第9話 名前を奪う結社
名前を奪う方法は、いくつもある。
忘れさせる。
記録から消す。
別の名前で呼び続ける。
仮面を貼る。
番号を与える。
その人が、自分の意思で選んでいるのだと思わせる。
帝都エデンには、そういう技術があった。
それは呪いであり、魔導科学であり、管理術であり、商売でもあった。
カミハラ区の封鎖研究棟。
白い解析室の中央に、いくつもの投影画面が浮かんでいた。
ツインタワー東タワー地下から回収した取引記録。
ローゼン・ドールの命令核。
アラクネの糸に残っていた記録縫合術式。
クラーケンの黒薔薇紋。
死都回収業者の検体リスト。
イツキのアピス・ユニットに混入していたM∴R∴の通信残滓。
それらは別々の事件に見えて、一本の蔓でつながっていた。
その蔓の名前を、シンが告げた。
『ローゼン・プロトコル』
通信画面の向こうで、シンはいつもより低い声をしていた。
彼の背後には、ツインタワー東タワー地下の逃走客たちから拾った資金経路、死都回収業者の旧台帳、M∴R∴関連会社の登記情報が幾重にも重なっている。情報屋の部屋は相変わらず薄暗いが、画面の光だけはやけに明るかった。
サキは、解析室の端に立っていた。
隣にはイツキ。
左腕にはまだ金色のアピス回路が残っている。今日は薄い長袖で隠しているが、袖口から時々淡い光が漏れる。
カリンは壁にもたれ、黒い外套の袖を指先でいじっていた。
アリスは端末前に立ち、シンから送られてくるデータを次々に照合している。
「ローゼン・プロトコル……」
サキが呟く。
その言葉だけで、胸の奥のロゼが不快そうに動いた。
『名前からして気に食わない』
ロゼの声。
サキは胸元に手を当てた。
シンが続ける。
『M∴R∴の目的は、単純なEXキメラ兵器の量産ではない。むしろ、それだけなら既存の地下研究組織でもやっている。彼らが目指していたのは、名前と記憶を持ったまま命令に逆らえない兵士を作ることだ』
「名前と記憶を、持ったまま?」
イツキの声が硬くなる。
『そうだ。完全な人形ではない。ローゼン・ドールのような空白の戦闘体は、失敗ではなく比較対象だ。命令だけで動く兵器は確かに扱いやすい。しかし、創造性、執着、恐怖、怒り、守りたい相手への反応は弱い』
サキの指が震えた。
それは、アリスが以前言ったことと同じだった。
M∴R∴は、サキの感情を消さなかった。
むしろ燃料にした。
『ローゼン・プロトコルの完成形は、自分の意思で戦っていると思い込む兵士だ。家族を守るため、恋人を救うため、帰る場所へ戻るため、復讐するため。そうした個人の物語を残したまま、実際には設計者の命令系統へ組み込む』
カリンの目が細くなる。
「最悪だねぇ」
『最悪だ。だが、兵器としては合理的だ。完全な洗脳体は脆い。矛盾が出ると壊れる。命令だけの人形は応用力が低い。だが、自分の物語を持ったまま、その物語の向かう先だけを設計者が誘導すれば――』
「本人は選んでいるつもりで、他人の筋書きを演じる」
イツキが言った。
声に怒りがあった。
シンは頷いた。
『それがマダム・ヴィーの理想だ』
画面の一つに、真紅のベールとマスカレードマスクの紋章が浮かぶ。
夢の館。
サキはその名を聞くだけで、喉の奥が冷たくなる。
マダム・ヴィー。
サキを作品と呼ぶ女。
イツキの愛情を命令系統に組み込もうとした女。
人の名前を剥がし、仮面を貼り、記憶を曇らせることを美しいと呼ぶ女。
シンは別の資料を表示した。
『ローゼン・プロトコルの根幹には、夢の館で使われていた仮面術式と記号名管理がある。館の参加者は素性を隠し、仮面をつけ、本名ではなくアルファベットや仮名で呼ばれる。記憶を曇らせる薬、夢へ落とす術式、顔に貼り付く仮面、閉ざされた部屋。そうした“館の作法”を、M∴R∴は兵器制御へ転用した』
アリスが淡々と補足する。
「確認しました。サキ様の仮面深層部に残る術式構造と、アピス・ユニットの初期接続術式、アラクネの記録縫合糸には、同系統の名前認識干渉が使用されています」
「名前を剥がして、コードで呼ぶ」
イツキは自分の腕を押さえた。
