第24章 錆びた釘
錆び釘亭。皐月二十日の夜。空は晴れていた。
北門をくぐってから、二日がたっていた。ダリオの左腕の腫れは引いたが、骨はまだ繋がらない。腕は白い布で首に吊り、剣は右腰に下げたまま、カウンターの端の席に座っている。ここが定位置だ。
麦酒の苦い匂いが、鼻の奥へ届く。腹の底が、熱を欲しがっていた。山の夜の冷えが、まだ骨に残っている。特に左腕は、布越しに空気が触れるたびに、鈍く重かった。
右手に麦酒の杯。
隣で、リナが指を折って計算をしていた。麦藁色の髪が揺れる。油の灯の光が、その髪の毛一本一本を、金色に縁取っていた。
「残りの四十枚。銀貨にして八百枚。五人で割ると、一人百六十枚。金貨にして、八枚」
リナの目が、銅貨のように細く光った。
「八枚って、銅貨三千二百枚。これで麦酒を買ったら、六百四十杯飲める」
リナの目は、まっすぐにダリオを見つめたまま、瞬きもしなかった。
「六百四十杯飲んだら、金が残る前に腹が破れるぞ」
ダリオは麦酒を一口すすった。冷たい。喉の奥を撫でて、胃袋に落ちていく。泡の感触が、舌の上で弾けた。
「まだ来てない」
「ええ。分かっています。『報ずるを以て、残りの報酬を支払う』ですから」
リナは皿の上の塩豆を数え始めた。塩気の強い豆が、皿の上で灰色に光っている。リナの指が、右と左で違う数を折りたたみながら、豆を一つずつ脇へ寄せていく。計算が合わないと、眉の端が釣り上がる。
「エーリカさんが、これから書くんですもの」
顎で、店の奥の空いた卓を指した。卓の上には、インク壺と、紙の束が用意してあった。
「それに、ケスさんの日当は前金からもう出ているから。残り四十枚は、わたしたち五人の取り分ですよね」
リナの指が、五本立った。
「五人か。群れには足りないな」
天井近い梁の上から、ケスの声がした。
見上げると、黒い羽を畳んで止まり木のように腰を下ろしている。首が傾げられていた。梁の煤の黒さと、ケスの羽の黒さが、同じ色に見えた。
「金は、まだエーリカの懐で寝ている。羽は生えていない」
梁の下で、ダリオの麦酒の泡が、もう一度膨らんだ。
「金に羽は生えませんよ」
リナが笑った。
「生えたら、わたしの財布に飛び込んでほしいものです」
リナは、本当に楽しそうに笑った。
ヴィルマは二つ隣の席に座って、両手で湯呑みを包んでいた。蜂蜜を溶かした湯だ。飲んではいない。ただ持っている。その手の甲には、古い火傷の痕があった。山の岩場で掠めた新しい傷の痕も、薄く重なっている。
「賢者さんは来ないんですか」
リナが周りを見た。カウンターの端には、客の忘れていった木の杯が一つ、逆さに置かれていた。
「大聖堂の近くの宿だと」
ダリオが答えた。
「賢者だからな。泊まる所くらい、自分で選ぶさ」
ヴィルマが小さく頷いた。
「法衣の泥を、洗っているかもしれない」
白い法衣は、泥よりも、煤の方が落ちにくい。
砦の泥は、何度か洗わないと落ちないだろう。
床の板は長年の酒と泥に浸って黒ずんでいる。カウンターの木の縁も、手垢と傷で丸く削れていた。ダリオの長靴の底には、北街道の砂が詰まっていた。床に擦り付けると、ざらざらと音がした。
通りから、笛の音がした。
同じ短い調べを、繰り返している。下町の子どもの稽古だ。文月の夏祭りの、月の歌だろう。音はまだ若い。たまに途切れる。また始まる。
油の灯が揺れた。油の匂いと、麦酒の匂い、煮込んだ肉の匂いが、煙の中で混ざっていた。誰かの咳払いが、店の奥で響いた。
錆び釘亭はいつもこの刻がいちばん騒がしい。奥の卓ではサイコロの音、窓際では野次馬の笑い声。だが、カウンターの端だけは静かだった。
ヴィルマの湯呑みから、湯気が細く立ち昇っていた。蜂蜜の甘い匂いが、麦酒の苦さと混ざる。
*
階段の踏板が軋んだ。
重い足音だった。
エーリカが二階から下りてきた。右足をわずかに引きずっている。
手に羽根ペンを持っていた。奥の卓へ行き、椅子に座った。椅子の背が、床を擦って軋んだ。
ヴィルマが立ち上がる。懐から油布に包んだ紙を取り出し、渡した。布が擦れる乾いた音がした。油の匂いが、ほんのりと漂う。
鴉人の長老が書いた名簿の写しだ。
エーリカはそれを受け取り、油布を開いた。鴉人の字は、細くて硬い。真っ直ぐな線が、規律正しく並んでいた。
目が紙の上を走る。
誰も声をかけなかった。エーリカも何も言わなかった。
