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第11章 迎え

皐月九日の朝は、冷えた。毛布の上に薄い霜が降りていた。ヴィルマは指をこすり合わせてから荷の紐を締めた。かじかんだ指では、結び目に時間がかかる。火の跡に土をかけて、岩場を出た。空は晴れている。沢の音が、昨日より遠ざかっていた。


夜のあいだに霜は岩の陰だけに残っていたが、日が昇ると、雪解けの沢はまた勢いを増した。湿った土の匂いが、日の当たる場所から立ちのぼっている。


ヴィルマは先に立った。道は岩とハイマツのあいだを縫って、北へ登っている。リナが息を切らしているのが背後で聞こえる。


岩の擦れる音、荷の揺れる音、それからリナの息遣い。山道は平地の道より静かだ。それで、足音がよく聞こえる。


朝六つの鐘が鳴るころ――村に鐘はないが、体で覚えている刻――大きな岩が道の左に現れた。岩の上に、三つの影がいた。


二本足で立ち、獣の毛を肩から垂らしている。尻尾がゆっくり揺れていた。真ん中の影は、左の耳の先が欠けている。古い噛み傷だ。


三つとも、こちらを見ている。早朝の光を背にしているので、目の色までは分からない。ただ、影の輪郭が、昨日よりはっきりと動いていた。


「ヤラだ」


ヴィルマは言った。手を挙げた。


「迎えか」


ダリオが背後で言った。


「迎えだ」


ヴィルマは答えた。


「呼ばれてないのに?」


リナが小声で言った。


「呼ばれてる」


ヴィルマは言った。


*


灰狼の足は、音がしない。


岩から下りてくるときも、雪の残る斜面を歩くときも、草を踏むときも、音がしない。気配だけが、ふっと横に来る。


草を分けて歩く音もしない。岩を踏む音もしない。そのくせ、どこにいるかは分かる。空気が、わずかに引き結ばれるからだ。


子どものころ、ヴィルマはそれが怖かった。夜、羊の囲いのそばに黒い気配が立って、振り向くと、目の高さだけが闇の中に浮いていた。大声を出すのも、石を投げるのも、ためらった。それで、囲いの柵の隙間から、麦の穂を一本差し出したことがあった。朝には、穂だけがなくなっていた。


いまは、それが当たり前だ。


*


ヤラがヴィルマの前に立った。


ヴィルマは頭を下げて、額を出した。ヤラの額が、ヴィルマの額に当たった。硬くて、温かい。匂いがする。土と、枯れ草と、ヤラ自身の匂い。


「ヴィルマ」


「ヤラ」


それで挨拶は終わった。


ヤラは一行を見た。まずダリオへ近づいた。ダリオは剣の柄から手を離し、両手を少し広げて、動かずに立っていた。


ヤラの鼻が、ダリオの顎のあたりに近づいた。髭のあたりで、止まった。


ヤラの眉が、少し寄った。


「焦げてる」


ヤラが言った。


「ああ」


ダリオが髭を撫でた。


「祭りの蝋燭だ。街の行列で、隣の奴が振り回してな」


「匂いが変だ」


「そうか。悪いな」


ヤラは鼻を鳴らして、次へ行った。


リナが少し後ろへ下がった。ヤラの鼻が、リナの袖を嗅いだ。


「火の匂い」


「わ、わたしですか。魔法使いなので」


「火の子」


「リナです」


「リナ」


ヤラは一つ頷いた。


次にブリギッテ。ブリギッテは薬箱を抱え直して、背を伸ばした。


「灯と、薬」


「ブリギッテです。修道女です」


「灯の人」


「はい」


次にケス。ケスは首を傾げて、ヤラを見ていた。


「羽」


ヤラが言った。


「ケスだ」


「ケス」


「よろしく」


ケスが頭を下げた。


次にパウル。


ヤラの鼻が、パウルの白い法衣の裾を嗅いだ。


そこで、止まった。


ヤラは動かない。パウルも動かない。ヴィルマは二人を見た。ヤラの耳が、わずかに伏せられた。


パウルは法衣の裾を直して、静かに立っていた。


ヤラは、何も言わなかった。


パウルも、何も言わなかった。


ヤラは、ヴィルマの隣へ戻ってきた。


*


「議が決めた」


ヤラが言った。


「迎える」


ダリオが腕を組んだ。


「議とは、なんだ。裁判か?」


「決める所だ」


ヤラは短く言った。


ヴィルマはヤラの横顔を見た。ヤラは、訊かれたことには答える。訊かれないことは言わない。それは砦の者みんな同じだ。だから、訊くのはヴィルマの役目だと思ったが、いまは訊きたいことが見つからなかった。


「わたしたちを、迎えるってどういうことですか?」


リナが訊いた。


「手が足りない」


ヤラは言った。


「それと、ヴィルマがいる」


ヴィルマはヤラを見た。ヤラはヴィルマを見ていなかった。北の坂を見ていた。


「わたしが、どうしたんだ?」


「道を知ってる。水も知ってる」


ヤラは言った。


「それに、村の子だ」


ヴィルマは頷いた。


「そうか」


一行は歩き始めた。ヤラたちは先導するわけでもなく、少し離れた斜面を平行に歩いた。岩場を越えるとき、ヤラが無言で手を出した。ヴィルマはその手を取った。硬い掌だ。ダリオも、その手を取った。


ヴィルマはヤラの隣に並んだ。


「煙が見える」


ヴィルマは言った。


北の山の肩に、朝から白い筋が立っていた。


風が吹いても、その筋は崩れなかった。昼の光の中では、煙は白く薄い。けれど、消えることはなかった。


「夜は壁の上で火を焚く」


ヤラは言った。


「坑から上がってくるものを追う」


「坑から、上がってくる」


ヴィルマは訊き返した。


「冬のあいだ、下りてくる」


ヤラは言った。


「羊をやる。犬もやる」


「だから、灯だったのか」


後ろからダリオが言った。


「ああ」


ヤラは答えた。


「あれは、合図じゃないんですか?」


リナが訊いた。


「魔物が嫌う火だ」


ヤラは言った。


「上に来たやつは、火で追う」


「毎晩か?」


「毎晩だ」


「薪は?」


「山の枯れ木だ」


ヤラは足を止めて、北の坂を指さした。


「見えるだろ。あの煤」


ヴィルマは見た。白い筋の下、岩の棚に、黒い染みが幾つも残っていた。雨が流したのか、染みは下へ下へと滲んだ跡になっていた。


「焚いた跡だ」


ヤラは言った。


「雨が降っても、取れない」


*


昼過ぎ、尾根の肩を越えた。


風が変わった。北の風になった。頬が冷たい。


目の前が開けた。


灰色の岩が、尾根の腹を張っている。その岩の肩に、石積みが見えた。


城壁だ。


灰色の石の壁。南向きの正門。門の上に、高い塔が見える。止まり木の穴がびっしり開いた塔だ。壁の上に、小さな人影が二つ、三つ。


鴉が二羽、塔の周りを回っていた。黒い点が、灰色の空を横切る。


ヴィルマは足を止めた。


子どものころ、麦を背負って登った道。門の前に置いて、手を振って帰った日々。あの頃、壁の上に火の跡はなかった。


壁は、変わっていなかった。


ただ、壁の上に、黒い跡が並んでいた。


灰色の石の壁の上に、昼でも消えない篝火の跡が、黒く並んでいた。


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