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第5章 古い糧倉

皐月五日。曇り。


朝の村は、靄がかかっていた。壁の街の鐘は聞こえない。鶏の声と、遠くの羊の声だけがする。


靄は麦畑の上に薄く張って、畦に並ぶ石をぼやけさせている。足元の土は、まだ朝の湿りを帯びていて、靴の裏に細かい泥がついた。ヴィルマは、慣れた足で畦を歩いた。こっちの道は、石が一つ、覚えのある場所に埋まっている。


通りでは、家々の竈から煙が細く立っている。靄に混ざって、どこまでが煙でどこからが靄か、分からない。鶏が道を横切って、石垣の陰に入っていった。


ヴィルマたちは村長の家へ向かった。石と泥の家だ。ヴィルマは子どものころ、この軒先でよく遊んだ。中に入るのは、いつぶりだろう。


軒は低い。入り口の脇に、鍬と鎌が壁に立てかけてある。泥の壁には、昔と同じ煤の跡があった。煙出しから、竈の火の匂いが漏れてくる。家の前には、ほかの家より少し広い土間があって、水甕が置いてある。甕の蓋のまわりに苔が生えていた。昔から変わらない置き方だ。


村長は卓の前に座っていた。六十の男だ。髭は白く、背が少し曲がっている。


頭上の梁からは、乾いた薬草が束で下がっている。部屋の中は、火と薬草と、土の匂いがする。窓は小さく、紙が張ってあって、外の靄の光だけが卓の上に薄く落ちていた。卓の木は、手の油で黒く光ったところと、削れて白いところとが、混ざっていた。


ヴィルマは懐から、布にくるんだ包みを取り出して、卓に置いた。


包みは、街を出るときのままの結び目だ。布は何度も洗われて、堅くなっている。ヴィルマは結び目に指をかけないで、そのまま卓の上で手を離した。


村長はそれを手に取り、布を開けもせずに、引き出しの中へ入れた。


引き出しは重く、音を立てて閉まった。


「よく持って帰った」


それだけ言って、村長はヴィルマを見た。


目は細く、しわが深い。見るのは短かった。それから村長は、卓の向こうの窓へ目をやった。窓の外は、靄のかかった麦畑だ。


ダリオが前に出て、請負状の写しを卓に置いた。


ダリオは紙の端を押さえて、村長の読みやすい向きに直した。卓の上の灯は消えている。曇りの日にもかかわらず、紙は白く見えた。


村長は紙を目から少し離して、ゆっくり読んだ。読み終わって、うなずいた。


紙は、丁寧に折り返されて、卓の上に置かれた。


「頼む」


それだけだった。


ダリオは紙をたたんで、懐にしまった。


「砦には、何がいる」


ダリオは訊いた。


村長は卓の上の手を眺めていた。すぐには答えなかった。


組んだ指の間に、朝の光が細く差していた。


「行けば分かる。案内はヴィルマがする」


ダリオはうなずいた。それ以上は訊かなかった。


リナが小さく首を傾げた。


「案内って、ヴィルマさんが?」


「道は知ってる」


ヴィルマは言った。


道は、歩いて覚えた。雪の年も、雪のない年も。それ以上は言わなかった。訊かれもしなかった。


村長は、少し声を落とした。


「如月から、雪潜が下りてきてる。羊を三頭と、犬を一匹やられた。夜の囲いの番を増やした」


「三頭か」


ダリオが言った。


村長はうなずいた。それ以上は言わなかった。


竈の火が小さく爆ぜて、部屋の中の光が一瞬ゆれた。頭上の薬草の束が、わずかに揺れた。


*


古い糧倉は村の北側にある。石積みの建物だ。屋根は板で、天井の梁は煤けて黒い。


石は下部ほど粗く積んであって、壁の下のほうは苔で緑がかっていた。扉の脇の石に、縄を巻くための古い鉄の環が埋まっている。いまは、縄は通っていない。


村長が鍵を開けて、戸を押した。中は暗くて、冷たい。埃と麦の匂いがする。


戸の軋みが高く響いて、中の闇が少し揺れた。戸口から入る光が、床の石の上に長く落ちている。光の中に、埃がゆっくり浮いていた。壁の石は、手を近づけると冷たかった。天井の高いところで、何か小さなものが動いて、また止まった。