「サキをローゼンマスクって呼んだみたいに。あたしをアピスって呼んだみたいに」
「うん」
サキは小さく頷いた。
喉が痛い。
「ローゼン・ドールも、名前がなかった」
「名前を持たせなかったんだと思う」
イツキが言う。
「サキと比べるために。名前がある兵器と、名前がない兵器。どっちが強いか、どっちが美しいか、あの人たちは見てた」
カリンが大鎌を出しかけて、やめた。
今ここで何かを斬っても意味がないとわかっているのだろう。
「やっぱり、掃除しがいがあるねぇ」
甘い声だった。
だが、そこに笑みはなかった。
サキは画面を見ていた。
ローゼン・プロトコル。
夢の館。
名前を奪う結社。
自分の名前が奪われかけたこと。
イツキがアピスにされかけたこと。
アラクネが最後まで本当の名前を思い出せなかったこと。
ローゼン・ドールが何も持たされないまま戦わされたこと。
それらが、ひとつの思想としてつながっている。
そのことが、ひどく気持ち悪かった。
サキは拳を握る。
「ユウリは」
その一言で、部屋の空気が変わった。
シンは少し沈黙した。
画面の向こうで、彼の指が端末の上を滑る。
『その件で、新しい情報がある』
サキの心臓が強く鳴った。
イツキがそっと隣へ寄る。
触れていいかとは聞かなかった。けれど、サキの手のすぐ近くに、自分の手を置いた。
サキはその気配だけで少し呼吸ができた。
『蒼原ユウリは死亡していない』
世界が止まった。
サキは声を出せなかった。
死亡していない。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
死んでいない。
ユウリは、死んでいない。
「本当……?」
ようやく出た声は、震えていた。
『現時点で断言できる。死亡記録はない。搬送中死亡、検体破損、廃棄処理の記録もない。むしろ、M∴R∴内部で意図的に別計画へ移送された痕跡がある』
サキの膝が揺れた。
イツキが手を伸ばす。
「サキ、触っていい?」
サキは頷いた。
イツキが手を握る。
それだけで、サキは崩れずに立てた。
「どこにいるの?」
サキは訊いた。
シンはさらに画面を切り替える。
黒く塗り潰された名前欄。
第七凍結層。
第二検体。
姉個体。
弟個体。
そして、別のファイル。
Rosen Prince Project
ローゼン・プリンス。
サキの視界が揺れた。
「プリンス……?」
『ユウリという名前では記録されていない。彼は、M∴R∴の別計画へ回されていた。計画名、ローゼン・プリンス』
「弟も……」
サキの声が掠れる。
「弟も、改造されたの?」
『詳細はまだ不明だ。だが、ローゼン・プリンスはローゼンマスク計画と対になる計画と考えられる。サキが戦闘型、あるいは攻性制御型であるのに対し、ユウリは制御特化型の可能性が高い』
「制御特化……?」
アリスが資料を読み取る。
「不完全な断片ですが、白百合型魔導紋、命令核干渉、戦闘人格沈静、核同期という記述が確認できます」
サキの胸の奥で、ロゼが鋭く反応した。
『戦闘人格沈静?』
「ロゼ?」
『気に食わない言葉だ』
サキも同じだった。
ユウリが、誰かの命令核へ干渉するために使われている。
サキのロゼを沈めるために。
サキを完成させるために。
姉弟を、実験の部品として並べるために。
胃が冷える。
でも、同時に胸が燃える。
「ユウリは、どこ」
サキの声は低くなっていた。
シンはすぐ答えようとした。
その時、通信画面が乱れた。
ノイズ。
赤い線。
黒薔薇紋。
カリンが大鎌に手をかける。
「逆探知?」
『いや、外部割り込みだ』
シンの声が険しくなる。
画面の一つが、勝手に開いた。
映ったのは、白衣の女性だった。
年齢は三十代後半から四十代前半に見える。細い眼鏡。整えられた髪。顔色は悪く、目の下には濃い影がある。背後は暗い研究室らしき場所で、非常灯の赤がちらついていた。
サキは知らない顔だった。
だが、その女性はサキを知っているようだった。
『蒼原サキ』
女が言った。
サキの手に力が入る。
イツキが小さく息を呑む。
「誰」
『レンジョウ。M∴R∴基礎核設計班に所属していた。今は、内部告発者とでも呼べばいい』
