第20章 水を入れる
皐月十三日。朝から晴れだった。夜のあいだの冷えが、岩の肩にまだ残っていた。空は雲ひとつなく、東の空が白み、日が昇るとともに、灰色山脈の稜線がくっきりと浮かび上がった。朝の日の光が、岩の湿った面をゆっくりと乾かしていった。南に下ると、荒れ野が広がっているはずだった。ここからは見えなかった。
ヴィルマは坑の上の段、水門の間へ登った。峠道から脇へそれて、岩の擦り減った登り道を登った。ハイマツの匂いがした。足元の石は、夜のあいだに湿っていた。息が白くなった。岩の角に、昨夜の霜がまだ白く残っていた。日が当たると、水の珠になって落ちた。
岩の肩。沢は二つに分かれていた。一方は谷へ落ち、もう一方は坑へ続く水路に入っていた。水の流れは、まだすべて谷へ落ちていた。
新しい梁が岩の上に六本、並んで置かれてあった。切り出したての樫だ。切り口が白く、朝の日に照っていた。青い木の匂いがした。梁の一本は、ヴィルマの両腕が回るほどの太さだった。鉄の楔が、梁の脇に小さな山を作っていた。
オドが杖をついて来た。後ろから、若い土竜人と若い灰狼が来た。
土竜人の若い者は、目がほとんど見えない。手と足で仕事をする者だった。梁の木目を、指先で確かめた。日の当たる岩の上で、手はきちんと動いた。灰狼は肩で梁を運んだ。毛並みの間から、白い息が出た。
ダリオも来た。左腕を吊って、見ていた。右の頬に雪潜の爪の痕があった。
リナは杖を握っていた。ケスは坑の口にいた。翼を畳んで、岩の上に止まっていた。中継ぎの態勢だ。ブリギッテは薬箱を下に置いて、手袋をしていた。ヤラもいた。
「下ろそう」と、オドが言った。
オドは杖を突き、足の裏で岩の震えを聞いていた。
若い土竜人と若い灰狼が、梁を持ち上げた。ヴィルマは先端を受けた。重い。樫の重さだった。湿った朝の空気の中で、樫の重さが肩から腕へ、腕から掌へと流れ込んだ。溝へ滑らせて入れる。石の溝は、深く、まっすぐに掘られていた。古い石工の溝だった。今も、樫の梁がぴたりと入った。木と石が、ぴたりと噛み合った。
ヴィルマは父の楔を一つ取り、溝の割れ目へ差した。小さな槌。打った。一つ。二つ。三つ。
楔が喰った。木を裂く音が、乾いた音で響いた。
オドは足を石に踏みつけて、聞いていた。杖を岩に突き、目を閉じていた。
「右が、浮いとる」
声は低く、静かだった。
ヴィルマは楔を半分引き抜いて、別の角度から打ち直した。一つ。二つ。槌の応えが変わった。楔が喰った。木の繊維が、きしんで鳴った。
「入った」
オドは足で聞いていた。それから、ゆっくり頷いた。
二本目。三本目。同じように打った。日が高くなった。岩の影が短くなった。土竜人の手は、朝より動きが良くなっていた。灰狼は黙って梁を運んだ。ヴィルマの掌が槌で赤くなった。握りの跡が手に残った。掌の皮が、じんと脈打った。槌の握りが、掌の形に馴染んできた。
水路の水は澄んでいた。底に小石が見えた。水の音は、耳に気持ちよかった。日の光が、水面で揺れていた。
*
四本目。梁を入れて、オドが谷へ流れる沢を顎で指した。
「切り替えよ」
若い者が水路の石を外した。指先が、石の一つを引き抜いた。水が方向を変えた。一瞬、ためらうように流れが止まり、それから、新しい水路のほうへ押し出された。坑のほうの水路へ走った。音が変わった。水路を水の走る音が岩に響いた。思ったより大きかった。飛沫が手に掛かった。水面が揺れた。冷たい水が、ヴィルマの手首まで濡らした。袖口から、水が浸みた。
谷へ落ちる水が細った。坑へ注ぐ水が増えた。水路の音が、岩の隙間から坑の奥へ吸い込まれていくのが聞こえた。落ちる音が、だんだん深くなった。坑の口から、湿った土の匂いが立ち上ってきた。
*
五本目。梁を入れると、継ぎ目から水が噴いた。冷たい水がヴィルマの頬に掛かった。首筋まで、冷水が流れた。息が止まった。楔が入らない。溝に水がたっぷり溜まっていた。打つたびに水が揺れて、楔が泳いだ。水が勢いよく、溝から溢れ出していた。
「入らん」と、ヴィルマが言った。槌を握る手が、滑った。
「凍らせます」と、リナが言った。
リナは杖の握りを、指が白くなるほど握りしめた。緊張しているときの癖だった。杖の先を継ぎ目に向けた。目を閉じた。開けた。杖の先が白く光った。白い光が、水の飛沫を照らした。噴き出す水の面に、霜が広がった。霜が、水の面を一枚、薄い膜のように覆った。白い膜が、水の流れを止めた。飛沫が、空中で凍った。
