表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/12

第9話 名前を奪う結社

 名前を奪う方法は、いくつもある。


 忘れさせる。

 記録から消す。

 別の名前で呼び続ける。

 仮面を貼る。

 番号を与える。

 その人が、自分の意思で選んでいるのだと思わせる。


 帝都エデンには、そういう技術があった。


 それは呪いであり、魔導科学であり、管理術であり、商売でもあった。


 カミハラ区の封鎖研究棟。

 白い解析室の中央に、いくつもの投影画面が浮かんでいた。


 ツインタワー東タワー地下から回収した取引記録。

 ローゼン・ドールの命令核。

 アラクネの糸に残っていた記録縫合術式。

 クラーケンの黒薔薇紋。

 死都回収業者の検体リスト。

 イツキのアピス・ユニットに混入していたM∴R∴の通信残滓。


 それらは別々の事件に見えて、一本の蔓でつながっていた。


 その蔓の名前を、シンが告げた。


『ローゼン・プロトコル』


 通信画面の向こうで、シンはいつもより低い声をしていた。


 彼の背後には、ツインタワー東タワー地下の逃走客たちから拾った資金経路、死都回収業者の旧台帳、M∴R∴関連会社の登記情報が幾重にも重なっている。情報屋の部屋は相変わらず薄暗いが、画面の光だけはやけに明るかった。


 サキは、解析室の端に立っていた。


 隣にはイツキ。

 左腕にはまだ金色のアピス回路が残っている。今日は薄い長袖で隠しているが、袖口から時々淡い光が漏れる。


 カリンは壁にもたれ、黒い外套の袖を指先でいじっていた。

 アリスは端末前に立ち、シンから送られてくるデータを次々に照合している。


「ローゼン・プロトコル……」


 サキが呟く。


 その言葉だけで、胸の奥のロゼが不快そうに動いた。


『名前からして気に食わない』


 ロゼの声。


 サキは胸元に手を当てた。


 シンが続ける。


『M∴R∴の目的は、単純なEXキメラ兵器の量産ではない。むしろ、それだけなら既存の地下研究組織でもやっている。彼らが目指していたのは、名前と記憶を持ったまま命令に逆らえない兵士を作ることだ』


「名前と記憶を、持ったまま?」


 イツキの声が硬くなる。


『そうだ。完全な人形ではない。ローゼン・ドールのような空白の戦闘体は、失敗ではなく比較対象だ。命令だけで動く兵器は確かに扱いやすい。しかし、創造性、執着、恐怖、怒り、守りたい相手への反応は弱い』


 サキの指が震えた。


 それは、アリスが以前言ったことと同じだった。


 M∴R∴は、サキの感情を消さなかった。

 むしろ燃料にした。


『ローゼン・プロトコルの完成形は、自分の意思で戦っていると思い込む兵士だ。家族を守るため、恋人を救うため、帰る場所へ戻るため、復讐するため。そうした個人の物語を残したまま、実際には設計者の命令系統へ組み込む』


 カリンの目が細くなる。


「最悪だねぇ」


『最悪だ。だが、兵器としては合理的だ。完全な洗脳体は脆い。矛盾が出ると壊れる。命令だけの人形は応用力が低い。だが、自分の物語を持ったまま、その物語の向かう先だけを設計者が誘導すれば――』


「本人は選んでいるつもりで、他人の筋書きを演じる」


 イツキが言った。


 声に怒りがあった。


 シンは頷いた。


『それがマダム・ヴィーの理想だ』


 画面の一つに、真紅のベールとマスカレードマスクの紋章が浮かぶ。


 夢の館。


 サキはその名を聞くだけで、喉の奥が冷たくなる。


 マダム・ヴィー。

 サキを作品と呼ぶ女。

 イツキの愛情を命令系統に組み込もうとした女。

 人の名前を剥がし、仮面を貼り、記憶を曇らせることを美しいと呼ぶ女。


 シンは別の資料を表示した。


『ローゼン・プロトコルの根幹には、夢の館で使われていた仮面術式と記号名管理がある。館の参加者は素性を隠し、仮面をつけ、本名ではなくアルファベットや仮名で呼ばれる。記憶を曇らせる薬、夢へ落とす術式、顔に貼り付く仮面、閉ざされた部屋。そうした“館の作法”を、M∴R∴は兵器制御へ転用した』