カリンが目を細める。
「レンジョウ博士。名前は知ってるよぉ。死都由来因子の安定化研究で何度か出てきた。ずいぶん都合のいいタイミングで出てくるねぇ」
『都合がいいのではない。限界が近いだけです』
レンジョウ博士の声には、疲労があった。
そして恐怖も。
『マダム・ヴィーは、最終実験へ移行しようとしている。ローゼン・マスク、ローゼン・プリンス、アピス、複製戦闘体、命令核、仮面術式。すべてを一つの舞台に乗せるつもりです』
「ユウリはどこ」
サキはそれだけを訊いた。
レンジョウ博士は少し目を伏せた。
『カミハラ区地下。旧帝都大学封鎖研究棟』
アリスの瞳が光る。
「該当施設は、現在使用停止登録されています。トキオ聖戦後、死都由来標本の封印事故により閉鎖。現在は女帝政府管理区域のはずです」
『表向きは。実際には、M∴R∴が複数の下請けを経由して地下区画を使用している。死都由来標本、凍結検体、未完成EXキメラ、ローゼン因子の培養槽。そこが中枢です』
サキは一歩前へ出た。
「ユウリは、そこにいるの?」
『いる』
短い答え。
サキの視界が滲む。
「生きてる?」
『生命活動は維持されている』
「名前は?」
レンジョウ博士は答えなかった。
サキの胸が嫌な音を立てる。
「ユウリって名前は、残ってるの?」
『……記録上は、残っていない』
サキの中で、何かが切れそうになった。
ロゼの怒りが一気に上がる。
『行くぞ』
「うん」
サキの髪の先が微かに紅く染まる。
イツキが手を握ったまま、強く言った。
「まだ」
サキは振り向く。
「イツキ」
「まだ走らない」
「ユウリがいる」
「うん」
「名前を消されてる」
「うん」
「今も、あそこで」
「わかってる」
「じゃあ!」
「怒っていい。でも、怒りだけで行ったら、向こうの思い通りだよ」
イツキの声が、サキの胸に刺さった。
怒りを否定していない。
ロゼを否定していない。
でも、怒りだけで走ることは止めている。
サキは息を荒くしたまま、イツキを見た。
イツキは怖がっていた。
サキの怒りを怖がっているのではない。サキがまた一人で前へ出ることを怖がっている。
「サキ」
イツキは言った。
「ユウリくんを取り戻したいなら、サキがサキのまま行かなきゃだめ。ローゼンマスクとして完成するとか、マダム・ヴィーの舞台に乗るとか、そんなの向こうが用意した言葉でしょ」
レンジョウ博士が画面の向こうで口を開いた。
『しかし、ユウリを取り戻すには、ローゼンマスクとしての完成が必要です』
イツキの目が鋭くなる。
「その言い方、やめてください」
博士は一瞬黙った。
「サキは完成品じゃありません」
イツキは続けた。
「ユウリくんも、プリンスなんかじゃない。二人とも、あんたたちの計画名じゃない」
レンジョウ博士の顔に、かすかな痛みが走った。
『……その通りです』
彼女は静かに言った。
『けれど、マダム・ヴィーはそう見ていない。彼女は姉弟を使って最終実験を行うつもりです。姉の怒り、弟の制御、アピスの愛着誘導、仮面の名前上書き。サキ、あなたがユウリを取り戻そうとすればするほど、彼女はそれを物語として利用する』
サキの手が震える。
「じゃあ、どうすればいいの」
『わかりません』
レンジョウ博士は答えた。
その正直さが、逆にサキの怒りを鈍らせた。
『私は、作る側にいた。止める方法を完全には知らない。知っていれば、もっと早く止めていたと言う資格もない。ただ、場所と構造情報は渡せる。内部の一部セキュリティコードも。けれど、最終区画はマダム・ヴィーの仮面術式で封じられている。正面から行けば、あなたたちは彼女の舞台に上がることになる』
「博士は、どうして今さら」
カリンが訊いた。
「裏切るの?」
レンジョウ博士は少しだけ笑った。
笑みというより、壊れかけた表情だった。
『アラクネの消滅ログを見ました』
サキの息が止まる。
『彼女は、私が安定化に関わった被験者です。名前は、もう残っていない。私も覚えていない。覚えていないことに、今さら耐えられなくなった』
沈黙。
サキはアラクネの最後を思い出す。
私の名前、何だった?
