面には雲がうつって、灰色に揺れていた。
「引いた水が、下への道になる、ってわけか」
老人は答えなかった。竿で泥を一度突いて、また囲いのほうへ目を戻した。竿の先が泥に沈んで、抜くとき、小さな音を立てた。
ヴィルマは囲いの柵をひと回りしていた。縄の結び目を一本ずつ指で引いて確かめ、緩んでいるのを締め直していく。指の動きは速く、迷いがなかった。どの結びをどの順で締めるか、体で覚えているのだろう。泥にしゃがみ、横木の落とし止めを覗き込み、指先で叩いてみる。手の甲の古い火傷の痕が、泥に白く浮いていた。
「北の姐さん、その結び、昔のまんまだな」
「締め直しておいた」
ヴィルマは言って、また次の結びへ移った。
そのあと、ヴィルマは一度だけ、柵の外へ出た。囲いの脇を山へ向かって登っていく道に、荷車の轍が二筋、続いていた。轍の底には水が溜まって、空の灰色をうつしていた。ヴィルマはその轍を一度だけ見て、踵を返して、囲いの中へ戻ってきた。
ダリオは気づいたが、足元の足跡から目を離さなかった。腹が先に鳴った。夕方の冷えが来て、火桶の炭が、赤から灰色へ落ちていった。
*
六日は、朝から支度だった。荷を纏め、水袋を満たし、ブリギッテは薬箱の紐を締め直して、中身を数え直した。包みを開けるたびに、乾いた薬草の匂いが部屋に広がった。パウルはベアタの家の戸口で、法衣の裾の泥を叩いていた。叩くたびに、泥が減るより広がるほうが多かった。
「白いの、その裾、落ちんぞ」
「朝には、乾くでしょう」
パウルは言った。乾くかどうかは、空が決めることだった。空は、朝から曇っていた。雲は昨日より低く垂れて、遠くの木の輪郭をぼやけさせていた。
昼のうちに楔の数を確かめて、水を汲んで、荷は戸口に並んだ。ヴィルマは道具巻きの紐を一度緩めて、楔を並べ替え、また締めた。ケスは軒の下で、羽を一本ずつ手で撫でて整えていた。村に鐘はない。ブリギッテが曇った空を見上げて、昼の刻を数えた。腹の時計が、それを補った。
夕方、ヴィルマが空を見て言った。
「この空は、降る。峠の沢は、雨で膨れる」
「なら、一日延ばしだ」
ダリオは言った。
「雨に濡れた岩と、膨れた沢で滑る馬鹿は、ごめんだ」
夜、雨が降り出した。最初は屋根の上を、指で叩くような音がした。やがてそれは棒で叩く音になり、土壁を伝う水の音が加わった。
ベアタが炉から焼きたての黒パンを出した。皮が厚く、中は熱かった。割ると、湯気と一緒に、酸っぱい麦の匂いが立った。ダリオは一つ、二つ、三つと食べた。四つ目に手を伸ばしかけて、ベアタに笑われて、引っ込めた。
「明日も焼くよ」
リナが、指を折って確かめるように言った。
「一日ぶん、日当が出るのはケスさんだけですね」
「得だ」
ケスは言った。軒端で乾かしていた羽を、指で撫でた。
「俺らはただ、濡れて待つだけか」
ダリオは言った。ベアタがまた笑った。
雨は屋根を叩いていた。家の中には、羊毛の匂いと、羊の脂の灯の匂いが満ちていた。火の傍では、ブリギッテの靴が湯気を立てていた。隣の部屋で、寝支度をする音がした。囲いのほうから、濡れた羊の毛の匂いが、風に乗って少しだけ漂ってきた。羊は雨の中でも、囲いの中で寄り添って、落ち着いているのだろう。
ダリオは戸口の外へ出て、北を見た。
雲が低く垂れて、山の肩は見えなかった。三日前、荒れ野の野営で見たあの橙の点も、見えなかった。雨は顔に当たって冷たかった。軒から落ちる水が、足元の泥に小さな穴を開けていた。
ケスが寄ってきて、軒の下から北を見た。
「雲が厚い」とケスは言った。「灯は見えん」
「降れば、あっちも降ってるんだろうな」
ダリオは言った。雨は、屋根を叩き続けていた。




