第10章 訊かれなかった
皐月八日の夜。峠道二日目の夜営は、沢を離れた先の岩場の陰に取った。日中は歩くと汗ばむ登りも、日が落ちると冷える。北からの風が岩の端を撫でていく。火は石で囲んで、小さく焚いた。
炎は拳ほどの高さしかない。火の光が地面を照らすのは、まわりの数歩だけだ。その外は黒く、岩の輪郭だけが星の光で薄く白んでいた。上の斜面に残る雪も、星明かりでうっすらと見えた。空の下、来た道は黒く折り返して、谷の闇へ落ちていった。場所は、暮れ前にヴィルマが選んだ。風が来ず、岩が火の光を隠してくれる。石は、昨日の岩場で片目の男が言ったとおり、高く積んである。
黒パンを炙っている。ベアタが持たせてくれたやつだ。焼いてから二日たって、もう硬い。あぶれば戻る、とベアタは言っていた。ダリオが串に刺した二本を火の近くに翳すと、表面がぢぢと鳴って、焦げた匂いが立ち上った。大男の手が串をゆっくり回す。焦げ面がひと回り濃くなり、匂いも濃くなった。沢の音が遠くなったぶん、炭の弾ける音がよく聞こえた。硬い黒パンは、火を通すと外がしゃりと、中がほんのり柔らかくなる。ヴィルマはその食い方を知っている。村でも、寒い夜の囲いの番に、同じように炙って食べていた。
ケスは少し高い岩の上にいる。翼を畳んで、動かない。目は闇に向いているのか星に向いているのか、火陰からは分からない。黒い羽が岩の黒に溶けて、輪郭だけがときどき、星の光にうっすらと浮かんだ。まれに首が小さく傾ぐ。風の向きを確かめているのか、闇の奥を聞いているのか、ヴィルマには分からない。
パウルは火から少し離れた岩に背を預けて座っている。白い法衣の裾はもう白くない。膝の上に杖を横たえて、目を閉じているのか開けているのか、判別がつかない。火の当たる側の白い布だけが、ほんのり橙色に染まっていた。指にインクと煤の染みが見えた。動いているのは、呼吸で肩がわずかに上がって下がるところだけだった。
パンが炙れる匂い。炭が弾ける音。遠くで水が雪を溶かしながら流れる音。
ハイマツのしげみを風が抜けていく音が、その下で細く続いていた。火の当たる側の頬は温かい。背中は冷たい。山の夜は、体の前と後ろで、季節が違うようだった。火の近くでは顔が乾き、遠ざかると、すぐに冷気が纏わりついた。
「ヴィルマさん」
リナが口を開いた。火を挟んで向かいに座っている。麦藁色の髪が火の光で明るい。杖を膝の横に置いて、両手を火に翳している。指先が、火の光で赤く透けていた。
「砦に誰がいるか、知ってたんですか」
パンを炙る手が止まった。ダリオの手だ。
ヴィルマは火を見た。真っ赤な炭がひとつ、弾けて落ちた。火の粉が石の囲いの内側で散った。
「知ってた」
リナが瞬きをした。ダリオが串を下ろして、こちらを見た。
「なんで言わなかった」ダリオは言った。
「訊かれなかった」
ダリオは眉を寄せた。右の髭の先が白く凍っている。指で弾くとカチカチに硬い。左の先は蝋燭で焦げて縮れている。髭は相変わらず、揃わないままだ。
「誰だ」ダリオは言った。
「北門から出された者たちと、その子らだ」
ダリオは黙った。リナも黙った。ブリギッテが、火に翳していた手を膝の上に置いた。袖はまくり上げたままだ。薬箱が、足元の石の上に置いてあった。
「北門から、出された……」ブリギッテは言葉を探した。「ということは、あの、砦にいるのは……」
「村は昔から、砦に麦を送ってるんだ」ヴィルマは言った。訊かれたから答える。「砦の者は、畑と力仕事と冬の見張りを手伝う。砦の者がいなければ、村は冬を越せない」
「……そう、ですか」
ブリギッテは何か言いかけて、やめた。薬箱の肩紐を、指でなぞっただけだった。
「ゴルムたちも、砦と村には手を出さない」
「ゴルムって、昨日の、片目の」
