↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/24

第15章 書庫

皐月十一日の午前。雲が低く、砦の石壁は湿った色をしていた。


ブリギッテは鴉人の長老について、塔の下の石段を降りた。ケスとヤラも、あとから段を降りてきた。


石段は狭く、壁に手をつけると、冷たさが指に染みた。下のほうから、油と古い紙の匂いが薄く漂ってきていた。


長老は、段の数を数えるように、ゆっくり降りた。


長老は、翼の先で扉の錆びた鋲を弾き、狭い扉を押し開けた。


「書庫だ」


扉の内側は、薄暗かった。ブリギッテは、掌に小さな灯をともした。橙の光が、棚の縁と箱の角を、ぼんやりと照らした。灯の光は、壁のすぐ先で途切れた。


石造りの小さな部屋だった。窓はない。壁に沿って木の棚が並び、その隙間に木の箱が積まれていた。棚の上には、藁と羽毛が少し残っていた。塔の上の止まり木から、風に運ばれたものだろうか。


棚の奥には、巻かれた布や、紐で綴じられた厚い紙の塊が、いくつも並んでいた。この砦で、そのすべてを読める者が何人いるのか、ブリギッテはふと思った。


部屋の空気は、中庭よりずっと冷えた。


長老は、手近な箱の蓋を開け、中から油布にくるんだ紙の束を取り出した。


束は、布にくるんだまま、四角い塊だった。長老は、両手でそれを運んだ。


布を解くと、古い油と埃の匂いが立ち上った。


乾いた紙の匂いと、保存のために塗られた獣の油の匂いが混ざり合い、部屋の冷たい空気の中に、独特の重みを添えていた。


ブリギッテは、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


街の教会の、蝋燭と古い木の匂いとは違う。


もっと、土に近い匂いだった。土と、脂と、長いあいだ眠っていたものの匂いだった。


埃が、掌の灯の光の中を、ゆっくり舞っていた。光に照らされて、はじめて見える埃だった。


ブリギッテは、袖口で鼻を押えた。くしゃみが出そうになったからだ。


長老は紙の束を机に置いた。


「兵の名簿だ」


ブリギッテは、床の箱につまずかないように注意しながら、机に寄った。


紙は黄ばんで、縁が脆そうだった。ブリギッテは、指先に力を入れないように、紙の端をそっと押さえた。乾いた紙は、指の下でカサカサと鳴った。


一行に名。一行に職。


『ゴルド 見張り』


『ミラ 坑夫』


『ツィルク 伝令』


名は、その下にも続いていた。筆の太さは、どの行も同じだった。どの名も、ていねいに書かれていた。書いた者は、急いでいなかったのだろう。


人間の名前と、亜人の名前が、同じ紙に、同じ筆の太さで並んでいた。


ブリギッテは、職の欄に目を走らせた。


どの行にも、何かが書かれている。


「見張り」「坑夫」「伝令」。下のほうの行には、「槍」の字や「弓」の字も見えた。


空白は一つもない。


ブリギッテは、街の組合のことを思った。荷を運ぶ土竜人も、伝令の鴉人も、街ではみな「雑役」とひとまとめに呼ばれる。誰が何の役をしているのか、ブリギッテは訊いたことがなかった。


ここでは、名前があれば、必ず職がある。


ブリギッテは、その事実を胸の中でゆっくり転がした。


何も言わなかった。


ブリギッテの指は、三つ目の行で止まった。


「あの、この名前は」


ブリギッテは、指先で紙の端を押さえながら、声に出して読もうとした。


「ツィルカ、伝令……」


「ツィルカではない」


ケスが首を傾げて訂正した。


「ツィルクだ。語尾を、カッと鳴らす」


「あ、ツィルク……」


「いや」


ヤラが口を挟んだ。


「その者は狼だ。狼のツィルクだ」


「え?」


ブリギッテは、ケスとヤラを交互に見た。


「でも、ケスさんが」


「鴉のツィルクと、狼のツィルクは、字が似るのだ」


ケスが、翼の先で机を軽く叩いた。


「だから、混同する」


「そうなんですか」


ブリギッテは、紙の上の字を、もう一度見た。同じ字に見えた。


ケスは、首を右に傾けた。それから、左に傾けた。


「狼のは、もっと腹に響かせる」


ヤラが、喉を鳴らした。


「ツィルク」


石の壁が、すこしだけ反響した。


ブリギッテは、真似をしてみたが、うまく声に出せなかった。喉の奥で、音がころがらなかった。


「……すみません」


「気にするな」


ヤラは短く言って、机の脇に立った。左の耳が、ぴくりと動いた。


ブリギッテは、気まずさを誤魔化すように、また紙へ目を落とした。


どの名の横にも、職が書かれている。


誰も、空白ではない。


*


長老が、別の紙を一枚、机の中央に出した。


「これは、いちばん古い」


紙は薄く、端がぼろぼろに破れていた。下半分は、もともとあったのか、それとも後から破れたのか、無くなっている。破れた縁は、息がかかっただけで、ぽろりと落ちそうだった。


