第1章 北門の銅貨箱
本作はシリーズものです。第一作「夜啼きの涙」からお読みいただけますとよりいっそうお楽しみいただけます。
第一作『夜啼きの涙』:https://ncode.syosetu.com/n2595mv/
皐月三日、朝六つ前の錆び釘亭は、炉の残り火の色をしていた。
赤い炭が灰の中にいくつか埋もれている。空気は沈んでいて、薪の煙と、古い木の匂いが混ざっていた。客はまだ誰もいない。
床板は、歩くたびに軋む。壁のあちこちに、古い釘の跡が黒く残っている。
ダリオはカウンターの端の席から立ち上がった。頭が梁をかすめる。この店の梁は、大男には低い。梁の木は黒ずんでいて、何代もの手垢が沁み込んでいる。剣帯を締め直し、足元に置いた荷物の紐を結び直す。髭に触った。右は短く、左の先は焦げて縮れたままだった。
水差しの水で顔を洗う。水は冷たい。目が覚める。袖で拭うと、夜のあいだの眠気がようやく抜けた。
マスターが奥の扉から出てきて、布に包んだ荷物をカウンターに置いた。白い粉が少し、カウンターの上に舞う。粉は小麦の粉だろう。マスターの手には、粉がついたままだった。
「黒パン十二本と、干し肉です。峠は冷えますから」
「ああ、ありがたく」
包みはずっしりと重い。黒い麦の匂いがした。麻布の目は粗く、中の硬さが手に伝わる。ダリオはそれを肩に担ぎ直した。紐が肩に食い込む。
隅の椅子で、リナが指を折り曲げていた。麦藁色の髪が、炉の火を映して揺れている。机の上には、小銭がいくつかある。指先が、机の面を軽く叩く。
「先月は六人で割りましたが……」
「ケスは日当だ」ダリオが言った。
「では五人で……。あ、分け前は帰ってからでしたね」
麦藁色の髪をかき上げて、父のお下がりの杖の握りを握りしめる。杖は樫だ。握りの部分だけ、手の脂で黒光りしている。
(金の計算だけは、正確だな)
梁の上で羽の音がした。ケスが降りてきた。黒い羽が、炉の火の色を映す。着地は音もない。羽の先には、まだ夕べの名残の埃がついている。
「朝だ」
「ああ」
ケスは首を傾けた。高い所が好きな奴だ。扇のように広げた翼を、すっと背中に畳む。畳んだ翼は、背中の輪郭にぴたりと沿っていた。
戸口の方で、白い法衣の裾が揺れた。パウルだ。大聖堂の近くの宿から、ちょうど朝六つの前に歩いてきたのだろう。指にインクと煤がついている。顔色は、紙みたいに白い。法衣の袖口から覗く手首も、同じ白さだった。
「おはようございます」パウルが言った。
「おはようございます」リナが応じる。
パウルは荷物を置くと、腰に下げた書物袋の紐を直して、静かに壁際の席に座った。視線は、炉の火に落ちていた。
*
大聖堂の前の広場に出た。夜明けの祈りに来た年寄りが、扉の前の石段に二、三人、腰を下ろしている。鐘楼の上の空だけが、もう白い。
広場の石畳は、長年の靴の裏で削れて、真ん中だけ窪んでいる。日はまだ屋根の向こうで、石は冷たい。下町のほうから、溝の水の匂いが上ってくる。
広場の隅から、小さな影が二人、駆けてきた。灰狼の子のハクと、妹のチィだ。下の谷から、祈りの客を目当てに上ってきたのだろう。二つの影は、足音をばらばらに立てて近づいてくる。チィは、右足を少し外に向けて走る。首から紐で木の銅貨箱を吊るしている。箱は木目が剥き出しで、雨に濡れては乾くを繰り返したのか、ひび割れている。紐の結び目は、何度も解かれては結ばれたためか、毛羽立っている。
「谷の祭りの、お灯明の銅貨です」ハクが言った。耳がぴんと立っている。まだ子犬の毛並みだ。チィの尻尾は、左右に振れている。
箱の隙間は、銅貨の縁より少し広い。
ダリオは懐を探って、銅貨を一枚取り出した。箱の中に落とす。カラン、と乾いた音がした。底では、他の銅貨とぶつかる音がした。銅貨は、箱の底で小さく回転してから、止まった。
チィが深々と頭を下げた。しっぽが揺れる。
「いってらっしゃいました!」
「ちがうよ、チィ」ハクが小声で直す。「ありがとうございました、だよ」
「あ」
チィはもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
(いい返事だ)
*
上町へ抜けて、北門への坂を上る。白漆喰の屋敷の陰で、石段にはまだ日が当たらず、冷たかった。坂の上に、北門の灰色の壁が見えた。
北門の前には、トマスが立っていた。治安維持隊の隊員だ。槍を壁に預けて、あくびを噛み殺している。目の下に薄く影がある。夜番の明けらしい。壁に預けた槍の穂先が、朝の光を跳ね返している。
その横に、エーリカがいた。右足をわずかに引いて、弦を外した長弓を肩に担いでいる。革の胸当てには、古い傷跡がある。傷跡は、何度も縫い直された跡を残している。弓は、使い込まれて木が艶を出している。
門柱の陰に、ブリギッテが立っていた。背の高い修道女だ。赤茶の短髪に、そばかす。薬箱を背負い、袖はもう肘までまくり上げてある。大聖堂の夜明けの祈りを済ませて、ひと足先に坂を上ってきたのだろう。
「おはようございます」ブリギッテは、一人ずつに頭を下げた。「今日から、よろしくお願いします」
「おう。よろしくな、薬箱の」
「ダリオ」
エーリカが、紙の包みを差し出した。請負状の写しだ。封蝋はない。
「読んでおいて」
ダリオは包みを開いて、声に出した。紙は薄く、折り目がきつくなっている。折り目の部分は、擦り切れて白くなっている。
『北の村の陳情により、古き砦の有り様を視、あわせて魔物を払う。報ずるを以て、残りの報酬を支払う』
「短いな」
「中身は陳情のほう。ヴィルマが知っている」エーリカはヴィルマを見た。
ヴィルマは、道端の石の上に腰を下ろしていた。腰の道具巻きの紐を締め直したばかりのようだ。顔は日焼けしている。額の汗が、眉のところで止まっていた。足元には、革の靴の踵がすり減った跡がある。
ヴィルマが口を開いた。
「古い砦に煙と灯。魔物が下りてきて、羊を三頭と犬を一匹やられた、だ」
エーリカはうなずくと、一行を見回した。「見たものを、全部覚えてきて。書くのはわたしが書くから」
朝六つの鐘が鳴った。
六打。
音は、街の石に反響して、谷へ落ちていく。
重い門が軋みを上げて、ゆっくりと開いていく。朝の光が、門の外から差し込んでくる。埃が舞っている。埃は、光の中でゆっくりと回っていた。城壁の上から、衛兵が顔を出した。門の軋みは、止まるまでまだしばらくかかる。
*
北街道を歩き出す。
朝の荒れ野の匂いがした。濡れた土と、青い草の匂いだ。風が変わるたびに、匂いの濃さが変わる。夜のあいだに降った露が、草の先で光っている。道の両側の草は、足に絡まない程度に伸びている。
(いい匂いだな)
街の中は焼け石と煙の匂いだが、ここは違う。風が、顔の横を通っていく。遠くで、馬のいななきが聞こえた。街の馬ではない。野の馬だ。野の馬は、飼い馬よりも声が鋭い。
(あの声は、久しぶりだ)
鳥が一羽、頭上を飛んだ。翼の色は、灰色だった。
土の道は、足の裏に柔らかく響く。街の石畳とは違う。ダリオは、請負状の写しを懐にしまった。懐の中で、紙が歩みに合わせてかさかさと鳴った。
街道は、しばらくのあいだ緩やかに下っていた。
「外に出たら、俺は嘘をつけるんだぜ」ダリオが言った。「髭が伸びた、とか」
ブリギッテが薬箱を背中で持ち替えながら言った。
「わたしはつきません」
「つけない」ケスが羽を縮ませて言った。
ヴィルマは何も言わなかった。ただ、前を見て歩いている。背中が少し丸まっている。荷物の紐を、肩の上で持ち替える。
ブリギッテの歩幅は大きい。パウルが、少し速く歩いて追いつく。パウルの法衣の裾が、草の露を払って濡れる。
「砦まで何日だ」ダリオがヴィルマに訊いた。
「村から峠道で、二晩。三日目の夕方に着く」
(よく知ってるな)
そう思ったが、横からリナが別の計算を始めた。
「二晩野営として、パンは一日三本……」
それ以上、訊かなかった。
ヴィルマは、リナの声を聞き流すように、自分の足元を見ていた。足元の道は、ところどころに石が露出している。
振り返らなかった。北門は背中の先で、開いたままだった。