誰も答えられなかった。
『ローゼン・ドールも、ノーガも、クラーケンも、皆、名前を削られていった。私はそれを技術的課題として処理していた。命令核の安定化、記憶抵抗の低減、名前認識の上書き。それが何を意味するのか、見ないふりをしていた』
博士の声が震える。
『だから、これは償いではありません。償えるとは思っていない。ただ、これ以上増やしたくない』
カリンは黙っていた。
いつもの軽い皮肉を言わなかった。
アリスが淡々と確認する。
「提供可能な情報を送信してください。真偽はこちらで照合します」
『すでに送信しています』
画面の隅に、膨大なデータが流れ込む。
旧帝都大学封鎖研究棟。
地下搬入口。
凍結検体保管区。
未完成EXキメラ培養槽。
仮面術式制御室。
ローゼン・プリンス保管区。
最終実験舞台。
サキは、その中の一つの言葉から目を離せなかった。
ローゼン・プリンス保管区。
そこに、ユウリがいる。
レンジョウ博士は最後にサキを見た。
『蒼原サキ。ユウリを取り戻したいなら、あなたはマダム・ヴィーの望むローゼンマスクとして完成する必要がある。少なくとも、彼女はそう信じている』
「わたしは……」
『それを逆手に取るしかありません』
博士は言った。
『彼女は、あなたの怒りを待っている。弟を奪われた姉の怒り。愛する少女を巻き込まれた怒り。名前を奪われた者たちの怒り。その怒りで仮面を起動し、グローリアを完成させ、弟の制御核と同期させる。それが最終実験です』
サキの胸の奥で、ロゼが唸る。
『上等だ。待ってるなら行ってやる』
「ロゼ」
『何だよ。あいつはユウリを餌にしてる。イツキを首輪にしようとした。アラクネの名前を消した。ドールに顔だけ与えて空っぽにした。怒るなってほうが無理だろ』
「怒っていい」
イツキが言った。
サキとロゼの両方へ向けるように。
「怒っていいよ。サキも、ロゼも。でも、怒りだけで走ったら、マダム・ヴィーの作った物語になる」
サキはイツキを見る。
イツキは左腕の袖をまくった。
金色のアピス回路が淡く光る。
「だから、こっちも物語じゃなくて、作戦で行こう」
「作戦?」
「うん」
イツキは端末を取り出した。
蜂型ドローンが三機、彼女の肩の周囲へ浮かぶ。まだ完全に慣れてはいない。けれど、以前より安定している。
「M∴R∴の通信網に入る」
カリンが眉を上げる。
「それ、かなり危ないよぉ」
「知ってます」
イツキは頷く。
「でも、アピス・ユニットは元々、ローゼン系列を支援、監視、誘導するための端末として作られたんですよね。だったら、向こうの通信規格に近い。完全に乗っ取るのは無理でも、中枢の警備配置、命令核の接続経路、ユウリくんの保管区画くらいは探れるかもしれない」
アリスが端末を確認する。
「理論上は可能です。ただし、逆侵入によりイツキ様の名前認識が再汚染される危険があります」
「そこは、サキが呼んで」
イツキはサキを見た。
あまりにも自然に言った。
「サキが危なくなったら、あたしが名前を呼ぶ。あたしが危なくなったら、サキが呼んで。そうやって行こう」
サキは言葉を失う。
イツキは笑う。
怖いはずなのに。
アピスにされかけたばかりなのに。
まだ腕に回路が残っているのに。
それでも彼女は、自分の選択として戦場に立とうとしている。
「イツキ」
「なに?」
「怖くないの?」
「怖い」
イツキは即答した。
「でも、怖いから準備する。怖いから一人で突っ込ませない。怖いから、サキの名前を呼べる場所にいる」
サキの胸が熱くなる。
ロゼが小さく呟いた。
『いい女だな』
サキは少し目を見開いた。
「ロゼが……」
「ロゼが?」
「……今のは言わない」
『言うな!』
イツキは不思議そうに首を傾げた。
「え、気になる」
「あとで」
「約束?」
「うん」
こんな時なのに、ほんの少しだけ二人の空気が緩む。
カリンが肩をすくめた。
「はいはい、仲良し確認終了。作戦会議に戻るよぉ」
