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第22章 雪が解けたら

皐月十五日の朝、古砦の正門の前で、ヴィルマは荷の紐を締め直していた。

晴れ。岩の肩の空気は冷たいが、日が当たると、すぐに暖かくなる。耳の先だけはまだ冷たい。篝火の灰の匂いが、かすかに風に乗ってきた。

今日、砦を出る。村へ下りて、それから街へ帰る。

ダリオは左腕を首から吊っていた。副木の布は、きつく巻き直されている。剣は右の腰に下げている。

「骨は、まだです。無理をなさらないで」

とブリギッテが朝のうちに言った。

「わかってる」

とダリオは答えた。


中庭の子らは、門まで出てきていた。灰狼の子と蜥蜴人の子は遠巻きに並んで、じっとこちらを見ている。灰狼の子は、尻尾を足に巻きつけていた。蜥蜴人の子の尻尾は、地を引きずっていた。二人とも、手足をじっとさせていた。

鴉人の子が一人、前に出た。翼の縁の小さな指でリナの荷物の口をこじ開け、山羊のチーズを一つ押しこんだ。

「あ、あの」

とリナが言いかけたが、子はもう走っていた。石段を三段いっぺんに降りて、壁の陰に消えた。

リナは荷物の口を閉めて、走った背中に向かって、小さく「ありがとうございます」と言った。

チーズは草の匂いがした。外皮は硬く、ひびが入っていた。


ケスは壁の上にいた。塔の止まり木の穴のあたりで、羽を一度だけぱたつかせる。

「道は、下りだ」

とケスは言った。

「風も、下りだ」

パウルは書物袋を背負って、門柱の影に立っていた。誰も、袋の中を訊かなかった。

オドは中庭の干し草のそばにいた。杖を一度、地面に叩いた。それきりだった。言葉はなかった。地が、あの人の言葉だ。

ヤラが門まで来た。

「送る」

と言って、先に立った。


*


尾根の肩までの道は、ハイマツの低い森を縫う。岩の影が落ちる所には、まだ雪がうっすらと残っていた。日が当たる所には、濡れた岩の黒だけが残っていた。

ヤラは途中、ほとんど黙っていた。肩の平らな岩のところで、足を止めた。岩の陰は深い。登りのあいだ足元を流れていた雪解けの水は、もう地に沈んで、見えなかった。

ここから下は、村の見える道だ。麦畑の向こうで、細い煙が一筋、立っていた。誰かが昼の支度をしている。

ヤラはヴィルマの前に立って、頭を下げ、額を合わせた。灰色の毛の匂いがした。草と土の匂いで、獣の匂いも少しあった。子どものころと、同じ匂いだった。額に、人間と違うぬくもりが伝わった。

「次の雪が解けたら、畑を広げる」

とヤラは言った。

「手を貸して」

「雪が解けたら」

とヴィルマは言った。

ヤラはしばらく、ヴィルマの目を見た。それから、頷いた。

「それで、いい」

ヤラはそこで帰った。岩を回ると、灰色の背は見えなくなった。

ヴィルマは荷の紐を締め直して、下り道に足を踏み出した。


*


下り道では、膝が笑う。

登りのあいだ黙っていた膝が、岩の一段ごとに細かく笑った。下から、見えない何かに揺すられているみたいだった。

リナの膝の笑い方は細かく、時々岩に手をついた。ダリオの膝は笑わない。片腕を吊っていても、下りの歩幅だけは大股だった。

ケスだけは膝で歩かない。岩の上に出るたび、翼を広げて、一行の先を滑るように降りていった。

沢の水は雪解けで濁っていた。岩の窪みに、白い泡がたまっていた。ブリギッテは下りの足元に薬草の芽を探していて、一本見つけて、薬箱に入れた。葉はまだ小さくて、赤かった。

昼の鐘のころ、岩の陰で黒パンを食べた。パウルが水袋を、覚えている順に回した。


夜は岩場に野営した。火は石で小さく囲む。下り道でも、その囲い方は変わらなかった。火の光が、石の裏側に映った。

夕餉は黒パンと、鴉人の子の山羊のチーズだった。皮は硬く、ヴィルマが小刀で切れ目を入れると、薄い皮が岩の上に落ちた。中は、やわらかかった。ダリオが右手で挟んで齧った。

