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第18章 坑へ

皐月十二日。坑の口から、冷たい風がまだ吹いていた。


ダリオたちはその風に向かって、坑へ入った。


先頭はヤラだ。鼻をひくひく動かしながら、一歩ずつ。その後ろに、剣を抜いたダリオ。パウルの掌の灯が、列の背を照らす。リナは杖の先に豆つぶほどの火をともし、もう一方の手で杖の根元を握りしめている。若い灰狼の二人は最後尾で、足音を消してついてきた。


列が坑の闇に呑まれると、外の明るさは一瞬にして遠のいた。足元が見えなくなり、パウルの灯りが唯一の頼りになった。ダリオは目を細めた。暗闇に目が慣れるまでが、長く感じられた。


入る前が朝の何刻だったか、ダリオは数えていなかった。坑の中では、刻は分からない。


壁に、鑿の跡が並んでいた。同じ向きで、同じ深さで、几帳面に列を作っている。灯りの光が壁をなでるたび、跡が一本ずつ、影を濃くした。三百年前の鉱夫の腕だと、ダリオは思った。腕のいい鉱夫だった。乱れが一本もない。石を相手に、これだけの整列を保つのは、並みの腕ではできない。


(ヴィルマの父の鑿も、こんなふうに壁を削ったのだろうか)


足元は泥だった。


靴が沈む。抜くと、ぬるりと音がした。ひと冬前まで、ここは水の底だった。三百年、水の底だった。泥の匂いは、古い水と、沈んだ木と、そのほかの何かの匂いがした。泥は靴底にへばりつき、一歩ごとに足を引っ張った。


入ってほどなく、天井が一段低くなった。


ダリオはぶつけた。


「いてっ」


最後尾で、若い灰狼の耳がぴんと立った。


*


ヤラが手を挙げて、列を止めた。


「水の匂いが濃い」


ヤラは言った。


「獣の匂いも。まだ遠い」


ヤラの背中が、弓の弦のように張っていた。尻尾は動かず、耳の先だけが微かに振れている。


パウルの灯が、揺れないように、ゆっくり壁をなぞった。


「灯は、このまま持ちます」


パウルが言った。


「火と二つあるので、足りるでしょう」


リナの火は、豆つぶのままだった。火も灯りも、ほとんど揺れなかった。


列が動き出すと、坑は静かになった。静かになると、ダリオは自分の息の音が大きいことに気づいた。吸う音。吐く音。それが石の壁に当たって、自分の耳に返ってくる。息を静かにしてみた。静かにならなかった。大男の肺は、そうしかできていない。胸の奥で、心臓の音まで大きくなった気がした。


天井を斜めに支える古い木があって、ダリオはそれを避けきらず、頭のてっぺんをこすった。


「いてて」


二度目だった。頭上から、古い木の粉が落ちて、灯りの光の中を舞った。リナが袖口で口を押さえたのが、灯りの端で見えた。


*


ヤラが、今度は手を挙げないで止まった。


肩が下がり、鼻先が床のほうを向いた。


「二つ」


声を絞っていた。


「小さい。犬ほど。手前のくぼみ」


ダリオは目を凝らした。灯りの届く端に、岩のくぼみがあった。縁から、ぬるりとした白いものが半分だけ覗いていた。平たい頭。目はなかった。額から鼻先まで、一直線だった。目がないのに、その頭がこちらを向いているのが分かった。


二つの白いものが、同時に動いた。


泥の上を、速かった。足は短く、腹は地を這い、ぬるぬると跳ねるように進む。ダリオは前に出た。一匹が頭を低くして突っ込んでくる。剣を上から振り下ろした。刃はぬるりとした皮を割り、石の床に当たって止まった。手ごたえは、湿った薪を割るのに近かった。皮の下は、予想より柔らかかった。


一匹は、動かなくなった。


もう一匹が、列の横へ回ろうとした。リナが杖を突き出した。豆つぶの火が、一息で顔ほどに膨らんだ。白い皮が光を浴びて、のけぞった。獣は折り返し、壁の根の水たまりへ滑り込んだ。水音が一度して、いなくなった。


