第23章 閉門の前
皐月十七日の朝は、冷えていた。
夜の間に、山から下りてくる風が変わったらしい。土の匂いが薄くなって、乾いた草の匂いがした。
空は、夜明け前の青灰色。村の家々の窓には、まだ灯りがともっていた。
ベアタは戸口の土間に立って、布に包んだ焼きたての黒パンを荷の上に載せた。布は、粗い亜麻の織り物だ。布越しに、焼きたての温かさが荷を伝ってブリギッテの腕へ届いた。小麦の匂いが、朝の冷たい空気に混じっていた。その匂いは、少し焦げた麦の皮の匂いもしていた。
「これで、道中は食うものに困らないよ」とベアタが言った。
「困らない」
ヴィルマは短く答えて、先に歩き出した。朝の光が、彼女の広い背中を白く照らしていた。
村の石畳は夜露で濡れていて、靴の底が湿る。石の一つ一つが、灰色から薄青色へ変わっていく。柵の内側では、山羊が首を伸ばして、一行の荷の匂いを嗅いでいた。白い山羊の口元には、夜の露がついていた。
街道は南へ下っていた。
村の麦畑は、青い穂を持ち上げて、風のたびにさざ波を立てる。ざわざわと、小さな雨が降るような音がした。畑の土は黒く、足に纏わりつくほど湿っていたが、道の白い砂はもう乾きはじめていた。遠くの畑では、人影が鍬を振っていた。鍬が土に入る音は、ここまで聞こえなかった。
昼を過ぎると、道の両側に赤い棘草が広がった。
赤い色は、朝の光を受けて、少し輝いていた。棘草の背は膝ほどで、先端に無数の実をつけている。実の表面には、肉眼では見えないほどの小さな逆棘がびっしりと並んでいる。
ブリギッテは袖口を固く結んだ。それでも、実は裾と靴紐に絡む。歩くたびに、ぱちぱちと小さな音がした。乾いた豆のさやを踏むような、乾いた音だった。リナのスカートにも、赤い粒がいくつもついていた。
「取れるか」
ダリオが振り向いて訊いた。
「なんとか。ただ、薬箱の留め具の隙間に一つ入りました」
「銅貨五枚の損害ですね」
リナが即座に言った。
「損害は、実ではない。歩みの遅れだ」
ケスが首を傾げて訂正した。
(ここの換算は、まだ慣れない)
ブリギッテは、黙って実を袖から引き抜いた。指先が少し赤くなった。爪の先に、乾いた棘の切れ端が刺さって、ちくちくした。
*
四里目の一里塚の陰で、野営をした。
夕方の光が、一里塚の古い石を橙色に染めていた。風は北から来るが、塚の陰に入ると急に音が遠くなった。
火は石で囲み、小さく焚いた。石は熱を持って、掌をかざすとじんわりと暖かい。夕餉は、ベアタの黒パンと、ベアタが持たせてくれた羊のチーズ。堅かったが、噛むほどに甘かった。チーズの塩気が、パンの甘みを引き立てた。風が岩の陰で渦を巻き、焚き火の煙を横へなびかせた。煙の匂いは、ハイマツの脂っぽい匂いだった。
ブリギッテは、夕べの祈りを済ませてから、北を振り返った。
山並みが、墨を塗ったように黒く横たわっている。その輪郭は、星空の境目ではっきりと分かった。
あの肩のあたりに、橙の点が灯っていたはずだ。峠を越えるまでは、毎晩、あそこが光っていた。夜の闇に浮かぶ、小さな粒だった。風が強い夜も、雨の夜も、あの粒は消えることがなかった。
今夜は、ない。
ただの、暗い夜空だった。星が、山の稜線の上に冷たく瞬いているだけだった。
「もう、焚かなくていい」
ヴィルマが、火の番をしながら言った。声は静かだった。
「水が、坑に戻ったから」
ブリギッテは、頷いた。
焚き火が、ぱっと爆ぜた。火の粉が上って、闇に消えた。
(灯りを、借りなくて済む夜がある)
山は静かだった。けれど、その静けさは、冷たいものではなかった。どこか安堵するような、深いため息のような静けさだった。
*
翌日の道中、ブリギッテは、何度も薬箱の蓋を確かめた。
蓋の留め金を、指で弾いては、カチリと音を確かめる。中身は、動かない。棘草の実の下に、硬く折り畳んだ紙がある。
(先生は、この字を見たら、何て言うだろう)
(街に帰ったら、何を訊かれるだろう)
「砦は、どこにあった」
「山の肩に」
「魔物は、いたのか」
「いました。白くて、目がありませんでした」
「山の衆は、どうしてた」
「元気でした。耳に古い傷のある人もいましたけど」
「食事は、ありましたか」
「麦粥と、山羊の乳のチーズ。甘かったです」
訊かれたら、全部答える。
それしか、できない。
嘘は、つけない。
(アガタ先生には、まず、紙を見てもらおう)
その字が、誰の字なのか。
(先生なら、分かるかもしれない)
空は高くて、雲が南へ流れていた。鳥の影が、地面を横切っていった。ケスが屋根のない空を見上げて、何かを数えていた。三つ、数えては、首を傾げる。
*
十八日の夕方。
三つ目、二つ目、一つ目の一里塚を過ぎた。
街道の白い砂が、だんだんと固い石畳に変わっていく。車輪の轍が深く刻まれ、その底も乾いていた。
夕方五つの鐘が、壁の向こうで鳴った。
北門が見えた。
高い灰色の石壁が、西日に照らされて、半分は橙色に、半分は青い影になっていた。風に乗って、下町の匂いが漂ってくる。麦を蒸かす匂いと、泥と、家畜の匂い。そして、どこからか、鉄を叩く金槌の音が響いていた。
石壁の上には、番の影が二つ、動いていた。
門番のトマスが、槍を持って立っていた。槍の穂先が、夕日を受けて鈍く光っていた。
一行を見て、目を見開いた。
トマスの視線は、まず、ダリオの吊った左腕へ行った。白い布が、剣の柄の上で揺れている。布の端には、古い血の痕が黒く残っていた。
それから、焦げて縮れた左の髭の先へ行った。右の髭は短く、左の先だけが黒く丸まっていた。
視線が、二つの間を何度か往復した。トマスの眉間に、深い皺が寄った。
「……髭は」
トマスは、髭のほうを先に訊くことに決めた。
「焦げた。蝋燭だ」
「……腕は」
「折れた。獣だ」
トマスは、しばらく黙って、それから呟いた。
「大変だったな」
「どうだった」
と、トマスが訊き直した。今度は、まっすぐにブリギッテたちを見た。
「山だった」
ダリオが答えた。
「山だったのか」
「山だった」
一行は、門をくぐった。
夕方六つの鐘が鳴る。
背後で重い音がして、門が閉まった。
朝開く音より、ずっと重い音だった。錆びた蝶番が、軋んで噛み合う音がした。今度は、閉まる音だった。
城壁の影が、長く石畳に落ちている。影の中は、ひんやりと涼しかった。
下町の方角から、夕餉を炊く匂いが漂ってきた。誰かの家の窓から、子どもの声がした。
ブリギッテは、薬箱の底を、掌でそっと押した。
硬い、紙の感触があった。
(明日、アガタ先生のところへ持っていこう)
そう決めて、ブリギッテは歩き出した。