シンが画面越しに咳払いをした。
『僕も同意だ。怒りに任せた突入は論外。レンジョウ博士の情報を照合し、アピス経由で通信網へ侵入、アリスが仮面術式を解析、カリンが裏口と退路を確保、サキは最終区画でユウリを呼ぶ』
「ユウリを、呼ぶ……」
サキはその言葉を繰り返した。
ユウリ。
弟の名前。
消された名前。
でも、サキの中にはまだ残っている。
イツキも覚えてくれている。
シンの記録にも、今は残っている。
奪われたなら、呼び直す。
サキは拳を握った。
「行く」
声は、さっきより静かだった。
「でも、マダム・ヴィーのローゼンマスクとしてじゃない。蒼原サキとして、ユウリを迎えに行く」
イツキが頷く。
「うん」
カリンが笑う。
「いいねぇ。怒ってるけど、ちゃんとサキちゃんの顔だ」
アリスが淡々と言う。
「作戦準備を開始します。必要装備、通信遮断具、仮面制御対策、アピス保護プロトコル、ローズウィップ命令核摘出補助の準備に入ります」
レンジョウ博士の通信は、まだ切れていなかった。
彼女はサキを見つめていた。
『サキ』
「何」
『ユウリは、あなたを覚えていない可能性が高い』
サキの胸が痛んだ。
それでも、目を逸らさなかった。
『彼はローゼン・プリンスとして処理されている。あなたへの記憶も、姉弟としての接続も、封印または改竄されている。あなたが呼んでも、応えないかもしれない』
「それでも呼ぶ」
『攻撃してくるかもしれない』
「傷つけずに止める」
『あなたのロゼを沈黙させるかもしれない』
ロゼが低く笑った。
『やれるもんならやってみろ』
サキは胸に手を当てた。
「ロゼも、そう言ってる」
イツキが小さく笑う。
「たぶん、すごく怒ってるんだね」
「うん」
「サキも?」
「怒ってる」
サキははっきり言った。
「ユウリを奪ったことも、名前を消したことも、イツキを巻き込んだことも、アラクネの名前をなくしたことも、ローゼン・ドールを空っぽで作ったことも。全部、怒ってる」
その声に、震えはなかった。
「でも、その怒りは、マダム・ヴィーのものにしない」
イツキの手が、サキの手を握った。
左腕のアピス回路が微かに光る。
「じゃあ、一緒に持つ」
「怒りを?」
「うん。重そうだから、半分くらい」
「イツキまで怒るの?」
「怒ってるよ」
イツキは真面目に言った。
「サキを作品って呼んだこと。ユウリくんをプリンスなんて計画名で呼んだこと。あたしをアピスにしようとしたこと。サキが自分を責めるような傷をつけたこと。全部、怒ってる」
サキはイツキを見る。
イツキの怒りは、サキのものとは少し違う。
激しく燃える火ではなく、冷静に残る熱だった。
消えにくく、進む方向を照らす光。
「ありがとう」
サキが言うと、イツキは少しだけ照れた。
「そこは、どういたしましてでいいのかな」
「たぶん」
「じゃあ、どういたしまして」
そのやり取りを見て、カリンが少し笑う。
「本当に、マダムが一番嫌いそうな関係だねぇ」
「どういう意味ですか?」
イツキが聞く。
「だって、誰かが用意した役割じゃないでしょ。守る側と守られる側でも、兵器と支援端末でも、薔薇と蜂でもない。二人で勝手に意味を変えてる。あの女、そういうのが一番気に入らないと思うよぉ」
サキはイツキの手を見る。
薔薇と蜂。
勝手につけられた意味。
変えていく意味。
マダム・ヴィーの物語ではない。
二人の、まだ名前のない関係。
その夜、作戦準備が始まった。
アリスはサキの仮面を解析台へ置き、深層術式の遮断層を組み直した。完全な解除はまだできない。だが、マダム・ヴィーからの外部命令を一度だけ拒絶するための防壁を追加する。
シンは、旧帝都大学封鎖研究棟の図面を複数重ね合わせ、地下区画の矛盾を洗い出した。地図に存在しない通路。消された階段。女帝政府の古い封印印章の裏に隠された搬入口。
