第16章 砦の夕餉
皐月十一日の夕方、古砦の中庭には粥の匂いが満ちていた。
石の炉に大きな鍋が二つ。麦粥だ。麦は村から来る。カルトブルンの畑で育ち、袋に詰められ、峠を越えて、この鍋で粥になっている。ダリオは匂いを、ひと口ぶんだけ深く吸ってから、石段に腰を下ろした。
腹が鳴った。
「いい匂いですね」
隣に来たリナが、杖を膝に置いたまま言った。目はもう鍋のほうへ行っている。
「配られるまでは、待つんだぞ」
蜥蜴人の女が鍋をかき回している。指が四本。粥の面に、きれいな渦が描かれた。木の器に粥がよそられ、干した茸と、骨付きの山羊の肉が添えられる。山羊の乳の入った水差しが、石段の列に沿って回ってくる。
ダリオの器の端には、やわらかいチーズが一切れ載っていた。
村のチーズは固い。羊の乳を押し固めたやつで、包丁より槌のほうが役に立つ。ここのは違った。山羊の乳のチーズだ。指で押すと、へこむ。
口に入れると、甘かった。
「山羊の乳って、こんなにやわらかくなるんですね」
向かいのブリギッテが、早口で言った。袖はもうまくられていた。
「村のとは全然違います。ふわふわです。この茸も、干してあるのに歯ごたえがあって……」
山羊の肉は、長い煮詰めで、骨からするりと剥がれた。
脂がのっていて、粥によく合った。
水差しを隣から受け取って、山羊の乳を飲む。温かくて、少し青草の匂いがした。
「ここのは、山羊の乳のチーズか」
近くの石段から、ヤラの声がした。
器を両手で持っている。
「羊は飼わない。灰狼が多すぎるからだ」
「じゃあ、この山羊は」
「山羊は、灰狼を怖がらない。追えば、岩の上へ逃げるだけだ」
「なるほどな」
ダリオは山羊の肉をかじった。
骨から肉を剥ぐには、前歯より奥歯がいい。
「で、この山羊、いくらだ」
「売らない」
ヤラは短く答えて、粥を飲んだ。
ダリオは、それ以上訊かなかった。
子らが来た。
灰狼の子が三人。蜥蜴人の子が二人。一行の周りの石に、遠慮なく座る。いちばん小さい灰狼の子が、ダリオの隣を陣取った。器を持ったまま、ダリオの顔を見上げる。見上げる角度が、だいぶ急だ。
子は手を伸ばし、ダリオの左の髭をつかんで、引っぱった。
「痛っ」
「そっちは焦げてるから弱い」
ダリオは子の手を、指の背でそっと払った。
「右なら強いぞ。引いてみろ」
子は右を見た。右の髭は短い。つかむところがない。
子は首を傾げ、それ以上引かずに、ダリオの器の茸をじっと見た。
「やるよ」
茸を一つ、子の器に落とした。子はそれを両手で受け、かじり始めた。
ダリオは器を持ち上げ、残りの粥を飲み干してから、炉のほうを見た。
「にしても、でかい鍋だ。何人ぶんなんだ」
近くにいた蜥蜴人の若い男が振り向いた。
「八が六つと、二だ」
リナが止まった。
「八が……六つと、二……?」
「二の鍋は、八が一つと二だ」
「ま、待ってください。八で一まとまり、それが六回、あと二……」
リナは器を膝に置き、指を折り始めた。人間の指は十本しかない。途中で足りなくなった。
そこへ鴉人の長老が通りかかった。長老は、石段の子らを一人ずつ数えていた。
「三つと、三つ。あと一つで、群れだ」
リナの指が止まった。
「待ってください。群れって何人からですか? 六から? 七から?」
「群れは群れだ」
長老は、そう言って通り過ぎていった。
リナはしばし黙り、それから顔を上げた。
「分かりました。全部、人間の数に直します」
指を折り、目を閉じ、また開けて、宣言した。
「砦に住んでいるのは、だいたい六十人です。鍋が二つで、そのぶん。子どもは七人で、その中に入っています。群れの数え方は、わたしは諦めました」
「おう」
ダリオは言った。
「鍋を訊いただけなんだが」
「だって、割り切れないんですよ。この人たちの数え方、みんな桁が違うんです。直さないと、気が済まないでしょう」
誰も頼んでいない合計が、そこにあった。
リナは満足して、粥を飲み始めた。ダリオが器を差し出すと、蜥蜴人の女は黙って、大男ぶんの目盛りで二度すくった。
ダリオはおかわりを置いてもらい、門のほうを見た。
門柱に、三つの穴。拳がすっぽり入る穴だ。着いた晩、ダリオはいちばん下の穴に拳を入れた。底は乾いて、冷たかった。楣には古い字が刻んである。ヴィルマは字をろくに読めないくせに、あの句だけは、目を閉じても言える。
「ヤラ」
「なんだ」
「門の穴の、釘はどこへ行った」
ヤラは門を見た。それから、ダリオを見た。
「南へ持っていった、と長老は言う」
「南のどこだ」
「知らない」
ヤラは粥を飲んだ。それきりだった。
*
夜になって、壁の上の鉄籠に、篝火の火が入った。
薪に火が移ると、樹脂の匂いが立ちのぼった。パチン、と薪が爆ぜた。下の村からは、この火が見えるのだろう。荒れ野を歩いていた晩、ダリオたちは山の肩に小さな灯を見たことがある。
山の夜の風は、谷のほうから吹き上げてくる。壁の石を撫でて、篝火の煙を斜めに流した。遠くで、山羊の鈴が一度だけ鳴って、鳴り止んだ。沢の音が、ずっと下で続いていた。
ダリオは壁の階段を登った。
一番上の通路に、若い灰狼が立っていた。壁の番だ。若いのは、ダリオの横顔に鼻を近づけ、一度だけ嗅いで、うなずいた。二度目から名で呼ぶのはヤラの流儀だが、若いのはダリオの名を知らない。黙って並んだ。
篝火の籠が、三歩先にあった。火が顔の左半分を暖めた。焦げた髭の、左のほうだ。
北を見た。
尾根の腹に、坑の口がある。雲が月を隠しているので、ただの黒い窪みだった。冬のあいだ、この暗さの奥から、下りてくるものがあった。
「下の村からは、この火が見えるんだろうな」
若い灰狼は、うなずいた。
「毎晩、焚く」
「燃やす薪は、あるのか」
「ハイマツなら、ある」
階段の音がした。ヤラが上がってきて、壁の石に背をもたせた。
「ダリオ」
「おう」
「明日の夜明け、オドが水門の話をする」
「爺さんが?」
「坑と水門を、いちばん知っているのはオドだ。仕事の前に、話を聞け」
「夜明けか」
「夜明けだ」
「朝は弱いんだが、爺さんの話なら聞く。朝飯は出るのか」
「出る」
「なら、聞く」
ヤラは鼻を鳴らして、階段を下りていった。
ダリオは壁にもたれ、北をもう一度見た。坑の口は、暗いままだった。
夜明けまで、まだ薪をいくつも継ぐ。