「ああ。あいつらは生きるために荷を襲うが、砦と村は襲わない」
リナが、あ、と小さく声を上げた。火から手を離して、何かを数えるように指を動かしている。一本折る。もう一本折る。金の勘定だけは、寒い夜でも止まらないようだった。
「じゃあ、この請負の残り四十枚は……その、砦の人が魔物じゃないなら、私たち、何を報告すれば金が……」
「魔物は本当にいる」
「……よかった」
リナは膝の上で両手を握りしめた。本当に安堵した顔だった。火の光で、その頬が赤い。握りしめた手を、また火にかざすと、指先が今度はゆっくり開いた。
ダリオは串を持ち直した。パンは真っ黒に焦げているが、気にする様子はない。そのまま齧りついた。硬い音がした。枯れ枝を折るような音だった。焦げた皮が歯のあいだで崩れ、中の温かい部分が残る。彼は水袋の水でそれを押し込み、口の端を拭った。
「街で言ったら、どうなる」ダリオはパンを飲み込んでから言った。
「わからない。だから、訊かれるまで言わなかった」
ダリオは二度目のパンを齧った。それ以上は訊かなかった。
火が小さく弾けた。炭がひとつ、石の囲いの内側で崩れた。誰も、すぐには口を開かなかった。
パウルは何も訊かなかった。杖を握り直すこともなかった。ただ、火の向こうの闇を見ていた。火の光が届かない所に、彼の顔の輪郭が途切れていた。
ケスも、岩の上で何も言わなかった。羽が風でわずかに揺れていた。黒い羽先が星の光をうっすらと受けて、また闇に沈んだ。
ブリギッテは膝の上の手を見ていた。それから、細い枝を一本、火の縁に押し込んだ。枝の皮がじわりと焦げて、赤い縁をふくらませた。火に当てた手を、交互に入れ替える。指先が乾いてきた。
*
風がない。
焚き火の煙が、まっすぐ上に昇っていく。石の囲いの隙間を抜けた煙は、途中で一度も揺らいでいない。星のあいだへ入って、見えなくなった。
星が多い。山の上の星は、街から見るのとは違う。下の村から見るのとも違う。高い所にいるから、星が多いのかもしれない。ケスが「群れだ」と言うのは、あのあたりの星か。三つずつ数えていけば、たしかに群れになるのだろう。尾根の線が、星と岩の境をぼんやりと分けていた。
空気が冷たくて、澄んでいる。街の夜の空気は、人の数だけ匂いがした。ここには、火の匂いと、岩の匂いと、雪の匂いしかない。火の光の端に、荷が黒い塊になって置いてあった。剣の柄の金具の先だけが、ほの白い。
煙の根元で、炭がひとつ、静かに赤く持ち直した。囲いの石の内側が、赤黒く焼けている。
火の粉がひとつ、煙に混じって昇って、途中で消えた。
*
夜半のほうの刻になった。岩のあいだにたまった空気が、いっそう冷えた。火の当たっていない毛布の端が、白く霜をふいていた。
ダリオは寝支度に入った。リナとブリギッテも毛布に潜った。パウルは岩に背を預けたまま、動かなかった。ケスは岩の上のままだった。まもなく、毛布の中で小さな寝息が一つ、二つと重なり始めた。
ヴィルマは火の番だ。木を一本、火にくべる。灰が少し舞って、すぐに落ちた。新しい木の皮が、ぢぢと小さく鳴り始めた。やることは少ない。木を足すこと、石の囲いを崩さないこと、眠っている者の毛布の端を拾うこと、それくらいだ。荷の陰で、リナの杖の先が、火の光を小さく受けていた。
明日の朝の分の黒パンを、荷の底にしまった。布の包みの結び目を、指で確かめてからだった。
手の甲の傷は、もう痛まない。細い赤い線が一本あるだけだ。ヴィルマは膝を抱えて、火を見ていた。石の囲いの中で、赤い芯が静かに脈打っている。北の風が岩の端を越えて、火の先をわずかに傾けた。また、まっすぐに戻った。
明日の朝、誰が迎えに来るか。
ヴィルマは知っている。
それも、訊かれていない。




