第3章 三つ目の一里塚
皐月三日の昼過ぎ、一行は三つ目の一里塚にさしかかった。
一里塚は、道の横に丸く盛られた土の山で、表面に古い石がいくつか積んであった。塚の裏から、一本の枯れ木が枝を伸ばしていた。赤い棘草は、塚のまわりだけ少し薄い。誰かが何度も踏んだのだろう。
ダリオが、足を止めた。
「少し、待ってろ」
ダリオとリナとケスは、塚の裏へ回った。ダリオは枯れ木の根元に腰を落とし、根のあいだをのぞき込んだ。リナがその隣にしゃがみ、ケスは首を傾げて、石の積み目を見ていた。
根の間の土が、くぼんでいた。石が、一枚、外れていた。
ブリギッテは、道の上から見ていた。ヴィルマも、隣に立って、黙って見ていた。
「去年の暮れ、この下に隊商が閉じ込められてた」
ダリオは、それだけ言って、立ち上がった。膝の土を、二度叩いて落とした。リナが、杖を握り直した。ケスは、外れた石を一度だけ見て、もう見なかった。
それ以上は、誰も何も言わなかった。
(何が、あったんだろう)
ブリギッテは、訊こうと思って、やめた。三人の顔が、同じ冬を思い出している顔だったからだ。枯れ木の枝に、鴉が一羽、とまっていた。ケスが通り過ぎるとき、その鴉が、一度だけ鳴いた。ケスは、鳴き返さなかった。
*
塚を過ぎると、道はまた緩やかに上りはじめた。
午後の日が、右の頬に当たった。風は乾いていて、棘草の赤い実が、風下へ小さく転がっていく。ヴィルマは先頭を歩いた。歩幅は小さいのに、速い。肩の広い背中が、一度も振り返らない。後ろの誰かが遅れると、何も言わずに、少しだけ足をゆるめる。
ブリギッテは、裾の実を取るのを、もうあきらめていた。取っても付く。付いたまま歩いても、死にはしない。
街を出てから、半日しかたっていない。それなのに、北門の灰色の壁はもう見えなかった。振り返っても、道と、赤い棘草と、ゆるい丘の線があるだけだ。ブリギッテは、手習い所の窓から見えていた空の四角を思い出した。あの四角の外に、こんなに広いものがあったのだ。
パウルが、隣で小さく咳をした。法衣の襟もとを、指で押さえている。
「埃ですか」
「ええ。街の埃とは、味が違いますね」
パウルはそれだけ言って、また前を向いた。味が違う、というのがどういうことか、ブリギッテには分からなかった。訊こうとしたが、ヴィルマの背中がまた少し遠くなったので、足を速めた。
夕方、四つ目の一里塚の少し手前で、ヴィルマが足を止めた。道から少し外れた、岩の陰の平らな地面を、顎で示した。
「ここで寝る。風が来ない。水場も近い」
誰も、なぜ知っているのかとは訊かなかった。疲れていたからだ。
ダリオが枯れ枝を集め、リナが火をつけた。火は、一度でついた。リナは杖の先を見て、少しだけ得意そうな顔をした。
日が傾いて、荒れ野の影が長く伸びている。ケスが高い岩に登って、周囲を見回った。羽を広げて、風の向きと匂いを確かめているようだった。しばらくして、降りてきた。
「問題なし」ケスが言った。
「助かります」ブリギッテは言った。
ケスは、空の水袋を二つ掴んで、翼を広げた。夕闇の中へ、水場のほうへ消えた。
ブリギッテは、焚き火の周りに、自分の薬箱と布袋を置いた。薬箱の革の紐は、少し擦り切れていた。街の中で使う分には問題なかったが、外を歩くと、擦れる場所が違う。後で、紐を編み直そうと思った。
リナが、鍋に水を入れて、火にかけた。
「今日は、熱いスープにします」リナが言った。「干し肉と、乾燥した野菜。あと、塩」
「いいですね」
「ダリオさん、薪を足してください」
「おう」
ダリオが、薪をくべた。火が、ぱっと明るくなった。鍋の底が、じきに熱くなって、湯気が立ち始めた。
「あ、熱い」リナが鍋の取っ手に触れて、手を引いた。「熱い熱い熱い。すぐに冷やしたい。ブリギッテさん、お椀、ありますか」
「薬箱の隣に、あります」
ブリギッテがお椀を渡そうとしたとき、リナは杖を握りしめていた。緊張しているのか、指が白くなっていた。
「待ってください。氷で、一気に冷やします」
「氷?」
「はい。見ててください」
リナは、鍋に向かって杖を構えた。眉を寄せて、集中している。ブリギッテは、息を止めて見ていた。魔法使いの術を近くで見るのは、初めてだった。
リナが、杖を振った。
「凍れ!」
鍋の縁に、白い霜が走った。カチッ、という音がして、縁のまわりに、薄い氷の輪ができた。
鍋の中の水は、ぐつぐつと沸いていた。
「……え」リナは、杖を下ろして、鍋を覗き込んだ。「縁だけ?」