棚が二つに分けてある。手前の棚は空っぽだ。町へ納める分だ。もう今年の分はない。


手前の棚の板は、袋の跡で四角く薄く摩れていた。棚の上の埃は均しく積もっていて、その上に鳥の足跡が一列、戸口のほうへ続いていた。


奥の棚に、麦の袋が積んである。


袋は粗い織りの麻で、口を縄で縛ってある。縄の結びは、どれも同じ形だった。石の棚に触れている下のほうは、色が少し濃い。袋の一つに、乾いた麦の穂の先が、縄の隙間から少しだけ覗いていた。


ブリギッテが奥の棚に近づいた。


「こちらは」


「山へ送る分だ」


ヴィルマは言った。


ブリギッテの靴の先が、床の埃に半円の跡をつけた。


ブリギッテは袋に手を添えた。


「山の」


そのとき、倉の戸から子どもが顔を出した。村の子だ。片手を戸枠にかけて、もう片手をブリギッテの薬箱へ伸ばした。


裸足で、足の甲に泥がついている。髪は刈ったばかりで、耳の上だけ毛が立っている。靴を脱いで戸口に置いたまま、外から覗いていたのだろう。


薬箱の蓋は少し開いていた。


留め金は、かかっていなかった。


子どもは指で何かをつまみ出した。赤い棘草の実だ。ブリギッテの袖に絡まって、あの晩、薬箱にしまったやつだ。


赤い実は、子どもの指の腹に、逆棘で少しだけ引っかかっていた。


子どもはそれを指で転がして、不思議そうに見た。


「これ、なんだ」


「棘草の実だよ」


ブリギッテは言った。


「布にくっつくんだ。取るのが大変でね」


ブリギッテは袖をまくり上げて、自分の袖口を見せた。毛羽の間に、まだ小さな棘の芯が一本、残っていた。


子どもは実を指からはがそうとして、はがれなかった。実のついた指を、ブリギッテに突き出した。


「返す」


「え?」


「いらないから」


ブリギッテは笑って、実を指から外してやった。そして、「山の」と言いかけた言葉の残りを、飲み込んだ。


子どもは指を服の裾で拭いて、戸口の光の中へ戻っていった。裸足の足音が、石の床で小さく鳴った。戸の外で、待っていた友だちの声がした。


ヴィルマは奥の棚を見た。袋の数は、数えなかった。数えるまでもない。山へ送る分は、いつもそこにある。ただ、見るだけだった。


袋の縄の結び目を、目でなぞっただけだった。どれも同じ形をしている。棚の奥の暗がりに、目は届かなかった。


梁の黒い木に、線の刻みが並んでいる。昔の誰かが刻んだ印だ。四、五、六と数えて、途中でやめている。意味は分からない。村長はそれを見ていない。


刻みは、五本目と六本目のあいだで、斜めに深くなっている。刻んだ手が、途中で疲れたのかもしれない。煤の下で、刻みの白い木目だけが浮いていた。


*


倉の外に出ると、ケスが空を見ていた。


倉の石壁の陰から見上げると、雲は板のように低く張って、端が見えない。


首を傾げて、高い所を見ている。


羽の先が、風に少しだけ伏せられていた。ケスは、首の角度をほんの少しだけ変えた。


「上で、何か見てる」


ケスは言った。


声は低く、静かだった。


ヴィルマも空を見上げた。


目を細めて、しばらく見た。


雲が低い。何も見えない。


風が、北の山のほうから吹いてきた。冷たくはない。土と、遠くの羊の匂いがした。ケスは、まだ空を見ていた。


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