第17章 水門
皐月十二日の夜明け。空は雲に覆われて、山の上の薄い灰色だった。雲は低く垂れ込めて、尾根の岩の尖りを呑み込んでいる。風はなく、冷たく湿った空気だけが、肌に纏わりついていた。夜のあいだに降った露が、岩の窪みに溜まって、鈍い光を返している。足元の石も、夜露で濡れていた。
ヴィルマは坑の上の段の入口に立っていた。足元に、石を積んだ水路がある。石と石の継ぎ目には黒い苔が生え、長い年月、水に洗われてきた縁は丸く磨かれていた。沢から引いた水は、ここで二つに分かれていた。一方は石の樋を滑って谷へ落ちる。もう一方は、坑へ落とすための口だ。そちらの口には、樫の水門の梁が朽ちて折れ、横たわっていた。水に浸かった側の木は黒ずみ、指で押せば指が沈みそうなほど柔らかくなっていた。木の匂いは、もはや樫のものではなく、ただの泥の匂いだった。いまは、沢の水のすべてが谷へ流れている。水の音は、それほど大きくない。だが、途切れることなく、絶えず谷へ向かって流れ落ちていた。水が、坑へ入らない。ただそれだけのことが、不思議なほど、目に付いた。
ヴィルマは手袋を外し、水路の縁に指を浸けた。夜明けの沢の水は、氷のようだった。指の先が、すぐに赤くなる。痛いほどに血が集まってくる感覚がある。北の春は、水がいちばん冷たい。夏の終わりの水よりも、雪解けの始まりの水のほうが、ずっと冷たい。ヴィルマは指を振って水を切り、手袋を嵌め直した。湿った毛の匂いが、鼻先に寄った。
坑の口は、黒い窪みだった。入口の周りの岩は、長い年月、水と風に削られて、鈍い光沢を持っていた。雲の下で、奥が見えない。ただ、外の空気よりも重く、湿った空気が、そこに澱んでいるのが分かった。坂を登ってきた足が、いまは少し重い。
オドが杖の先で、石の地面を、とん、とん、と叩いた。乾いた音が、水の音に混じって響く。それから、草履を脱ぎ、素足の裏を、地面に押し当てる。土竜人は、足で地の震えを聞く。オドは目を閉じ、幾分か、体を揺らした。誰も声を出さない。水の音だけが、谷の方へ流れ続けていた。
「下の段に、まだ三つか四つ、おる」
オドはゆっくり言った。言葉と言葉のあいだに、長い息が挟まる。
「大きいのが、一つ」
その言葉が落ちると、一瞬、水の音だけが響いた。
ヴィルマはオドの足元を見た。土の色をした、節くれだった足だ。目はほとんど見えないはずだ。瞳は白く濁っている。だが、老人は坑の奥の闇を、足の裏で見ているようだった。杖はただ、第三の足として、体を支えているに過ぎない。
「水門を閉め直せば、水は坑に戻る」
オドは杖で、折れた梁のほうを指した。
「水が満ちれば、あれらは深みへ帰る」
「そもそも、なんで坑に水が入ってた」
ダリオが訊いた。大男は腕を組み、坑の口を見下ろしている。
「祖が、自分で入れた」
オドは言った。
「峠の戦の終わりに」
「なんで」
「知らん」
オドは首を振った。白く濁った瞳が、わずかに揺れた。
「入れた、とだけ言い残した」
それ以上、誰も訊かなかった。ダリオは口を閉じ、腕を組んだまま頷いた。ヤラも黙っていた。リナは杖を握りしめたまま、地面に視線を落としていた。鳥が一羽、頭上を越えていく音だけがした。
ヴィルマは知っている。村の者は、ここへは来ない。来るのは山の衆だけだ。村の子のころから、大人たちは坑の話をするが、足を踏み入れた者はいない。話すとき、大人たちは声を潜めた。ヴィルマも来たのは、今日が初めてだ。石の上に立っているだけで、足の裏に、山の冷たさが伝わってくる。大人たちの声が、耳の奥で蘇る。
*
青年会が切り出した、新しい樫の梁が六本、石の上に並んでいた。皮を剥いたばかりで、白い。切り口からは、青く湿った木の匂いがしていた。一本持ち上げるには、大人の男の力がいる。その脇に、鉄の楔が山積みになっている。錆のない、新しい鉄だ。雨に濡れても、すぐには錆びないだろう。
ヴィルマは腰の道具巻きから、父の楔を三本出した。古いが、錆びていない。柄の当たる部分だけが、父の手の脂で黒光りしていた。四年前に閉じた村の鉱から持ってきたものだ。重さは、手に馴染んでいる。
「それを使え」
オドが言った。
「梁の溝に合うか、確かめろ」
オドの指が、梁の端の溝をゆっくりなぞる。指の腹が、木の端を確かめるように止まる。ヴィルマはその指の位置を覚え、自分の目で溝を見た。浅く、幅広い溝だ。寸法は、目で測れる。
「合うか?」
オドが訊く。
ヴィルマは楔を溝に当てがった。手で軽く押し込む。隙間はない。硬い鉄が、硬い木を拒まなかった。
「合う」
「良い手だ」
オドは短く言った。
「鉱夫の手だな」
「父の道具です」
ヴィルマは楔を三本、使いやすい位置に並べ直した。布で拭う必要もないほど、手入れは行き届いている。
*
段取りが始まる。オドの声は、低いが、よく通った。
「ダリオ、ヤラ、灰狼の若い二人が、先に下りる」
ダリオが剣の柄を握り直した。ヤラが、無言で頷く。
「巣を払う」
「パウルが灯。リナが火」
パウルが書物袋の紐を締めた。リナが杖を握りしめる。指のあたりが、少し白くなっている。
「ケスは坑の口で中継ぎだ」
ケスが首を傾げた。
「ヴィルマとオドと土竜人の若い者は、水門の間の手前で梁を待つ」
ヴィルマは梁の先を見た。重そうだが、引きずれば運べる。
「ブリギッテは坑の口で、手当ての支度」
ブリギッテが薬箱を抱え直した。
ヤラが、若い灰狼二人の顔を見て、また頷いた。
「目の見える者は、暗いところで役に立たん」
オドが言った。
パウルが、黙って掌を上げた。灯の術の小さな光が、掌の上に灯る。白い光が、オドの顔を照らす。
「これなら見えますか」
「見えんがな」
オドはきっぱり言った。
ダリオが鼻を鳴らして笑った。リナも、袖口で口を押さえた。
オドは杖を握り直した。
「わしは、震えで行く」
「分かりました」
パウルは、掌の光を消さなかった。
ヤラが、坑の口の前に立った。灰の毛並みが、雲の下の薄い光に、わずかに明るい。鼻をひくひくと動かし、奥の匂いを確かめている。
「行くぞ」
ダリオが剣の柄を握り直した。
ヴィルマは梁のそばに立ち、坑の口を見た。黒い窪みは、何も語らず、ただそこにあった。
坑の奥から、冷たい息のような風が、ゆっくりと上がってきた。ヴィルマの頬を撫でて、また引いていった。




