第15章 書庫
皐月十一日の午前。雲が低く、砦の石壁は湿った色をしていた。
ブリギッテは鴉人の長老について、塔の下の石段を降りた。ケスとヤラも、あとから段を降りてきた。
石段は狭く、壁に手をつけると、冷たさが指に染みた。下のほうから、油と古い紙の匂いが薄く漂ってきていた。
長老は、段の数を数えるように、ゆっくり降りた。
長老は、翼の先で扉の錆びた鋲を弾き、狭い扉を押し開けた。
「書庫だ」
扉の内側は、薄暗かった。ブリギッテは、掌に小さな灯をともした。橙の光が、棚の縁と箱の角を、ぼんやりと照らした。灯の光は、壁のすぐ先で途切れた。
石造りの小さな部屋だった。窓はない。壁に沿って木の棚が並び、その隙間に木の箱が積まれていた。棚の上には、藁と羽毛が少し残っていた。塔の上の止まり木から、風に運ばれたものだろうか。
棚の奥には、巻かれた布や、紐で綴じられた厚い紙の塊が、いくつも並んでいた。この砦で、そのすべてを読める者が何人いるのか、ブリギッテはふと思った。
部屋の空気は、中庭よりずっと冷えた。
長老は、手近な箱の蓋を開け、中から油布にくるんだ紙の束を取り出した。
束は、布にくるんだまま、四角い塊だった。長老は、両手でそれを運んだ。
布を解くと、古い油と埃の匂いが立ち上った。
乾いた紙の匂いと、保存のために塗られた獣の油の匂いが混ざり合い、部屋の冷たい空気の中に、独特の重みを添えていた。
ブリギッテは、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
街の教会の、蝋燭と古い木の匂いとは違う。
もっと、土に近い匂いだった。土と、脂と、長いあいだ眠っていたものの匂いだった。
埃が、掌の灯の光の中を、ゆっくり舞っていた。光に照らされて、はじめて見える埃だった。
ブリギッテは、袖口で鼻を押えた。くしゃみが出そうになったからだ。
長老は紙の束を机に置いた。
「兵の名簿だ」
ブリギッテは、床の箱につまずかないように注意しながら、机に寄った。
紙は黄ばんで、縁が脆そうだった。ブリギッテは、指先に力を入れないように、紙の端をそっと押さえた。乾いた紙は、指の下でカサカサと鳴った。
一行に名。一行に職。
『ゴルド 見張り』
『ミラ 坑夫』
『ツィルク 伝令』
名は、その下にも続いていた。筆の太さは、どの行も同じだった。どの名も、ていねいに書かれていた。書いた者は、急いでいなかったのだろう。
人間の名前と、亜人の名前が、同じ紙に、同じ筆の太さで並んでいた。
ブリギッテは、職の欄に目を走らせた。
どの行にも、何かが書かれている。
「見張り」「坑夫」「伝令」。下のほうの行には、「槍」の字や「弓」の字も見えた。
空白は一つもない。
ブリギッテは、街の組合のことを思った。荷を運ぶ土竜人も、伝令の鴉人も、街ではみな「雑役」とひとまとめに呼ばれる。誰が何の役をしているのか、ブリギッテは訊いたことがなかった。
ここでは、名前があれば、必ず職がある。
ブリギッテは、その事実を胸の中でゆっくり転がした。
何も言わなかった。
ブリギッテの指は、三つ目の行で止まった。
「あの、この名前は」
ブリギッテは、指先で紙の端を押さえながら、声に出して読もうとした。
「ツィルカ、伝令……」
「ツィルカではない」
ケスが首を傾げて訂正した。
「ツィルクだ。語尾を、カッと鳴らす」
「あ、ツィルク……」
「いや」
ヤラが口を挟んだ。
「その者は狼だ。狼のツィルクだ」
「え?」
ブリギッテは、ケスとヤラを交互に見た。
「でも、ケスさんが」
「鴉のツィルクと、狼のツィルクは、字が似るのだ」
ケスが、翼の先で机を軽く叩いた。
「だから、混同する」
「そうなんですか」
ブリギッテは、紙の上の字を、もう一度見た。同じ字に見えた。
ケスは、首を右に傾けた。それから、左に傾けた。
「狼のは、もっと腹に響かせる」
ヤラが、喉を鳴らした。
「ツィルク」
石の壁が、すこしだけ反響した。
ブリギッテは、真似をしてみたが、うまく声に出せなかった。喉の奥で、音がころがらなかった。