 アリスが淡々と補足する。


「確認しました。サキ様の仮面深層部に残る術式構造と、アピス・ユニットの初期接続術式、アラクネの記録縫合糸には、同系統の名前認識干渉が使用されています」


「名前を剥がして、コードで呼ぶ」


 イツキは自分の腕を押さえた。


「サキをローゼンマスクって呼んだみたいに。あたしをアピスって呼んだみたいに」


「うん」


 サキは小さく頷いた。


 喉が痛い。


「ローゼン・ドールも、名前がなかった」


「名前を持たせなかったんだと思う」


 イツキが言う。


「サキと比べるために。名前がある兵器と、名前がない兵器。どっちが強いか、どっちが美しいか、あの人たちは見てた」


 カリンが大鎌を出しかけて、やめた。


 今ここで何かを斬っても意味がないとわかっているのだろう。


「やっぱり、掃除しがいがあるねぇ」


 甘い声だった。

 だが、そこに笑みはなかった。


 サキは画面を見ていた。


 ローゼン・プロトコル。

 夢の館。

 名前を奪う結社。


 自分の名前が奪われかけたこと。

 イツキがアピスにされかけたこと。

 アラクネが最後まで本当の名前を思い出せなかったこと。

 ローゼン・ドールが何も持たされないまま戦わされたこと。


 それらが、ひとつの思想としてつながっている。


 そのことが、ひどく気持ち悪かった。


 サキは拳を握る。


「ユウリは」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 シンは少し沈黙した。


 画面の向こうで、彼の指が端末の上を滑る。


『その件で、新しい情報がある』


 サキの心臓が強く鳴った。


 イツキがそっと隣へ寄る。

 触れていいかとは聞かなかった。けれど、サキの手のすぐ近くに、自分の手を置いた。


 サキはその気配だけで少し呼吸ができた。


『蒼原ユウリは死亡していない』


 世界が止まった。


 サキは声を出せなかった。


 死亡していない。


 その言葉が、頭の中で何度も反響する。


 死んでいない。

 ユウリは、死んでいない。


「本当……?」


 ようやく出た声は、震えていた。


『現時点で断言できる。死亡記録はない。搬送中死亡、検体破損、廃棄処理の記録もない。むしろ、M∴R∴内部で意図的に別計画へ移送された痕跡がある』


 サキの膝が揺れた。


 イツキが手を伸ばす。


「サキ、触っていい?」


 サキは頷いた。


 イツキが手を握る。


 それだけで、サキは崩れずに立てた。


「どこにいるの?」


 サキは訊いた。


 シンはさらに画面を切り替える。


 黒く塗り潰された名前欄。

 第七凍結層。

 第二検体。

 姉個体。

 弟個体。

 そして、別のファイル。


 Rosen Prince Project


 ローゼン・プリンス。


 サキの視界が揺れた。


「プリンス……?」


『ユウリという名前では記録されていない。彼は、M∴R∴の別計画へ回されていた。計画名、ローゼン・プリンス』


「弟も……」


 サキの声が掠れる。


「弟も、改造されたの?」


『詳細はまだ不明だ。だが、ローゼン・プリンスはローゼンマスク計画と対になる計画と考えられる。サキが戦闘型、あるいは攻性制御型であるのに対し、ユウリは制御特化型の可能性が高い』


