第12章 門の三つの穴
皐月九日の夕方。晴れ。
一行は古砦の正門の前に立っていた。
昼の鐘のころから、足は止まっていなかった。峠の上の空気は薄く、坂の一段一段が肺に重い。けれど、着いてしまえば、それもどうでもよくなる。日が傾き始めると、山の影が道を真っ先に呑んだ。
ダリオは肩の荷を持ち直し、靴裏の泥を門柱の石で擦った。赤い棘草の実が靴紐に絡んでいて、爪で取った。腹が鳴った。干し肉の包みが、肩で重い。
灰色の石壁が夕日を受けて、薄い橙色に染まっている。門扉は樫の板で、鉄の鋲が光っていた。
壁は高く、積んである石は一つ一つが大人の胴ほどもありそうだ。西の面だけが光を浴びて、東の面はもう青い影に沈んでいた。壁の上に並んだ黒い跡も、近くからは煤けた石の色として見えた。塔の上を、鴉が二羽回っていた。羽の黒が、夕方の空にくっきりと見えた。
「新しいな」ダリオは言った。
「この春、作り直した」ヤラは言った。「雪の重みで、前のが腐ったからだ」
樫の板は白く、削った面に手斧の跡が残る。板と板の継ぎ目はまだ詰まらず、向こうの夕日が細く漏れていた。鋲の頭はどこも光っていて、一つとして錆びていなかった。門の下には、削りかすを掃いた跡が薄く残っていた。
門柱の石は古かった。角が欠け、苔が黒く染みている。その石に、穴が三つ、空いていた。
新しい扉を挟んで、両の柱だけが古い。石の面には、長い年月の雨の筋が落ちていた。
拳が入るほどの大きさだ。
「なんだ、これは」
ダリオは足を止めた。
穴は三つとも、腰の少し上の高さに並んでいた。三つのあいだには、手の幅ほどの石が残っていた。穴の縁は滑らかで、石が少しだけ欠けている。深い。手を近づけると、穴の中からひやりとした空気が漏れていた。
ダリオは拳を入れてみた。
入る。
ひやりとした。
「深いぞ」
手首まで入る。奥は指を伸ばしても届かない。石の内側は乾いていて、冷たい。引き抜くと、拳の甲に白い石粉が薄くついた。穴の底からは、何の音もしなかった。
「中に、蜘蛛とかいるかも」ケスが言った。
「やめろ」
ダリオは拳を抜いた。手の甲に、冷たい石の匂いがついた。
ケスが別の穴を覗き込み、首を傾けた。
「深い」
リナとブリギッテも穴を覗き込んだ。ダリオは三つの穴を順に、目でなぞった。どれも同じ深さに見えた。ヤラは穴を見なかった。荷を下ろして、扉のそばで待っていた。
「字がある」
ヴィルマが言った。
ダリオは顔を上げた。
門の楣の石に、古い字が刻まれていた。煤けた石の面に、彫り筋が白く浮いている。字は大きく、夕日の当たり方で、彫りの溝が濃い影を落とした。苔の黒い染みが、字の下のほうに垂れていた。
ブリギッテが見上げる。袖をまくり、石に手を触れず、少し離れて立った。
「読めます」
彼女は声に出した。
『我ら三つの手、この門に釘を打つ。』
ヴィルマが、石を見ずに言った。
『山の者、野の者とともに』
ヴィルマは途中で止まらなかった。息も切れず、子どもが歌を言うように言った。
ブリギッテは振り返った。
「読めるんですか」
「読めない」ヴィルマは言った。「知ってる。村の子はみんな言える」
「呪文ですか?」
「ただの言葉だ」
ブリギッテは読み終えて、小さく息を吐いた。
ダリオは字の形を覚えようとしたが、すぐに諦めた。読めない字は、読めない。
ダリオは門柱の穴をもう一度見た。
「入るぞ」
ヤラが言った。
*
ヤラが樫の扉を押すと、扉は思ったより軽く開いた。
門をくぐった。
中庭は広い。
石畳の石は、中央が擦り減って浅く窪んでいた。何百年分かの足に踏まれた跡だ。石畳の向こうに、山羊小屋と倉がある。壁の際には山羊の囲い。
壁の内側は、外から見るより高い。石の積み方は内側のほうが粗く、上のほうに、塗り替えた跡が何段もあった。山羊小屋のそばで、土竜人の男が干し草を束ねていた。目はこちらに向いていなかったが、手は止まらなかった。
夕方の光が斜めに差して、石の匂いと、干し草の匂いと、山羊の乳の匂いを混ぜていた。