「皮が硬いです」

とリナが言った。

「山のチーズは、あごで食べるものだ」

とダリオは言った。

ブリギッテが笑って、水袋の水を配った。

夜、ケスが岩の上から星を数えて、

「六より多い。群れだ」

と言った。声は静かで、火のところまで届くか届かないかだった。

火の番はヴィルマだった。北の尾根は、星の下で黒く横たわっていた。


*


十六日も、道は下りだった。雪は上の斜面にしか残っておらず、午後には足元が土に変わった。土の匂いは、ぬるい土の匂いだった。

夕方五つごろ、麦畑の向こうに、石と泥の屋根が並んで見えた。

「北の姐さんの村は」

とダリオが言った。

「羊の匂いがするな」

村の口の羊の囲いでは、羊が一斉に顔を上げた。ひづめの音と、糞の匂い。出るときと同じだった。番の老人が手を上げたので、ヴィルマも手を上げた。


ベアタは家の前にいた。手に、布の包みを持っている。前掛けには、粉の跡がついていた。パンでも焼いていたのだろう。

「ああ、帰った」

ベアタはまずヴィルマの顔を見た。それから一行の荷を見て、それからダリオの腕を見て、右の短い髭と、左の焦げた先を、順に見た。

「髭の次は腕かい」

「山の土産だ」

とダリオは言った。

ベアタは笑って、包みをヴィルマに渡した。

「帰りの道中の分。羊の乳のチーズだ。堅いから、齧るのに時間がかかる。時間のかかるものは、旅にいい」

布は、堅い結び目で閉じてあった。

リナが包みを手のひらに載せて、重さを測った。

「……いいチーズです」

「そうよ」

家の中は、羊の脂の灯と羊毛の匂いがした。床は、掃き掃除をしてあった。


夕餉の前に、ヴィルマは村長の家へ行った。

村長は炉のそばに座っていた。訊かれたことにだけ答える男だ。薪が、低く爆ぜていた。

ヴィルマは入り口に立ったまま、二つのことを伝えた。言葉は少し遠くに置いた。

「山の衆が、夏のうちに三月、羊の番と柵の直しをする。償いだ、と青年会が言った」

村長は頷いた。

「坑の水門を、新しい梁で閉めた。水は、坑に戻った」

「……水が、戻ったのかい」

「戻った」

村長は炉の火を見て、それから、またヴィルマを見た。

「白いのは」

「雪潜のことは、分からない」

とヴィルマは言った。

「でも、夏のうち、山の衆が羊の番をする」

「わかった」

村長は、それ以上、何も訊かなかった。ヴィルマも、それ以上は言わなかった。


*


夜、台所で、ベアタが山羊の乳を温めていた。

ほかの者はもう寝ていた。ダリオは炉のそばで息が長くなっていた。ケスは「屋根で寝る」と言って、外に出ていった。

ベアタは乳を椀に注いで、ヴィルマの向かいに座った。湯気の匂いは、甘かった。

「あんた、残るかい」

ヴィルマは、椀の湯気を少し見てから、答えた。

「わたしが行く。訊かれたら、わたしが答える」

ベアタは、しばらく黙っていた。

「……街で、訊かれるのかい」

「組合の長が書く。見たことを、わたしが答える」

「……そうかい」

ベアタは立ち上がった。もう温まっていた鍋を、また火にかけた。細かい泡が立って、はじけた。その音のほうが、言葉より大きかった。

「腹いっぱい、飲んで行きな」

「飲む」

「次に帰ってくるのは」

とベアタは言った。

「雪が解けたら」

ベアタは笑った。

「それ、山の衆にも言ったんだろ」

「言った」

「じゃあ、二重の約束だ。破ったら、両方に怒られるよ」


寝る前に、ヴィルマは道具巻きを開けた。革は、体温で柔らかくなっていた。

父の楔は三本。二本は山の水門の梁に打ち込んである。残りの一本が、底で冷たかった。

ヴィルマは台所の引き出しを開けた。木の匙と、布切れと、古い砥石が入っていた。

父の楔を一本だけ、母の台所の引き出しに戻した。

引き出しは、ゆっくりと、堅く閉まった。


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