「制御特化……?」


 アリスが資料を読み取る。


「不完全な断片ですが、白百合型魔導紋、命令核干渉、戦闘人格沈静、核同期という記述が確認できます」


 サキの胸の奥で、ロゼが鋭く反応した。


『戦闘人格沈静?』


「ロゼ?」


『気に食わない言葉だ』


 サキも同じだった。


 ユウリが、誰かの命令核へ干渉するために使われている。

 サキのロゼを沈めるために。

 サキを完成させるために。

 姉弟を、実験の部品として並べるために。


 胃が冷える。


 でも、同時に胸が燃える。


「ユウリは、どこ」


 サキの声は低くなっていた。


 シンはすぐ答えようとした。

 その時、通信画面が乱れた。


 ノイズ。

 赤い線。

 黒薔薇紋。


 カリンが大鎌に手をかける。


「逆探知?」


『いや、外部割り込みだ』


 シンの声が険しくなる。


 画面の一つが、勝手に開いた。


 映ったのは、白衣の女性だった。


 年齢は三十代後半から四十代前半に見える。細い眼鏡。整えられた髪。顔色は悪く、目の下には濃い影がある。背後は暗い研究室らしき場所で、非常灯の赤がちらついていた。


 サキは知らない顔だった。


 だが、その女性はサキを知っているようだった。


『蒼原サキ』


 女が言った。


 サキの手に力が入る。


 イツキが小さく息を呑む。


「誰」


『レンジョウ。M∴R∴基礎核設計班に所属していた。今は、内部告発者とでも呼べばいい』


 カリンが目を細める。


「レンジョウ博士。名前は知ってるよぉ。死都由来因子の安定化研究で何度か出てきた。ずいぶん都合のいいタイミングで出てくるねぇ」


『都合がいいのではない。限界が近いだけです』


 レンジョウ博士の声には、疲労があった。


 そして恐怖も。


『マダム・ヴィーは、最終実験へ移行しようとしている。ローゼン・マスク、ローゼン・プリンス、アピス、複製戦闘体、命令核、仮面術式。すべてを一つの舞台に乗せるつもりです』


「ユウリはどこ」


 サキはそれだけを訊いた。


 レンジョウ博士は少し目を伏せた。


『カミハラ区地下。旧帝都大学封鎖研究棟』


 アリスの瞳が光る。


「該当施設は、現在使用停止登録されています。トキオ聖戦後、死都由来標本の封印事故により閉鎖。現在は女帝政府管理区域のはずです」


『表向きは。実際には、M∴R∴が複数の下請けを経由して地下区画を使用している。死都由来標本、凍結検体、未完成EXキメラ、ローゼン因子の培養槽。そこが中枢です』


 サキは一歩前へ出た。


「ユウリは、そこにいるの?」


『いる』


 短い答え。


 サキの視界が滲む。


「生きてる?」


『生命活動は維持されている』


「名前は?」


 レンジョウ博士は答えなかった。


 サキの胸が嫌な音を立てる。


「ユウリって名前は、残ってるの?」


『……記録上は、残っていない』


 サキの中で、何かが切れそうになった。


 ロゼの怒りが一気に上がる。


『行くぞ』


「うん」


 サキの髪の先が微かに紅く染まる。


 イツキが手を握ったまま、強く言った。


「まだ」


 サキは振り向く。


「イツキ」


「まだ走らない」


「ユウリがいる」


「うん」


「名前を消されてる」


「うん」


「今も、あそこで」


「わかってる」


「じゃあ!」


「怒っていい。でも、怒りだけで行ったら、向こうの思い通りだよ」


 イツキの声が、サキの胸に刺さった。


 怒りを否定していない。

 ロゼを否定していない。

 でも、怒りだけで走ることは止めている。


 サキは息を荒くしたまま、イツキを見た。


 イツキは怖がっていた。

 サキの怒りを怖がっているのではない。サキがまた一人で前へ出ることを怖がっている。


「サキ」


 イツキは言った。


「ユウリくんを取り戻したいなら、サキがサキのまま行かなきゃだめ。ローゼンマスクとして完成するとか、マダム・ヴィーの舞台に乗るとか、そんなの向こうが用意した言葉でしょ」


 レンジョウ博士が画面の向こうで口を開いた。


『しかし、ユウリを取り戻すには、ローゼンマスクとしての完成が必要です』


 イツキの目が鋭くなる。


「その言い方、やめてください」


 博士は一瞬黙った。


「サキは完成品じゃありません」


 イツキは続けた。


「ユウリくんも、プリンスなんかじゃない。二人とも、あんたたちの計画名じゃない」


 レンジョウ博士の顔に、かすかな痛みが走った。


『……その通りです』


 彼女は静かに言った。


『けれど、マダム・ヴィーはそう見ていない。彼女は姉弟を使って最終実験を行うつもりです。姉の怒り、弟の制御、アピスの愛着誘導、仮面の名前上書き。サキ、あなたがユウリを取り戻そうとすればするほど、彼女はそれを物語として利用する』


 サキの手が震える。


「じゃあ、どうすればいいの」


『わかりません』


 レンジョウ博士は答えた。


 その正直さが、逆にサキの怒りを鈍らせた。


『私は、作る側にいた。止める方法を完全には知らない。知っていれば、もっと早く止めていたと言う資格もない。ただ、場所と構造情報は渡せる。内部の一部セキュリティコードも。けれど、最終区画はマダム・ヴィーの仮面術式で封じられている。正面から行けば、あなたたちは彼女の舞台に上がることになる』


「博士は、どうして今さら」


 カリンが訊いた。


「裏切るの?」


 レンジョウ博士は少しだけ笑った。

 笑みというより、壊れかけた表情だった。


『アラクネの消滅ログを見ました』


 サキの息が止まる。


『彼女は、私が安定化に関わった被験者です。名前は、もう残っていない。私も覚えていない。覚えていないことに、今さら耐えられなくなった』


 沈黙。


 サキはアラクネの最後を思い出す。


 私の名前、何だった?


