第21章 白札
皐月十四日。晴れ。
朝の光が、病人の間の石の床に長く差していた。光の中で、細かな埃が浮いていた。石の壁は、夜のあいだに溜めた冷たさを、まだ放っていた。
若い蜥蜴人が、壁に手をついて、立ち上がっていた。四本の指が、石の面をしっかりと押さえている。青灰色の皮膚は、乾いて、ひび割れてはいない。足首の傷は、ブリギッテが毎日洗って、灯の術を当てた甲斐があって、膿みも熱もない。傷口の縁は、薄い桃色になっていた。
「まだ寝ていてください」
と、ブリギッテは言った。
「足は、動きます」
と、青年は言った。
彼は、ゆっくりと、足を踏み出した。冷たい床の上で、足の裏が広がる。蜥蜴人の体温は低い。触れると、その冷たさが、骨まで染みてくるようだ。彼は、もう一歩、踏み出した。体が揺れたが、倒れなかった。
「歩けます」
と、彼は言った。
「立っているだけでも、えらいです」
と、ブリギッテは言った。
彼は、ブリギッテを見た。目は、黄色く、瞬きが少ない。その目は、ブリギッテの顔を、まっすぐに見ていた。
「温かかった」
と、彼は言った。
「光が」
彼は、自分の足首に、そっと手を当てた。
ブリギッテは、頷いた。薬箱の留め金を、きちんと閉めた。箱の中には、干した薬草と、油と、布切れが入っている。匂いは、少し苦くて、少し土の匂いがする。病人の間の匂いに、混ざっていた。
「また明日、見に来ます」
と、ブリギッテは言った。
彼は、小さく頭を下げた。その動作は、不器用だったが、丁寧だった。
*
倉の二階の寝床から、ダリオが降りてきた。
石の階段を、一段ずつ、重心を右に置きながら降りてくる。左腕を布で吊っている。顔色は、昨日よりましだ。髭の焦げた左側が、朝の光で少し白く見える。ブリギッテは、彼の足元を見た。革のブーツが、石の段を踏む音がした。その足取りは、昨日よりしっかりとしていた。
「座って」
と、ブリギッテは言った。
彼は、壁にもたれて座った。石の壁は冷たいが、彼は気にしないようだった。彼は、大きく息を吐いた。
ブリギッテは、副木を外す。木と皮の紐が擦れる音がした。結び目は、緩んでいなかった。紐を解くと、皮膚に紐の跡が赤く残っていた。腕を出す。腫れは、昨日より引いていた。青黒い痣が、副木の縁からはみ出していた。
ブリギッテは、指で、その腫れの周りを押す。ダリオは、顔をしかめた。
「痛いですか」
「痛い」
と、ダリオは言った。
「動かしてみて」
彼は、五本の指を、ゆっくりと開いた。指の先は動く。手首は、少し硬い。前腕を回そうとすると、彼は眉を寄せた。
「腫れは、引いてきました」
と、ブリギッテは言った。
「でも、骨は、まだくっついていません。無理をすると、またずれます」
「何日だ」
「少なくとも、あと三日。吊ったままにしてください」
「三日か」
「三日です」
ブリギッテは、掌に灯をともした。白い光が、ゆっくりと膨らんだ。彼の腕に、そっと当てる。温かさが、痛みを和らげる。癒しの術は、痛みを取り、熱を取り、血を止める。ただ、骨を早くくっつける力は、ブリギッテにはない。時間がかかる。時間が、かかるだけだ。
彼は、目を閉じた。息が、ゆっくりと落ちていく。肩の力が抜けていくのが、分かった。
「リナは」
と、彼が訊いた。
「水門のところにいます。水の音を聞いているそうです」
「そうか」
ブリギッテは、灯を消した。手のひらに、白い残像が残った。
「よし」
と、ダリオが目を開けた。
「行こう」
*
礼拝の間。