夕方の中庭は、音が多い。山羊の鳴く声、小屋の中の蹄の音、遠くで水を汲む音。それらは石の壁に当たって、柔らかく戻ってきた。どこかの戸口から、湯気の匂いが漏れていた。井戸の縁は濡れていて、汲んだばかりの桶が石畳に置かれていた。
囲いの山羊は、夕方のえさの時間を待っているのか、柵の際に並んでいた。数頭が首を伸ばし、一行の荷の匂いを嗅いでいた。
子どもたちが遠巻きに見ていた。
灰狼の子と蜥蜴人の子。
壁の陰から半身を出して見ている。灰狼の子は鼻をひくひくと動かしている。蜥蜴人の子は動かず、目だけが動いていた。子らの後ろに、もう少し大きい灰狼が立って、子らを見ていた。
もう一人、塔の上から鴉人が見下ろしている。黒い羽。ケスと同じだ。塔の壁の止まり木の穴の一つに、黒い影がはまっていた。
蜥蜴人の子が、ダリオの足元に近づいてきた。
足を見る。
手を見る。
順番に見ている。視線はゆっくりで、一つ一つ確かめるように動いた。
最後に顔を見る。髭を見る。
首をかしげた。
「なんだ」ダリオは屈み込んだ。「初めてか、髭」
子どもは答えない。走っていった。
「足と手で覚えるんだ、あいつらは」ケスが言った。
「髭は、覚える要素がないのか」
「匂いが違うだろ、多分」
ダリオは自分の髭を撫でた。右は短く、左の先は、祝福の日の蝋燭で焦げて縮れている。子どもが首をかしげるのも、無理はない。髭の先を、指でひねった。
ダリオは周りを見た。
灰狼、蜥蜴人、鴉人、土竜人。
人間がいない。
法衣の白と、藁色の髪と、赤茶の短髪と、それから自分の髭。壁の内側で、人間の色はそれだけだった。壁の上に立つ影も、囲いのそばで薪の束を運ぶ後ろ姿も、どれも人間のそれではなかった。
自分たちだけだ。
背中が涼しい。
恐怖ではない。ただ、そこにいるのが自分たちだけだという事実が、風のように背を撫でた。言葉が通じることは、変わらない。それでも、背中の涼しさは取れなかった。ケスだけが、羽の黒い背中で、当然のようにそこにいた。
「こっちだ」
ヤラが言った。
*
「寝床は、あそこだ」
ヤラが指さすのは、倉だ。石造りの四角い建物で、二階の窓が開いている。
「二階だ」ヤラは言った。
「ありがたい」ダリオは言った。「床があるだけで、天国だ」
倉の戸は重く、押すと石の枠が低く軋んだ。中は干し草の匂いで充ちていた。
中にはいる。
階段を上る。
木の床。藁の敷かれた場所がある。
階段の踏み板は、真ん中だけが磨り減っていた。二階の床は板張りで、板の隙間から下の干し草の匂いが立ち上っていた。西向きの窓が一つ開いていて、夕日の残りが床に長く射していた。天井の梁は黒く煤けていて、古くから火を使った跡があった。
「広いな」
荷を下ろす。
膝が悲鳴を上げる。
藁の匂いが、鼻の奥に残る。歩き詰めの足が、ようやく床の固さを喜んでいる。毛布を広げ、荷を壁際に並べる。剣は枕元だ。壁の石は冷たく、手を当てると、昼の暑さが嘘のようだった。窓から中庭が見下ろせた。山羊の囲いのそばを、人影がいくつか、静かに歩いていた。南の窓の外、荒れ野の向こうに、壁の街のほうの空が赤く残っていた。
中庭には山羊の乳の匂いが立ち込めていた。壁がその匂いを吸って、夕方の冷気と一緒に吐き出している。石の匂いと混ざって、独特の、生き物の匂いがする。
*
夜。
窓から、壁の上の火が見える。
篝火だ。
橙の光が、壁の上の石を照らしている。炎が揺れるたび、壁の黒い跡が明滅した。
パチパチと、薪が爆ぜる音がする。風の向きで、音の大きさが変わる。
ダリオは毛布にくるまって、それを見ていた。
他の者は寝ている。リナの寝息がゆっくり続いていた。ブリギッテは眠る前に、薬箱の留め金を確かめていた。ケスは、窓枠の高い所に止まっていた。
外は冷える。窓の隙間から、山の夜の空気が入ってくる。昼の歩き疲れが、足の裏からゆっくり昇ってきた。下の階からは、干し草の匂いと一緒に、山羊の乳の匂いが板の隙間を昇ってきた。壁の上には、火のそばに小さな影が並んでいた。
火の光は、窓の枠の形に切れて、床の藁の上に落ちていた。
あの穴のことなんて、もう忘れていた。