 誰も答えられなかった。


『ローゼン・ドールも、ノーガも、クラーケンも、皆、名前を削られていった。私はそれを技術的課題として処理していた。命令核の安定化、記憶抵抗の低減、名前認識の上書き。それが何を意味するのか、見ないふりをしていた』


 博士の声が震える。


『だから、これは償いではありません。償えるとは思っていない。ただ、これ以上増やしたくない』


 カリンは黙っていた。


 いつもの軽い皮肉を言わなかった。


 アリスが淡々と確認する。


「提供可能な情報を送信してください。真偽はこちらで照合します」


『すでに送信しています』


 画面の隅に、膨大なデータが流れ込む。


 旧帝都大学封鎖研究棟。

 地下搬入口。

 凍結検体保管区。

 未完成EXキメラ培養槽。

 仮面術式制御室。

 ローゼン・プリンス保管区。

 最終実験舞台。


 サキは、その中の一つの言葉から目を離せなかった。


 ローゼン・プリンス保管区。


 そこに、ユウリがいる。


 レンジョウ博士は最後にサキを見た。


『蒼原サキ。ユウリを取り戻したいなら、あなたはマダム・ヴィーの望むローゼンマスクとして完成する必要がある。少なくとも、彼女はそう信じている』


「わたしは……」


『それを逆手に取るしかありません』


 博士は言った。


『彼女は、あなたの怒りを待っている。弟を奪われた姉の怒り。愛する少女を巻き込まれた怒り。名前を奪われた者たちの怒り。その怒りで仮面を起動し、グローリアを完成させ、弟の制御核と同期させる。それが最終実験です』


 サキの胸の奥で、ロゼが唸る。


『上等だ。待ってるなら行ってやる』


「ロゼ」


『何だよ。あいつはユウリを餌にしてる。イツキを首輪にしようとした。アラクネの名前を消した。ドールに顔だけ与えて空っぽにした。怒るなってほうが無理だろ』


「怒っていい」


 イツキが言った。


 サキとロゼの両方へ向けるように。


「怒っていいよ。サキも、ロゼも。でも、怒りだけで走ったら、マダム・ヴィーの作った物語になる」


 サキはイツキを見る。


 イツキは左腕の袖をまくった。


 金色のアピス回路が淡く光る。


「だから、こっちも物語じゃなくて、作戦で行こう」


「作戦?」


「うん」


 イツキは端末を取り出した。


 蜂型ドローンが三機、彼女の肩の周囲へ浮かぶ。まだ完全に慣れてはいない。けれど、以前より安定している。


「M∴R∴の通信網に入る」


 カリンが眉を上げる。


「それ、かなり危ないよぉ」


「知ってます」


 イツキは頷く。


「でも、アピス・ユニットは元々、ローゼン系列を支援、監視、誘導するための端末として作られたんですよね。だったら、向こうの通信規格に近い。完全に乗っ取るのは無理でも、中枢の警備配置、命令核の接続経路、ユウリくんの保管区画くらいは探れるかもしれない」


 アリスが端末を確認する。


「理論上は可能です。ただし、逆侵入によりイツキ様の名前認識が再汚染される危険があります」


「そこは、サキが呼んで」


 イツキはサキを見た。


 あまりにも自然に言った。


「サキが危なくなったら、あたしが名前を呼ぶ。あたしが危なくなったら、サキが呼んで。そうやって行こう」


 サキは言葉を失う。


 イツキは笑う。


 怖いはずなのに。

 アピスにされかけたばかりなのに。

 まだ腕に回路が残っているのに。


 それでも彼女は、自分の選択として戦場に立とうとしている。


「イツキ」


「なに?」


「怖くないの?」


「怖い」


 イツキは即答した。


「でも、怖いから準備する。怖いから一人で突っ込ませない。怖いから、サキの名前を呼べる場所にいる」


 サキの胸が熱くなる。


 ロゼが小さく呟いた。


『いい女だな』


 サキは少し目を見開いた。


「ロゼが……」


「ロゼが?」


「……今のは言わない」


『言うな!』


 イツキは不思議そうに首を傾げた。


「え、気になる」


「あとで」


「約束?」


「うん」


 こんな時なのに、ほんの少しだけ二人の空気が緩む。


 カリンが肩をすくめた。


「はいはい、仲良し確認終了。作戦会議に戻るよぉ」


 シンが画面越しに咳払いをした。


『僕も同意だ。怒りに任せた突入は論外。レンジョウ博士の情報を照合し、アピス経由で通信網へ侵入、アリスが仮面術式を解析、カリンが裏口と退路を確保、サキは最終区画でユウリを呼ぶ』