昼の光が、高い窓から差していた。光の筋が、石の床に落ちて、埃がゆっくりと回っていた。埃は、光の中でだけ見える。ゆっくりと、回りながら、落ちていく。誰もその埃を追わなかった。ブリギッテも、追わなかった。
八人が席に座っていた。四つの席が空いている。
石の席は、長い年月のあいだに、摩耗して平たくなっていた。灰狼の長老は、口を閉ざして座っていた。鴉人の長老は、羽を伏せていた。土竜人のオドは、杖を膝に立てていた。その目は、閉じられていた。誰も、身じろぎもしなかった。
ブリギッテたちは、入り口の近くに立つように言われた。石の床が、足の裏に冷たかった。
オドが、杖で床を二度叩いた。乾いた音が、石の壁に反響した。
「前の議で、壁の街の者を迎えることに決めた」
と、彼は言った。声は低く、ゆっくりしていた。
「今日は、報ずることを決める」
壺が、入口のそばの石の台に置かれていた。前の議と同じ、口の窄まった焼き物の壺だ。
白い木札と黒い木札。
一人ずつ、札を入れる。
カツン。
カツン。
乾いた音が、石の間に響く。息をひそめる音がした。木札が、壺の底に当たる音が、乾いて響いた。
鴉人の若い者が、壺を傾けて、札を手のひらへ出した。指先が、器用に木札を拾い上げる。
「白、八」
その声は、静かな部屋の中で、はっきりと響いた。
黒は、なかった。
灰狼の長老も、白を入れた。
前は、黒だった。あの時、彼は「壁の街の者を坑に入れれば、壁の街は砦を知る」と言った。
けれど、今日は白だった。
長老は、何も言わなかった。ただ、座っていた。その左の耳が、ぴくりと動いた。
オドが、ブリギッテたちを見た。その目は、見えていないはずだったが、しっかりとこちらを見ていた。
「訊かれたら答えよ。訊かれぬことは、言わずともよい」
ブリギッテは、頷いた。
「わたしは、訊かれたら答えます」
と、ブリギッテは言った。
「嘘はつけません」
ヤラが、隣に来た。灰の毛並みが、光の中で銀色に見えた。
「あんたが嘘をつかなくていいように、書く者が書けばいい」
と、彼女は言った。
書く者。
組合長のエーリカさんが、書くのだろうか。それとも、別の誰かか。
ブリギッテは、訊かなかった。訊かれる前に、答える必要はなかった。
*
羊の償いの話になった。
青年会が、夏のうちに村の羊の番と柵の直しを三月手伝う。
ヴィルマが、それを村長に伝えることになった。
ヤラが、ヴィルマに、油紙に包んだものを渡した。紙は、パリパリと乾いた音を立てた。角が、硬く折れている。
「名簿の写しだ」
と、彼女は言った。
「組合の長に」
ヴィルマは、受け取った。重くはない。しかし、長い年月が入っている。彼女は、それを荷物の中に、丁寧にしまった。
ブリギッテは、自分の薬箱を開けた。箱の底には、干した薬草が敷き詰められていた。その隙間に、二一二年の紙の写しがある。まだ、誰にも渡していない。アガタ先生に見せるつもりだ。
このことは、まだ誰も訊いていない。訊かれるまで、言わない。それが、この旅の決まりだった。
「行こう」
と、オドが言った。
ブリギッテたちは、部屋を出た。
そのとき、オドがブリギッテの足元を見た。
「灯の人は、足音がうるさい」
と、彼は言った。
ブリギッテは、立ち止まった。自分の足音を聞いた。石の廊下に、カツカツと響いていた。
「急いでいるので」
と、ブリギッテは答えた。
オドは、杖で床を叩いた。
「急がなくても、道はある」
ブリギッテは、会釈をして部屋を出た。
廊下に出て、ふと思い出して、礼拝の間を振り返った。
長老たちは、まだ席に残っていた。
ブリギッテは、戸口から、四つの空いた席を、最後にもう一度だけ数えた。
一つ、二つ、三つ、四つ。
四つだった。




