第13章 石の巣
皐月十日の朝、空は晴れわたっていた。
砦の中庭は、石の色が朝の光で白んでいた。見上げると、壁の上の鉄の籠の底で、昨夜の篝火の灰がまだうっすらと煙っていた。ブリギッテは井戸の脇で手を洗い、薬箱の留め金を確かめた。留め金は錆びていないが、硬い。薬草の匂いと、山羊の乳の匂いと、石の匂い。砦の朝は、匂いから始まる。
「登るぞ」
ケスが言った。
見上げると、高い塔が空を切っていた。壁にびっしりと開いた穴が、朝の光で黒く見えた。止まり木の穴だ。
「あそこまで、飛ぶんですか」
「当然だ」
ケスは翼を広げた。黒い羽が光を遮り、一瞬だけブリギッテの顔に影を落とした。羽音もなく、ケスは壁の穴の一つに止まった。次の瞬間には、もう一段上の穴へ移っていた。
石の階段が、塔の内側を螺旋に巡っていた。踏み板はない。布を巻いた縄が、石の柱に垂れている。ブリギッテは薬箱を抱えて、一段ずつ上った。石は冷たく、靴の裏が滑った。
壁の穴の大きさは、拳二つぶんほどある。中には干し草が詰められ、古い羽毛が風に乗って鼻先をかすめた。くしゃみが出そうになる。
三十段を過ぎたあたりで、息が切れ始めた。
四十段。足が鉛になる。太ももの裏が、引きつる。
頭上から、ケスの声が落ちてきた。
「遅い」
「鴉人の方と比べないでください」
ブリギッテは息を切らして言った。
「わたしは、足で登っているんですから」
「知っている」
ケスは窓の縁に止まって、翼を畳んでいた。
「人間は、足が遅い」
「失礼ですね」
「事実だ」
ケスは嘘をつけない。だから、仕方がない。ブリギッテは荒い息を整えながら、最後の一段を上った。
*
塔の上は、風が強かった。
見張り台だ。壁の内側にも、穴がびっしりと並んでいる。中には藁が敷かれ、羽毛が散らばっている。古い羽根の匂いがする。埃っぽくて、少し甘い。長いあいだ、鴉がここで眠ってきた匂いだ。
ケスは壁の穴の前で、首を傾けて数えた。
「三。六。群れ。群れの群れ」
指の数ではない。目で数えている。
「巣の鴉は、群れより多かった。歌のとおりだ」
「歌?」
「古い歌だ」
奥から、衣擦れの音がした。
鴉人の長老だ。羽は灰のように白く、壁にもたれて、目を閉じていた。羽の先が、風でわずかに揺れていた。古い埃と、干した薬草の匂いがした。
ブリギッテが近づくと、長老は目を開けた。琥珀色の目だった。長老は、喉の奥で音を鳴らした。枯れた笛のような音だったが、抑揚があった。歌だ。
『巣の鴉が数えて、門の釘が閉める』
一行だけ。
そして、黙った。
ケスは何も言わず、静かにうなずいた。
ブリギッテは、その言葉を口の中で転がした。
訊きたい気持ちが湧いたが、長老はもう目を閉じていた。琥珀色の瞳が、まぶたの裏に隠れた。古い歌は、答えをくれない。ケスもそれ以上は訊かず、ただ壁の穴を眺めていた。
*
窓から、南が見えた。
荒れ野が、赤茶色の板のように広がっている。棘草の海は、遠ざかるほど平らになり、色を失って、やがて灰の色になった。風の筋で、赤い実の波がうねっているのが分かった。
その先に、壁の街があった。
霞んでいて、よく見えない。ただ、壁の石が、太陽の光を受けて、白く光っているのが分かった。あそこに、塔があるはずだ。鐘が鳴っているはずだ。でも、ここからは聞こえない。風の音だけが、穴のあいた壁を通って、笛のように鳴っていた。
ブリギッテは、しばらくそれを見ていた。
薬箱の革越しに、自分の心臓の音を感じた。
あの街で、彼女は手習い所を出たばかりの修道女だった。ここでは、薬箱を持った、ただの人間だ。どちらも変わらないが、どこか違う気がした。
風が、彼女のそばかすを撫でた。
*
降りると、ヤラが待っていた。
「病人の間だ」
ヤラは短く言って、歩き出した。ブリギッテは薬箱を抱え直して、その後を追った。
病人の間は、石の小さな部屋だった。窓が一つ、低い位置にあり、山羊の乳の匂いが漂ってきた。壁の石は、手のひらで触れると冷たかった。
若い蜥蜴人が、石の台の上に寝ていた。右足のくるぶしから下が、腫れていた。皮膚の色が、青黒く変わっている。指が四本、そろえて伸ばされていた。
「坑守だ」
蜥蜴人は言った。
「水門の間に、あいつらの巣がある。梁を入れに行って噛まれた」
「坑守?」
ブリギッテは膝をついて、傷を見た。
牙の跡が四つ、弧を描いて並んでいる。深い。だが、骨は無事に見える。膿んではいない。
「洗います。少し冷たいですよ」
水袋の水で、傷を洗った。蜥蜴人は動かなかった。皮膚は冷たく、滑らかだった。人間の皮膚とは違う。でも、温かい掌を当てると、筋がわずかに緩むのが分かった。
「痛みますか」
「足だけだ。熱くない」
ブリギッテは掌を合わせ、灯の術を呼び出した。
柔らかい光が、掌から滲み出る。傷口に、温かく降り注がせる。光は、水が紙に染みるように、ゆっくりと肉に入っていった。
蜥蜴人が、小さく息を吐いた。
「温かい」
「効いていますか」
「十分だ」
ブリギッテは、思わず笑った。
城壁の外で、初めての施療だ。街の施療院の匂いも、先輩の監視もない。ただ、患者と、薬箱と、自分の掌がある。法衣の袖が埃っぽくなっているのも、膝に石の冷たさが染みているのも、構わなかった。ここで、役に立っている。その事実が、胸の中で温かく灯った。ずっとやりたかったのは、これだ。
「昔、入れた水を、もう一度入れる」
蜥蜴人は、天井を見たまま言った。
ブリギッテは、水袋の栓を締めながら訊いた。
「昔、誰が入れたのですか」
蜥蜴人は、視線を天井からブリギッテへ移した。黒い瞳が、瞬いた。
「祖だ」
それだけだった。
それ以上は、訊かなかった。彼も黙り、ブリギッテも薬箱を閉めた。薬箱の留め金が、カチリと鳴った。傷には、もう一度、夕方に灯を当てればいい。腫れは、二、三日で引くだろう。
*
部屋を出ると、ヤラが廊下の突き当たりに立っていた。
灰色の毛並みが、窓からの光に艶めいていた。左の耳の欠けた先が、光の縁に白く見えた。
「ブリギッテ」
ヤラは言った。
「昼を食ったら、礼拝の間へ来い。議が開かれる」
「議?」
「お前たちも呼ばれる」
ヤラは、それだけ言って、背を向けた。長い尻尾が、一回だけ揺れた。
ブリギッテは薬箱を抱え直した。
議。壁の街の議場は見たことがないが、ここでの議は、石の席で行われるらしい。何を話すのだろう。水のことだろうか。それとも、わたしたちのことだろうか。
風が、廊下の奥から吹いてきて、法衣の裾を揺らした。