「ユウリを、呼ぶ……」


 サキはその言葉を繰り返した。


 ユウリ。


 弟の名前。


 消された名前。

 でも、サキの中にはまだ残っている。

 イツキも覚えてくれている。

 シンの記録にも、今は残っている。


 奪われたなら、呼び直す。


 サキは拳を握った。


「行く」


 声は、さっきより静かだった。


「でも、マダム・ヴィーのローゼンマスクとしてじゃない。蒼原サキとして、ユウリを迎えに行く」


 イツキが頷く。


「うん」


 カリンが笑う。


「いいねぇ。怒ってるけど、ちゃんとサキちゃんの顔だ」


 アリスが淡々と言う。


「作戦準備を開始します。必要装備、通信遮断具、仮面制御対策、アピス保護プロトコル、ローズウィップ命令核摘出補助の準備に入ります」


 レンジョウ博士の通信は、まだ切れていなかった。


 彼女はサキを見つめていた。


『サキ』


「何」


『ユウリは、あなたを覚えていない可能性が高い』


 サキの胸が痛んだ。


 それでも、目を逸らさなかった。


『彼はローゼン・プリンスとして処理されている。あなたへの記憶も、姉弟としての接続も、封印または改竄されている。あなたが呼んでも、応えないかもしれない』


「それでも呼ぶ」


『攻撃してくるかもしれない』


「傷つけずに止める」


『あなたのロゼを沈黙させるかもしれない』


 ロゼが低く笑った。


『やれるもんならやってみろ』


 サキは胸に手を当てた。


「ロゼも、そう言ってる」


 イツキが小さく笑う。


「たぶん、すごく怒ってるんだね」


「うん」


「サキも?」


「怒ってる」


 サキははっきり言った。


「ユウリを奪ったことも、名前を消したことも、イツキを巻き込んだことも、アラクネの名前をなくしたことも、ローゼン・ドールを空っぽで作ったことも。全部、怒ってる」


 その声に、震えはなかった。


「でも、その怒りは、マダム・ヴィーのものにしない」


 イツキの手が、サキの手を握った。


 左腕のアピス回路が微かに光る。


「じゃあ、一緒に持つ」


「怒りを?」


「うん。重そうだから、半分くらい」


「イツキまで怒るの?」


「怒ってるよ」


 イツキは真面目に言った。


「サキを作品って呼んだこと。ユウリくんをプリンスなんて計画名で呼んだこと。あたしをアピスにしようとしたこと。サキが自分を責めるような傷をつけたこと。全部、怒ってる」


 サキはイツキを見る。


 イツキの怒りは、サキのものとは少し違う。

 激しく燃える火ではなく、冷静に残る熱だった。

 消えにくく、進む方向を照らす光。


「ありがとう」


 サキが言うと、イツキは少しだけ照れた。


「そこは、どういたしましてでいいのかな」


「たぶん」


「じゃあ、どういたしまして」


 そのやり取りを見て、カリンが少し笑う。


「本当に、マダムが一番嫌いそうな関係だねぇ」


「どういう意味ですか?」


 イツキが聞く。


「だって、誰かが用意した役割じゃないでしょ。守る側と守られる側でも、兵器と支援端末でも、薔薇と蜂でもない。二人で勝手に意味を変えてる。あの女、そういうのが一番気に入らないと思うよぉ」


 サキはイツキの手を見る。


 薔薇と蜂。

 勝手につけられた意味。

 変えていく意味。


 マダム・ヴィーの物語ではない。


 二人の、まだ名前のない関係。


 その夜、作戦準備が始まった。


 アリスはサキの仮面を解析台へ置き、深層術式の遮断層を組み直した。完全な解除はまだできない。だが、マダム・ヴィーからの外部命令を一度だけ拒絶するための防壁を追加する。


