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第19章 坑守

皐月十二日。灰色山脈の腹を穿った古い銀の坑、その奥の水門の間。ダリオたちは、牛ほどの白い獣と、泥の床一枚隔てて向かい合っていた。


獣は頭を上げたまま、動かなかった。こちらも動かなかった。泥の床は、すべてを獣へ伝える。靴の重み一つ、息の揺れ一つ。頭上の灰色の光の筋の中を、煤のようなものがゆっくり舞っていた。後ろの開口に、若い灰狼の二人が張りつめていた。リナが杖を握る指が、白くなっていた。


(牛いっぱいに、あと一肩ぶん。)


ダリオの腹では、そう数えた。ぬるりとした白い皮が、光を吸って、また吐いていた。目はない。それでも、こちらへ向いている気がした。平たい頭が、わずかにダリオのほうへ偏っていた。近くの水たまりからは、冷たい石を洗うような匂いがしていた。その下に、ぬれた泥と、古い肉のような匂いが、薄く混じっていた。


滴が、一つ落ちた。


獣の平たい頭が、ゆっくり回った。ダリオのほうへだ。頭は振動をたどるように動いて、ぴたりと止まった。足音の重さを、聞き分けているのか。


(いちばん重いのは、俺だ。)


獣が動いたのは、先だった。


平たい頭が泥を削り、白い塊が来た。牛が走るより速かった。泥に沈みそうな短い足が、泥を蹴って、飛ばしていた。長い尾が泥を撫でて、水を散らしていた。


ダリオは前に出た。


左の前腕を、払うように上げた。間に合うかどうかは、分からなかった。


左の前腕が、口の中に入った。


骨の折れる音が、腕の中で鳴った。遠くの音のようだった。自分の腕の音だった。歯は離さなかった。鈍い歯が沈んで、ずしりとした重みが体を引き寄せた。ダリオは右足を泥に食い込ませて、堪えた。腕の関節が、きしんだ。獣の吐く息が鼻へかかった。池の底のような、冷たくぬれた匂いだった。


獣が引いた。靴が泥を剥がれ、体が流れた。歯の並びが脇腹を一筆に引き、熱いものが腹の下を走った。


剣が落ちた。左手は、もう開かなかった。指は、柄を握ったままの形に、固まっていた。


ヤラが横から来た。低く走り込んで、獣の横腹に噛みついた。獣の頭がそちらへ捻れた。その隙に、ダリオは右手で剣を拾った。柄に泥が絡んだが、握り込んだ。


突いた。浅い。二度目も浅い。三度目に、剣先が皮を裂いて入った。獣が、びくりと震えた。裂け目から、薄い血が泥に滲んだ。


パウルが灯を掲げて前に出た。


長い尾が泥を叩いて横に走り、その脇を打った。パウルが壁にぶつかった。打たれた拍子に、その掌から白い光が走った。


雷だった。


光が白い背を走り、巨体がのけぞった。短い脚が揃って滑り、壁にぶつかった。石が鳴った。泥が跳ねた。目の灼けた残像が残り、坑の内が一瞬、白かった。何かが焦げる匂いが、立ち上った。


パウルは、自分の手を見ていた。


顎の力が、一度だけ緩んだ。


ダリオは腕を引いた。引けた。腕が、ぬるりと抜けた。袖は裂けて、血に濡れていた。


獣は壁を滑りながら立ち直り、平たい頭を上げた。リナの杖のほうが、先だった。


火が、顔を焼いた。ぬれた皮の焼ける音がした。湯気が白く立ち、獣が頭を振ってのけぞった。乾いた熱を、嫌がった。獣は焼かれた顔を壁のほうへ背け、身を縮めた。


巨体が方向を変え、石の段を下っていった。重い音が段を一つ、また一つ、下りていった。壁際の水たまりから、小さいのがすっと出て、そのあとをぬるりと追った。


水の音に、戻った。


ダリオは、膝から泥に落ちた。左の前腕は、途中から先が他人のもののようだった。どこまでが腕で、どこからが手なのか、分からなかった。脇腹が熱い。息を吸うたび、刃を差し込まれるような痛みが走った。


ヤラが肩を取った。


「立てるか」


「歩ける」


若い灰狼の二人が反対の肩に付いた。卵の列の手前で、四人は大きく回って渡った。泥に赤いのが点々と落ちていった。


(赤いのは、全部俺の分だ。)


