第2章 赤い棘草
皐月三日の昼前だった。道は北へ向かって緩やかに起伏を繰り返していて、空はどこまでも高く、青かった。
ブリギッテは、歩きながら首を上げていた。街の中では、視界の端にいつも石の壁があった。鐘楼の尖塔があった。屋根の並びがあった。けれど、ここには何もない。地面と、空と、遠くの山の線だけだ。雲が一つ、鳥のように流れていく。あんなに大きな影が、足元を通り過ぎていくのかと思うと、少し眩暈がした。
「首が疲れませんか」パウルが隣を歩いて言った。
「疲れます。でも、見ていたいです」ブリギッテは言った。「教会の中には、空がありませんから」
「空は、どこにでもありますよ」
「でも、見えないんです」
パウルは、それ以上言わなかった。白い法衣の裾が、風にふわりと膨らんだ。
一つ目の一里塚を過ぎてから、道幅が少し狭くなった。土の道の両側に、背の低い草が生え始める。やがて、その草の色が変わった。緑の中に、赤い色が混じり始めたのだ。遠目には、野原がところどころ錆びたように見えた。
「あれが、赤い棘草ですね」ブリギッテは言った。
「触るなよ」ダリオが前を歩きながら、振り返りもせずに言った。
「どうしてですか」
「わかる」
二つ目の一里塚を過ぎた途端だった。ブリギッテの履いている靴の紐に、何かが引っかかった。見下ろすと、赤茶色の小さな実が、絡みついている。棘の先に、針の先ほどの逆棘がびっしり並んでいて、布の目に食い込む。取ろうと指でつまむと、指にも付いた。
「うわ」
歩いているあいだに、裾にも付いた。袖の先にも付いた。ブリギッテは歩くのをやめて、袖をまくり上げた。白い袖を肘まで捲り、露わになった腕で、裾の実を取り始めた。取った実は、手のひらに置く。赤い、小さな、毛玉のような実だ。
一つ、二つ、三つ。
取ったそばから、また足元の草が揺れて、新しい実が飛びついてくる。
四つ、五つ。
靴紐を解いて、丁寧に取る。紐を通し直す。一歩歩くと、また付く。
「……二十一、二十二」
数え始めていた。手のひらの上の実は、もう小さな山になっている。指で数えると、すぐに二十を超えた。もはや個別に数えるのは無駄だった。全部ひっぺがして、道端に捨てよう。そう思い直したとき、前からダリオの声がした。
「数えるのは、リナの仕事だ」
リナが、麦藁色の髪を揺らして振り返った。杖を握ったまま、眉を寄せる。
「数えません。一枚にもならないので」
「一枚にも、ですか」ブリギッテは訊いた。
「あの実、売れないですから」リナはきっぱりと言って、前を向いた。「換金できないものを数える時間は、損失です」
「わたしは、損失だと思っていませんけど」
「ブリギッテさんは、時間が余っているんですよ」
「そうかもしれません」
ブリギッテは笑って、また実を取り始めた。今度は数えないことにした。
*
昼の鐘のころ、二里の地点で休んだ。
道端の平たい岩に、荷物を下ろす。風が涼しくて、気持ちがよかった。ダリオが黒パンを一本取り出し、拳で叩いて割った。干し肉は、硬い。リナが鍋に水を汲んできて、焚き火の準備を始めた。
「湯を沸かしましょうか」とパウルが言った。
彼は、その場にしゃがみ込んで、鍋に向かって手をかざした。指先が、白く光った。
ブリギッテは、干し肉を噛んでいたが、思わず飲み込んで声を上げた。
「パウルさん。それは灯の術の使い方ではありません」
パウルの手が止まった。鍋の水面に、淡い光が揺れている。湯気は、一筋も立っていなかった。
「そうでしょうね」
パウルは、手を下ろして、光を消した。そして、火打石を取り出して、カチカチと鳴らし始めた。
「灯の術は、灯すものですから」ブリギッテは言った。「熱を出すのには、向いていません」
「ええ。熱量が足りない」
「でも、光は綺麗でした」
「そうですね」
パウルは、火打石の火花を、火口の中に入れた。煙が出て、小さな赤い火種が育った。ブリギッテは、その火種が薪に移るのを、じっと見ていた。
リナが、鍋の水に干し肉を放り込んだ。
「あの、パウルさん」リナが言った。「さっきの、無駄じゃなかったんですか」
「無駄ではありませんよ。灯りの温度を測ったのです」
「測って、どうするんですか」
「覚えておくと、いつか役に立つでしょう」
リナは、首を傾げて、それ以上訊かなかった。
ブリギッテは、パンをもう一切れ食べた。黒パンは、街のものより少し硬かったけれど、味は濃かった。パンくずが、岩の上に落ちた。蟻が一匹、すぐにやってきて、パンくずを運ぼうとした。蟻の体は、パンくずよりも大きかった。
風が吹いて、草の匂いがした。赤い棘草の、少し青臭い匂いだ。
小鳥が一羽、近くの岩に飛んできた。茶色い体で、尾っぽを上下に振っていた。くちばしは尖っていて、目は黒い点のようだった。ブリギッテは、その名前を知らなかった。手習い所で習った本には、灰色の鴉と、白い鳩と、巣に来る雀の名はあったが、この鳥の名は載っていなかった。鳥は、チチチ、と鳴いて、すぐに飛び去った。行き先は、荒れ野の向こうだった。
「名前、何ていう鳥でしょう」ブリギッテは言った。
「知らない」ダリオが言った。「食えるのか?」
「知りません」
「食えるか食えないか、それが大事だ」
「ダリオさんは、何でも食べるんですね」
「腹が減るからな」
ブリギッテは、残りのパンを包み直した。小鳥の名前は、わからないままだった。知らないことが、山ほどある。街の外は、知らないことばかりだ。それは、少し楽しいことのような気がした。
*
昼の休みを終えて、荷を担ぎ直したときだった。
ブリギッテは、薬箱の紐を肩に掛けようとして、袖の内側に、小さな引っかかりを感じた。
赤い棘草の実が、一つ残っていた。
袖を払っても落ちなかった、最後の一つだ。ブリギッテは、それを指でつまみ出した。赤い、小さな、毛玉のような実。棘の先に、逆棘がびっしり並んでいる。
(二十三個目だ)
数え始めて、やめた実の続きだ。
ブリギッテは、それを道端に捨てようとして、手を止めた。初めて城壁の外を歩いた日。赤い棘草が絡みついて、取っても取っても付いてきた実。
薬箱を開けた。中には、包帯と、薬草の乾燥したものと、小さな鉢と、毛抜きが入っている。隅に、何もない隙間があった。
ブリギッテは、実をその隙間に入れて、蓋を閉めた。
(お土産です)
誰に見せるわけでもないけれど、初めての外の、赤い実だ。
ブリギッテは、薬箱を背負い直した。道の端の岩で、ヴィルマが、黙って靴紐を結び直していた。ヴィルマは、あまり喋らない。何かを考えているのか、ただ疲れているのか、ブリギッテにはわからなかった。
(訊いてみようかしら)
そう思って、口を開きかけた。
「ヴィルマさん、その靴……」
ヴィルマが、顔を上げた。
「……いえ、なんでもありません」
「そう」
ヴィルマは、また靴を見下ろした。それから立ち上がって、先に歩き出した。
風が吹いて、赤い棘草の原が、さざ波のように揺れた。
ブリギッテは、薬箱の紐を握った。中で、赤い実が、転がる音がした。