鍋の取っ手は、まだ熱い。中の水は、温かいままだ。縁にできた氷の輪は、しばらくして、じわじわと解け始めて、雫になった。
「あの、リナさん」ブリギッテは、慎重に訊いた。「氷の術は、得意ではないんですか」
「得意です」リナは、即答した。「得意……なはずなんです。火は、得意です。氷も、得意なはずです。水を凍らせるのは、火を燃やすのと、同じくらい簡単なはずなんです」
「縁だけ、凍りましたね」
「縁だけです」
リナは、杖を握りしめたまま、鍋の縁の水滴を指で触った。
「冷たい……縁は、冷たくなってるのに」
「火が強すぎるのかもしれません」
「火を弱めても、縁だけ凍るんですかね」
「やってみますか」
「いえ、お腹が空いてるので、今はやめます」
リナは、杖を膝の横に置いた。鍋の縁に残った水滴が、落ちた。
ブリギッテは、お椀を受け取って、スープを注いでもらった。干し肉の塩気と、野菜の甘みが、湯気と一緒に顔に掛かった。
「いただきます」
「めしあがれ」
スープのあとで、ブリギッテは黒パンを火であぶってみた。表面が少しやわらかくなり、麦の匂いが立った。それを見て、全員が自分のパンをあぶりはじめた。
*
夜になった。星が出て、焚き火が揺れていた。
薪の皮が、小さくはじけて、火の粉が一つ、上がった。夜風は、街の夜より冷たかった。でも、匂いが違った。土と、草と、焚き火の煙。街の夜は、石と、油と、人の匂いだった。
ケスが、水場から戻ってきた。羽の先が、濡れて光っていた。
ケスは、満たした水袋を二つ、火のそばに置いた。
ケスは、野営地の脇の岩に、ひらりと飛び乗った。岩は人の背の二倍ほどで、てっぺんは平らだった。ケスはそこに立ち、翼を半分ほど広げて、空を見上げた。
リナは、火のそばで、自分の財布の中身を確かめていた。時々、小銭が鳴る音がした。
「リナさん、何を数えてるんですか?」
「宿代です。街の宿なら、今夜のぶんで銀貨一枚。野営なら、ただです。銀貨一枚、浮きました」
「浮いたお金って、あるんですか?」
「まだありません。でも、数えておかないと、なくなります」
リナは、真剣な顔で、また小銭を鳴らした。
しばらくして、岩の上から、ケスが言った。
「六より多い。群れだ」
ブリギッテは、空を見上げた。星が、いっぱい出ていた。
「何が、群れなんですか?」
「星」
ダリオが、砥石を止めた。
「星を数えてんのか」
「数えない。六より多い。群れだ。多いことは、多い。それでいい」
リナが、ふふ、と笑った。ブリギッテも、少し笑った。星を数えようとしない斥候というのは、初めてだった。
(わたしも、今日、何かを数え始めて、やめたんだっけ)
薬箱の中の赤い実のことを思い出して、ブリギッテは、膝を抱え直した。
パウルは、焚き火から少し離れた岩陰に、書物袋を枕にして眠っていた。白い法衣の裾に、乾いた泥がついていた。ブリギッテは、毛布でも掛けてあげようかと思ったが、起こしてしまいそうなので、やめた。指の煤は、眠っていても落ちていなかった。
*
(街の鐘なら、今ごろ六つだ)
城壁の外には鐘がない。それでも、夕べの祈りは、六つの刻に捧げることになっていた。ブリギッテは、日の沈んだ方角の残りの明るさで、だいたいの刻を当てた。
膝を折って、手を合わせて、目を閉じる。
灯火の教えは、短い。灯りのあるところに、闇は寄らない。灯りをともす者に、災いは迷わない。
「今日も一日、灯りをありがとうございます。道に迷わずに歩けた皆に、感謝します。火の番をする者に、眠りを。眠る者に、朝を」
祈りの言葉が、焚き火のはぜる音に混じった。
祈り終えて、目を開けると、ヴィルマが火の向こうに座っていた。目を閉じてはいなかった。
「ヴィルマさんも、祈りますか?」
「わたしは、灯りを借りる側だ」
ヴィルマは、そう言って、膝に頬杖をついた。
ブリギッテは、それ以上訊かずに、薬箱を枕にしようとした。
そのときだった。
北の空に、小さな灯が見えた。
山の肩のあたりに、橙の点が一つ。じっと見ていると、ゆらゆらと明るさが変わった。街で見る灯りより、ずっと小さくて、ずっと高かった。
「あれは、何ですか?」
ヴィルマが、火の向こうで、北を見た。
「砦の灯だ」
「砦……」
(あの山の上に、人がいるのだろうか)
あくびが、出た。
(あすは、もっと歩くのだから……)
ブリギッテは、薬箱を抱えて、火のそばに丸くなった。岩の上のケスは、まだ立ったまま、北を見ていた。
まぶたの裏に、橙の点が残った。
灯は、朝まで消えなかった。ブリギッテは途中で眠ってしまったので、朝起きたとき、ケスがそう言った。