カリンは裏社会の連絡網を使い、M∴R∴へ物資を運んでいた死都回収業者の動きを止めた。数件の倉庫で火災警報が鳴り、いくつかの配送車がなぜか検問に捕まった。
イツキはアピス・ユニットを開いた。
蜂型ドローンの内部コードに、自分で新しい識別名を書き込む。
アピス。
それはM∴R∴がつけた名前だった。
でも、イツキはそこに別の意味を重ねる。
索敵。
支援。
名前記録。
帰還誘導。
誰かを刺すためだけの蜂ではなく、迷った人を巣へ連れ戻すための蜂。
サキはその横に座り、仮面を見ていた。
真紅のマスカレードマスク。
ずっと嫌いだった。
今も好きではない。
でも、いつか自分の意思で被る日が来るのかもしれない。
ローゼンマスクとしてではなく。
蒼原サキとして。
その時、自分はこの仮面の意味も変えられるだろうか。
『できるだろ』
ロゼが言った。
サキは少し驚く。
「ロゼがそういうこと言うんだ」
『あんたは変えるのが得意そうだからな。嫌なくらい』
「嫌なんだ」
『面倒だ。でも、嫌いじゃない』
サキは小さく笑った。
隣でイツキが顔を上げる。
「ロゼ?」
「うん」
「何て?」
「面倒だけど嫌いじゃないって」
イツキは少し考えてから、ふふ、と笑った。
「褒めてるね」
『褒めてない!』
「褒めてないって」
「わかりやすい」
サキは胸の奥でロゼが怒っているのを感じながら、久しぶりに少しだけ笑えた。
その頃。
カミハラ区地下。
旧帝都大学封鎖研究棟の最深部で、マダム・ヴィーは赤いベール越しにガラス棺を見下ろしていた。
そこは、花園のような研究室だった。
床には黒い魔導ケーブルが根のように這い、天井からは培養液の滴る透明な管が垂れている。壁際には凍結検体の保管槽が並び、奥には未完成のEXキメラが眠っている。照明は白ではなく、淡い月光のような青。そこへ真紅の薔薇紋と、白い百合の紋が交互に浮かび上がっている。
中央に、ガラス棺があった。
中には少年が眠っている。
まだ幼さの残る顔。
サキの記憶より少しだけ成長しているようにも、あの日のまま止まっているようにも見える。閉じた瞼。薄い唇。細い首。透明な液体に浮かぶ髪。
その髪には、薔薇ではない紋が浮かんでいた。
白百合。
棘のない、白い花の魔導紋。
少年の名前は、ここには記録されていない。
ガラス棺の表示には、こうある。
Rosen Prince
Code:Lilium
Control Core Stabilized
Sister-Link Awaiting
マダム・ヴィーは、うっとりと微笑んだ。
「もうすぐよ、白百合の王子様」
彼女の義足が床を鳴らす。
松葉杖の先端に仕込まれた魔導銃が、赤い光を反射した。
「お姉様が迎えに来るわ。怒りに燃えて、愛に震えて、名前を叫びながら。ああ、なんて美しいのでしょう」
彼女はガラス棺に指を触れた。
少年は眠ったまま動かない。
「姉が薔薇なら、弟は棘のない花でなくては」
マダム・ヴィーは囁く。
「刺すのは姉。鎮めるのは弟。怒るのは姉。従わせるのは弟。二つの花が結ばれた時、ローゼン・プロトコルは完成する」
ガラス棺の中で、少年の白百合紋が一度だけ光った。
その光は、返事のようにも見えた。
悲鳴のようにも見えた。
マダム・ヴィーは微笑み続ける。
「さあ、物語の幕を上げましょう。蒼薔薇の少女。あなたが守り続けたその名前が、最後にどんな形で壊れるのか――わたくしに見せてちょうだい」
研究棟の奥で、薔薇と百合の術式が静かに同期を始めた。
遠く離れた解析室で、サキはふと顔を上げる。
理由はわからない。
けれど、確かに聞こえた気がした。
氷の向こうから、自分を呼ぶ、かすかな声。
お姉ちゃん。
サキは立ち上がった。
「ユウリ」
その名前を呼んだ瞬間、胸の奥の怒りが静かに燃えた。
ロゼが笑う。
『行こうぜ、サキ』
イツキが手を差し出す。
「行こう、サキ」
サキはその手を握った。
「うん」
名前を奪う結社の中枢へ。
蒼薔薇の少女は、蜜蜂の少女と共に歩き出す。