読み終えると、黙って油布を畳み、上着の内側にしまった。エーリカの手つきは、慣れたものだった。
新しい羊皮紙を広げ、インクにペンを浸した。ペンの先が、煤黒い光を帯びた。
ダリオは杯を持ったまま、奥の卓へ歩み寄った。リナが続き、ヴィルマが続き、ブリギッテが薬箱を抱えて卓の反対側に立った。ブリギッテの袖は、相変わらずまくし上げられていた。薬箱の留め具に、赤い棘草の実が一つ、挟まっていた。
羽根ペンが走る。
紙を擦る音だけが、店の騒がしさの中で、妙にはっきり聞こえた。インクの煤の匂いが、麦酒の匂いに混じって漂ってきた。ダリオは、その音を聞きながら、麦酒の残りを飲み干した。
ダリオは紙を覗き込んだ。
『普請方へ 古き砦の有り様を報ず
一、古き砦に住む者あり。数、およそ六十。北の村々と古くからの取り決めあり
一、坑の奥の魔物の巣を払い、坑の水門を閉じ、坑に水を戻した
一、北街道三つ目の一里塚より先、砦に至る道の魔物は減じた
灰壁暦三一三年 皐月二十日 冒険者組合 組合長 エーリカ・ランゲ』
インクが乾くのを待つ間もなく、エーリカは紙を折り畳んだ。折り目が、真っ直ぐに入った。
ブリギッテが指先で紙の端を指した。
「種族は、書かないのですか」
ブリギッテの声は、静かだったが、店の騒がしさの中でもよく通った。
エーリカはペンを置いた。ペンの先が、机の上で小さく転がった。
「普請方が訊いたのは、有り様よ。数と、取り決めと、道」
「訊かれたら」
「訊かれたら、答えなさい。あなたは嘘をつけないもの」
ブリギッテは頷いた。ブリギッテの手が、無意識に薬箱の蓋に触れた。
エーリカは封蝋を溶かし、封をした。火の匂いが、一瞬だけ漂った。赤い封蝋が、柔らかく溶けて紙の上に落ち、エーリカの親指が、それを強く押し付けた。
名簿の写しを持って立ち上がる。
「これは、わたしが預かる。あなたたちは飲んでいなさい」
二階へ上がっていった。
エーリカの足音が、階段を上っていく。一段ごとに、右足が少し遅れた。
天井の梁が、わずかに揺れた。粉塵が、油の灯の中をゆっくりと落ちていく。
*
ダリオはカウンターの端の席に戻った。腰を下ろすと、椅子が軋んだ。
マスターが、麦酒の注ぎ壺を提げてきた。
「二杯目ですね」
「ああ」
マスターの手が、壺を傾ける。喉を鳴らして、麦酒が流れ込む。泡が立ち、杯の縁まで満ちる。白い泡が、盛り上がってから、ゆっくりと崩れていく。
「どうぞ」
マスターはそれだけ言って、カウンターの向こうへ戻った。
ダリオは右手で杯を持った。
左手を持ち上げようとして、やめた。吊ったままでは、髭に届かない。肩の筋肉が、布の重さを覚えていた。
右手の指を顎へやった。髭をつまもうとした。指先に、焦げた毛の硬い感触がした。
左の髭は焦げていて、先が丸まって縮れている。右の髭は短い。揃わない。
指が止まった。指は、顎の毛の感触を確かめたまま、そこに留まった。
目が、杯の向こうへ行った。
酒樽の陰。客の目の高さよりずっと上。
カウンターの奥の柱に、錆びた大釘が三本、交差して打ち込んであった。
頭は曲がっている。錆が剥がれ落ちて、柱の木肌に黒い滲みを作っていた。一本の根元には、古い煤の筋が垂れていた。樽の木の匂いと、釘の鉄の匂いが、混ざっていた。
前からあったものだ。
何年も通って、目に入らなかったはずはない。
だが、気にしたことはなかった。
今日は、目が行ったまま離れない。
酒樽の影が、釘の一本に落ちて、半分を黒く塗りつぶしていた。
砦の正門の古い門柱。あそこには、拳が入るほどの穴が三つ、並んでいた。
門柱の石は、灰色で、冷たかった。
穴の底は乾いていて、冷たかった。
ここには、釘が三本ある。
鉄の錆びた匂いが、鼻の奥に残っていた。山の門柱の穴の底も、同じ匂いがしたかどうか、思い出せなかった。
錆の色も、打ち込まれた角度も、違いはある。だが、三つであることには、変わりがない。
ダリオは杯を置き、釘を見た。杯の底が、カウンターに木の音を立てて着いた。
マスターはカウンターの反対側で、杯を拭いている。何も言わない。杯の水滴が、マスターの手の甲で光っていた。
外の笛が止まった。また始まった。
笛の音は、薄い壁越しに、遠くで響いていた。祭りまで、まだ日がある。
ダリオは麦酒を飲むのを忘れて、柱の釘を見ていた。
気がつけば、髭より釘が気になっていた。