「……すみません」
「気にするな」
ヤラは短く言って、机の脇に立った。左の耳が、ぴくりと動いた。
ブリギッテは、気まずさを誤魔化すように、また紙へ目を落とした。
どの名の横にも、職が書かれている。
誰も、空白ではない。
*
長老が、別の紙を一枚、机の中央に出した。
「これは、いちばん古い」
紙は薄く、端がぼろぼろに破れていた。下半分は、もともとあったのか、それとも後から破れたのか、無くなっている。破れた縁は、息がかかっただけで、ぽろりと落ちそうだった。
ブリギッテは、手を伸ばしかけて、止めた。
それから、息を止めて読んだ。
『灰壁暦二一二年』
その下に、読める文字が一行だけある。
『この者らを、北の砦へ。』
墨は薄く褪せて、紙の黄ばんだ色にすこし埋もれていた。それでも、筆は、壁の街の書記のものだった。
ブリギッテは、その筆跡に、心当たりのある癖を見つけた。
字の終わりが、どれも小さく跳ね上がっている。
手習い所で、アガタ先生に何度も注意された書き方だ。意識していないと、つい末尾が浮いてしまう。先生はいつも、「終わりで、息を止めなさい」と言っていた。
ブリギッテは、その癖を見つめながら、誰の字かを考えたが、分からなかった。
壁の街の書記は、何人もいる。
「長老様」
ブリギッテは訊いた。
「写してもよいですか。手習い所の先生に見せたいのです」
長老は、ブリギッテを見た。
「訊かれたら、よいと言う」
ブリギッテは頷いた。
「ありがとうございます」
ブリギッテは、腰の袋から紙と筆を出し、写しを取り始めた。
その癖を真似ないように、注意しながら、一文字ずつ。筆を運ぶたびに、自分の字の末尾が浮きそうになった。ブリギッテは、一画ごとに、息を止めた。
『この者らを、北の砦へ。』
長老は、棚の前で待っていた。時々、首が小さく傾いだ。鴉人の目は、薄暗い部屋でもよく見えるのだろう。
インクが、冷たい部屋の空気の中で、ゆっくり乾いていく。
乾くのを待つあいだ、ブリギッテは、油布の端を指でなぞっていた。油布の端には、古い染みがついていた。何の染みかは、分からなかった。
写し終わって、息を吐いた時、ダリオが戸口に立っていた。
大男が、狭い扉を塞いでいる。廊下の光を背にして、広い肩の輪郭だけが明るかった。
「薬箱の、まだいたのか」
「ダリオさん」
ブリギッテは筆を置いた。
「見たことを、全部書くのですか。報告に」
ダリオは、肩をすくめた。
「書くのは組合長だ」
「でも、何を話すんですか?」
「俺は剣だ。見たことだけ話す」
沢で尻から落ちたことも、棘草の実にからまれたことも、書かれるのだろうか、とブリギッテは思った。
ダリオは、長老の方を見た。
「爺さん、ここの紙は、湿るか?」
「乾いている」
ダリオは、満足げに頷いて、去っていった。狭い扉の前が、ふっと明るくなり、また元の薄暗さに戻った。
ブリギッテは、その背中を見送った。
見たことだけ話す。
それを組合長が書く。
ブリギッテは、自分の薬箱の留め具に、そっと指を触れた。
机の端に、一枚の紙が乾かしてあった。
インクの匂いがする。
パウルの写しだろう。
ブリギッテは、それを見なかった。
パウルは、自分のことを話さない。
自分も、訊かないことにしている。
写し終えた紙を丁寧に畳んだ。
部屋を出る前に、ブリギッテは長老に頭を下げた。
「ありがとうございました」
長老は、翼を少しだけ広げた。
部屋を出て、中庭へ出る。
雲の隙間から、わずかに光が漏れていた。光の帯が、中庭の石を斜めに照らしていた。風は、まだ冷たかった。
中庭では、子どもたちの声が遠くに聞こえた。山羊の囲いのほうで、角のぶつかる音がした。
ブリギッテは、廊下の角で足を止め、自分の薬箱を開けた。
中には、包帯と薬草瓶、そして棘草の実が入っている。
その下に、写した紙を滑り込ませた。
棘草の実が、紙の上でカサカサと音を立てた。
ブリギッテは、蓋を閉めた。
カチリ、と留め具の音がした。
写しは、棘草の実の下で、もう音を立てなかった。
ブリギッテは、薬箱を抱え直して歩き出した。