 シンは、旧帝都大学封鎖研究棟の図面を複数重ね合わせ、地下区画の矛盾を洗い出した。地図に存在しない通路。消された階段。女帝政府の古い封印印章の裏に隠された搬入口。


 カリンは裏社会の連絡網を使い、M∴R∴へ物資を運んでいた死都回収業者の動きを止めた。数件の倉庫で火災警報が鳴り、いくつかの配送車がなぜか検問に捕まった。


 イツキはアピス・ユニットを開いた。


 蜂型ドローンの内部コードに、自分で新しい識別名を書き込む。


 アピス。

 それはM∴R∴がつけた名前だった。


 でも、イツキはそこに別の意味を重ねる。


 索敵。

 支援。

 名前記録。

 帰還誘導。


 誰かを刺すためだけの蜂ではなく、迷った人を巣へ連れ戻すための蜂。


 サキはその横に座り、仮面を見ていた。


 真紅のマスカレードマスク。

 ずっと嫌いだった。

 今も好きではない。


 でも、いつか自分の意思で被る日が来るのかもしれない。


 ローゼンマスクとしてではなく。

 蒼原サキとして。


 その時、自分はこの仮面の意味も変えられるだろうか。


『できるだろ』


 ロゼが言った。


 サキは少し驚く。


「ロゼがそういうこと言うんだ」


『あんたは変えるのが得意そうだからな。嫌なくらい』


「嫌なんだ」


『面倒だ。でも、嫌いじゃない』


 サキは小さく笑った。


 隣でイツキが顔を上げる。


「ロゼ?」


「うん」


「何て?」


「面倒だけど嫌いじゃないって」


 イツキは少し考えてから、ふふ、と笑った。


「褒めてるね」


『褒めてない!』


「褒めてないって」


「わかりやすい」


 サキは胸の奥でロゼが怒っているのを感じながら、久しぶりに少しだけ笑えた。


 その頃。


 カミハラ区地下。


 旧帝都大学封鎖研究棟の最深部で、マダム・ヴィーは赤いベール越しにガラス棺を見下ろしていた。


 そこは、花園のような研究室だった。


 床には黒い魔導ケーブルが根のように這い、天井からは培養液の滴る透明な管が垂れている。壁際には凍結検体の保管槽が並び、奥には未完成のEXキメラが眠っている。照明は白ではなく、淡い月光のような青。そこへ真紅の薔薇紋と、白い百合の紋が交互に浮かび上がっている。


 中央に、ガラス棺があった。


 中には少年が眠っている。


 まだ幼さの残る顔。

 サキの記憶より少しだけ成長しているようにも、あの日のまま止まっているようにも見える。閉じた瞼。薄い唇。細い首。透明な液体に浮かぶ髪。


 その髪には、薔薇ではない紋が浮かんでいた。


 白百合。


 棘のない、白い花の魔導紋。


 少年の名前は、ここには記録されていない。


 ガラス棺の表示には、こうある。


 Rosen Prince

 Code:Lilium

 Control Core Stabilized

 Sister-Link Awaiting


 マダム・ヴィーは、うっとりと微笑んだ。


「もうすぐよ、白百合の王子様」


 彼女の義足が床を鳴らす。

 松葉杖の先端に仕込まれた魔導銃が、赤い光を反射した。


「お姉様が迎えに来るわ。怒りに燃えて、愛に震えて、名前を叫びながら。ああ、なんて美しいのでしょう」


 彼女はガラス棺に指を触れた。


 少年は眠ったまま動かない。


「姉が薔薇なら、弟は棘のない花でなくては」


 マダム・ヴィーは囁く。


「刺すのは姉。鎮めるのは弟。怒るのは姉。従わせるのは弟。二つの花が結ばれた時、ローゼン・プロトコルは完成する」


 ガラス棺の中で、少年の白百合紋が一度だけ光った。


 その光は、返事のようにも見えた。

 悲鳴のようにも見えた。


 マダム・ヴィーは微笑み続ける。


「さあ、物語の幕を上げましょう。蒼薔薇の少女。あなたが守り続けたその名前が、最後にどんな形で壊れるのか――わたくしに見せてちょうだい」


 研究棟の奥で、薔薇と百合の術式が静かに同期を始めた。


 遠く離れた解析室で、サキはふと顔を上げる。


 理由はわからない。


 けれど、確かに聞こえた気がした。


 氷の向こうから、自分を呼ぶ、かすかな声。


 お姉ちゃん。


 サキは立ち上がった。


「ユウリ」


 その名前を呼んだ瞬間、胸の奥の怒りが静かに燃えた。


 ロゼが笑う。


『行こうぜ、サキ』


 イツキが手を差し出す。


「行こう、サキ」


 サキはその手を握った。


「うん」


 名前を奪う結社の中枢へ。


 蒼薔薇の少女は、蜜蜂の少女と共に歩き出す。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