数えても仕方のない数だと、ダリオは思った。


*


坑道を、上へ上へ。何百歩だったか、数えるのをやめた。


一歩ごとに、痛みが脈打った。左の腕が揺れるたび、折れた骨が自分で自分を擦った。ダリオは顎を噛みしめて、口を開くのをやめた。聞こえるのは、泥の靴の音と、荒い息だけだった。パウルの掌の灯が、壁に影を長く、短く落としていた。


途中で、ヤラが鼻を動かした。


「下の匂いは、水のほうへ下がった。上には、いない」


「それは、ありがたい」


「血の匂いは、残る」


「残るだろうな」


上方の闇から、ケスの声が落ちてきた。


「さっき、光が見えた。雷の光だ。様子は」


「噛まれた。左の腕と、腹」


「歩けるか」


「文句なら、いくらでも言える」


「わかった。口へ先に行く」


羽音が闇を走って、遠ざかった。


坑の口が、白く開けて見えた。


*


外は、曇っていたはずだった。


雲の明るさが、目にしみた。ダリオは目を細めたが、しみた。坑の中の闇のあとでは、灰色の空がまぶしいといってもよかった。風に、ハイマツと雪解けの匂いが乗っていた。泥と水と血の匂いのあとでは、別の世界の匂いのようだった。光を浴びているだけで、肩の力が少しだけ抜けた。


ヤラが口の脇の岩まで彼を運び、座らせた。ダリオは右手の甲で顔を拭った。泥と血が、手に移った。


「髭は、無事か」


リナが追いついてきた。杖を下げて、肩で息をしていた。


「髭の心配ですか」


「顔の半分は髭だ。半分やられたら、大怪我だ」


リナは彼の顔をのぞきこんだ。


「無事です。左の先が焦げて縮れてるのは、いつものです」


「いつも通りなら、いい」


パウルは自分の足で歩いてきた。壁にぶつかった脇を一度だけ押さえ、少し離れた岩に腰を下ろした。


ブリギッテが駆けてきた。薬箱を岩に置き、袖をまくり上げた。


「ダリオさん、洗います。痛いですよ」


水袋の水が、脇腹の傷を走った。


「ああ、ずいぶんやられてますね。噛み跡がはっきり付いてます。深いけど、なんとか大事には至らなさそうです。腕のほうも見ます。骨がずれてますから、戻します。痛いです。声を出してください、無理に耐えないでください」


彼女が丸めた布を差し出した。


「口に、噛んでください」


「いらん」


耐えなかった。声は出た。彼女の手が腕を引き、直し、副木を当てて布で巻いた。木の折れるような音が、一度鳴った。冷や汗が出た。視界が一度、白くなった。気がつくと、右手で岩を掴んでいた。指が、白く窪んでいた。


「薬箱の」ダリオは、息の合間に言った。「おまえの手、力が強いな」


「水を毎日運んでますから。力は、運ぶうちに付くんです」


水袋を渡された。飲んだ。革の味がした。


彼女は掌に灯を載せて、巻いた腕の上に当てた。柔らかい光だった。骨の奥が、じんと脈打った。傷の下の肉が、火照りをなくしていった。光が、ぬるい水のように浸っていく。


「骨は繋がります。でも、すぐには治りません。今日明日では無理です。腕は、しばらく吊ります」


彼女は空を見上げた。


「たぶん、昼の鐘のころです。中にいるあいだは、数えられませんでした」


頭上で、鴉が一声鳴いた。それきり、鳴らなかった。


布の帯が首に掛けられ、左腕が吊られた。指先は動いた。剣を振ることは、今日はもうできないだろう。杯を持つのにも、右手を使うことになる。


ケスが口の縁に降りて、首を傾げた。


「左の腕は、使えないのか」


「使えない」


「了解。下の闇に、動きは見えない。水の光だけだ」


若い灰狼の一人が、梁の待つ手前の段へ、走って下りていった。


オドが、杖を突きながら、坑の口へ登ってきた。ゆっくりだった。足が、一歩ごとに地を確かめていた。その後ろから、ヴィルマが黙って登ってきた。


ヴィルマは吊られた腕を見た。


「骨は」と訊いた。


「繋がるそうだ」ダリオは言った。「すぐには、だが」


ヴィルマはうなずき、坑の中を見た。その先は暗いままだったが、彼女はしばらく、見ていた。


オドは坑の口に立ち、耳ではなく足を、闇のほうへ向けた。しばらく、そうしていた。風が、オドの羽織の裾だけを動かしていた。


それから、杖を口の石に立てた。


「上の段は、空いた。明日、梁を入れる」


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