「出ました、出ました」
リナは、もう一度言った。
「出ました、出ました」
それから、もう一度。
「出ました、出ました」
リナの声は、少し上ずっていた。リナの額に、汗が滲んでいた。
「一回でいい」と、ダリオが後ろの岩から言った。
ダリオの左腕は吊られていた。見ているだけだった。
「あ、はい」と、リナが言った。
杖の光が、少し弱まった。霜が、氷に変わった。氷が、水の面を塞いだ。水が止まった。継ぎ目に氷が詰まっていた。白い、濁った氷だった。氷は、溝の形にぴったりと凍っていた。
「今だ」と、オドが言った。
オドは足で氷の震えを聞いていた。
ヴィルマは楔を打った。一つ。二つ。三つ。楔が喰った。氷が持っていた。氷が、楔の打ち込みの衝撃を、しっかりと受け止めた。ヴィルマは次の楔も打ち込んだ。氷が持っていた。手が冷たかった。氷が潰れる音がしたが、楔は入った。氷の破片が、水と一緒に跳ねた。氷は、割れても、すぐにまた凍った。
六本目。今度は水が噴かなかった。一打で楔が喰った。水路の水は、もう坑へ落ちることしかなかった。
*
水門が閉まった。
坑へ落ちる水が増えた。ヴィルマは穴を覗き込んだ。暗かった。下から、水の落ちる音が響いてきた。深い、重い音だった。音は、深い底へ落ちていくにつれて、だんだん重くなった。重い音が、坑の奥から、返ってきた。
オドは足を岩に踏みつけた。杖を両手で握った。目を閉じた。開けた。足の裏の震えが、地を伝って岩を伝って、水の音を運んできた。オドの腰が、わずかに下がった。
「入った」
誰も何も言わなかった。ヴィルマは水門を見た。六本の梁が、濡れて黒く光っていた。水が、梁の継ぎ目から、一筋ずつ滲み出していたが、溜まるほどではなかった。滲んだ水が、梁の下で滴り、岩の面を濡らしていた。
「入った」オドはもう一度言った。「祖の入れたところへ」
オドの杖が、岩の上に静かに置かれた。ダリオが、右手を岩について座り込んだ。肩の力が抜けていた。
*
夕方。坑の水が満ちてきた。日が西に傾き、岩の肩に長い影が落ちた。風が、少し冷たくなった。
ヴィルマは岩に座って干し肉を食べた。ダリオも右手だけで食べた。リナは杖を膝に置いて、黒パンをちぎっていた。ブリギッテが、水袋を回して飲ませた。ヤラは、遠くの山道を見ていた。
水の満ちる音が変わった。最初は低いうなりだった。それが、水の広がる音になった。それから、もっと低くなった。遠い底へ、水が染み入っていく音だった。音は、坑の壁に当たり、反響し、そして沈んでいった。乾いた岩が、水を吸い込む音がした。坑の口から、湿った水の匂いが漂っていた。
オドは岩に座って、足で聞いていた。ゆっくりと、目を閉じていた。
「水が来た」と、オドが言った。「大きいのが、深みへ帰った」
オドの顔に、ほっとしたような、弛みが見えた。
ヴィルマは穴を見た。暗かった。水の音だけだった。大きいのが、水のあるところへ帰った。坑守は、水の下へ帰ったのだ。
「槌の手は、いいな」と、ダリオが言った。
ダリオは、右手で干し肉を齧っていた。歯が、乾いた肉の繊維を引き裂いた。
「子どものころから打ってる」と、ヴィルマが言った。
父の道具箱の楔の重さを、手が覚えていた。
「鉱夫の娘だからな」
「ああ」
ヴィルマは、干し肉を噛んだ。
*
夜。ヴィルマは壁の上へ登った。石の階段は、冷たかった。手すりの石も、夜の露に濡れていた。
壁の上は暗かった。鉄籠に火が入っていなかった。黒い炭があった。煙はなかった。
如月から、毎晩、火を焚いていた。今夜は、焚かなかった。
星が出ていた。北の空が澄んでいた。山道は真っ黒だった。村の灯りは、尾根の陰で見えなかった。南の空の低いところに、星がいくつか、小さく光っていた。その数を、ヴィルマは数えなかった。数える必要もなかった。
ヤラが来た。ヴィルマの隣に立った。ヤラの肩が、ヴィルマの肩より高い。二人とも、何も言わなかった。風がヤラの毛並みを揺らした。風は冷たいが、雪の匂いはしなかった。山の夜の匂いがした。岩と、水と、ハイマツの匂いだった。
ヤラが口を開いた。
「雪が解けたら」
「ああ」
ヤラはその後を言わなかった。ヴィルマも訊かなかった。北の言い回しだった。