ブリギッテは、手を伸ばしかけて、止めた。


それから、息を止めて読んだ。


『灰壁暦二一二年』


その下に、読める文字が一行だけある。


『この者らを、北の砦へ。』


墨は薄く褪せて、紙の黄ばんだ色にすこし埋もれていた。それでも、筆は、壁の街の書記のものだった。


ブリギッテは、その筆跡に、心当たりのある癖を見つけた。


字の終わりが、どれも小さく跳ね上がっている。


手習い所で、アガタ先生に何度も注意された書き方だ。意識していないと、つい末尾が浮いてしまう。先生はいつも、「終わりで、息を止めなさい」と言っていた。


ブリギッテは、その癖を見つめながら、誰の字かを考えたが、分からなかった。


壁の街の書記は、何人もいる。


「長老様」


ブリギッテは訊いた。


「写してもよいですか。手習い所の先生に見せたいのです」


長老は、ブリギッテを見た。


「訊かれたら、よいと言う」


ブリギッテは頷いた。


「ありがとうございます」


ブリギッテは、腰の袋から紙と筆を出し、写しを取り始めた。


その癖を真似ないように、注意しながら、一文字ずつ。筆を運ぶたびに、自分の字の末尾が浮きそうになった。ブリギッテは、一画ごとに、息を止めた。


『この者らを、北の砦へ。』


長老は、棚の前で待っていた。時々、首が小さく傾いだ。鴉人の目は、薄暗い部屋でもよく見えるのだろう。


インクが、冷たい部屋の空気の中で、ゆっくり乾いていく。


乾くのを待つあいだ、ブリギッテは、油布の端を指でなぞっていた。油布の端には、古い染みがついていた。何の染みかは、分からなかった。


写し終わって、息を吐いた時、ダリオが戸口に立っていた。


大男が、狭い扉を塞いでいる。廊下の光を背にして、広い肩の輪郭だけが明るかった。


「薬箱の、まだいたのか」


「ダリオさん」


ブリギッテは筆を置いた。


「見たことを、全部書くのですか。報告に」


ダリオは、肩をすくめた。


「書くのは組合長だ」


「でも、何を話すんですか?」


「俺は剣だ。見たことだけ話す」


沢で尻から落ちたことも、棘草の実にからまれたことも、書かれるのだろうか、とブリギッテは思った。


ダリオは、長老の方を見た。


「爺さん、ここの紙は、湿るか?」


「乾いている」


ダリオは、満足げに頷いて、去っていった。狭い扉の前が、ふっと明るくなり、また元の薄暗さに戻った。


ブリギッテは、その背中を見送った。


見たことだけ話す。


それを組合長が書く。


ブリギッテは、自分の薬箱の留め具に、そっと指を触れた。


机の端に、一枚の紙が乾かしてあった。


インクの匂いがする。


パウルの写しだろう。


ブリギッテは、それを見なかった。


パウルは、自分のことを話さない。


自分も、訊かないことにしている。


写し終えた紙を丁寧に畳んだ。


部屋を出る前に、ブリギッテは長老に頭を下げた。


「ありがとうございました」


長老は、翼を少しだけ広げた。


部屋を出て、中庭へ出る。


雲の隙間から、わずかに光が漏れていた。光の帯が、中庭の石を斜めに照らしていた。風は、まだ冷たかった。


中庭では、子どもたちの声が遠くに聞こえた。山羊の囲いのほうで、角のぶつかる音がした。


ブリギッテは、廊下の角で足を止め、自分の薬箱を開けた。


中には、包帯と薬草瓶、そして棘草の実が入っている。


その下に、写した紙を滑り込ませた。


棘草の実が、紙の上でカサカサと音を立てた。


ブリギッテは、蓋を閉めた。


カチリ、と留め具の音がした。


写しは、棘草の実の下で、もう音を立てなかった。


ブリギッテは、薬箱を抱え直して歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。