「逃げました」


リナが言った。


「熱は、嫌いなのですね」


「助かった」


ダリオは言った。


床には、斬られた一匹が横たわっていた。ぬるりとした皮は、灯りの下で灰白かった。尾の先が、まだゆっくりと動いていた。焼けた皮の匂いが、泥の匂いに混じった。剣の刃にも、白い脂がこびりついていた。


ダリオは片膝をついて剣を泥で拭き、立ち上がった。


頭を、ぶつけた。


「いてっ」


三度目だった。


しゃがんで剣を拭いたせいだ。立ち上がりざま、天井の高さを読み違えた。額に、泥の冷たさと、岩の硬さが残った。


ダリオは坑の口のほうへ向かって、声を張った。


「小さいのを一匹、斬った! もう一匹は逃げた!」


声が、坑道を伝って、遠くでかすれた。


しばらくして、坑道の上のほうから、ケスの声が返ってきた。遠い。石に削られた声だった。


「伝えた」


*


坑道が、開けた。


壁が左右に引いて、天井が頭二つぶんは高くなった。広い段だ。水の音がした。滴る音が、二つ、三つ、場所を変えて続いていた。


灯りの光が、床の泥の上で途切れた。泥の上に、水たまりがあった。壁際に、細長く。


水たまりの縁に沿って、白いものが並んでいた。


卵だった。


大きいものは頭ほど、小さいものは拳ほど。白い。表面はぬれて、灯りの光を鈍く返していた。六つ……いや、七つ。ダリオは数えたが、最後の一つが水たまりに半分浸っていて、数え損ねた。殻の表面には、はっきりした模様があるわけでもないのに、目を吸い込むようだった。


ダリオは、踏まなかった。


靴を、水たまりから遠い側の足場に置いた。一歩。また一歩。泥が、卵を守るように柔らかく、足音を殺した。若い灰狼の一人が、卵の前で足を止めた。ダリオは手で示した。壁の反対側だ。若い灰狼は、大きく回って渡った。


踏む気には、なれなかった。理由は、考えなかった。


ダリオは上へ向かって、また声を張った。


「卵がある! 踏むなと、後から入る衆にも言っといてくれ!」


「卵。踏むな。伝えた」


ケスの声が、石を伝って落ちてきた。


ヤラが、卵の列の先で立ち止まり、鼻を奥へ向けてゆっくり動かした。


「濃い」


ヤラは言った。


「水と、獣。この先に、多い」


奥に、開口があった。その先は暗く、その暗さの奥に、ごく薄い灰色の明るさがにじんでいた。水門の間だ。折れた梁の跡から、曇りの空の光が細く落ちているのだろう。坑の中で空が見えないぶん、その灰色は、妙に明るく感じられた。


開口の前で、天井がもう一度、低くなっていた。


ダリオは気づいていなかった。


ヤラの手が、いきなり出た。


半分も振り向かないで、掌がダリオの顔の前に当てがわれた。ダリオはそれに顔を止め、掌の下から頭をすべらせた。岩の縁が、髪をひとすくい撫でて、通り過ぎた。


「四度目は、ぶつけていないぞ」


ダリオは言った。


ヤラは振り向かなかった。


「低い」


と言っただけだった。


リナが、また袖口で口を押さえた。


開口をくぐると、床が下がっていた。石の段が、水の底のほうへ続いている。水門の間は、思ったより広かった。頭上のどこかから、灰色の光が一本、床の泥に落ちていた。光の筋の中を、滴がたまに落ちていた。空気中の煤のようなものが、その光の中でゆっくりと舞っていた。


その間の奥で、白いものが動いた。


牛ほどの大きさだった。平たい頭。目はない。ぬるりとした白い皮が、灰色の明るさを、ゆっくりと吸った。巨体が動く音すら、この場所では吸い込まれるように聞こえなかった。


水門の間の奥で、それが、ゆっくりと頭を上げた。


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