第8話 ローゼン・グローリア
イツキの腕に残った金色の回路は、夜になると少しだけ光った。
それは、皮膚の下に埋まっているわけではない。
完全な改造ではない。
アリスの診断では、アピス・ユニットの試作接続端子が神経信号の表層に同期しているだけで、生命維持にも人格にも直接の危険はないということだった。
けれど、サキにはそれが傷に見えた。
ツインタワー東タワー地下から脱出した後、サキたちはカミハラ区の封鎖研究棟へ移動した。
表向きは帝都大学関連施設の一つ。
実際には、アリスとマナが一時的に借り受けた安全区画だった。白い壁、青い照明、魔導結界で封鎖された訓練室、解析用の端末群。ホウジュ区の修理屋とは違い、すべてが整いすぎている。
だからこそ、サキは落ち着かなかった。
病院。
研究所。
ガラス管。
手術台。
白い部屋は、それだけで過去を連れてくる。
イツキは医療ベッドの上に座っていた。上着は脱がされ、左腕には薄い治療フィルムが貼られている。その下に、小さな六角形の金色回路が見えた。蜂の巣の一部のような模様。
サキはベッド脇の椅子に座ったまま、ずっとその腕を見ていた。
「サキ」
イツキが呼ぶ。
サキは顔を上げる。
「また怖い顔してる」
「……ごめん」
「謝る前に、何考えてたか言って」
イツキの声は柔らかかった。
でも、逃がさない強さがあった。
サキは膝の上で手を握る。
「わたしがいたから、イツキが巻き込まれた」
イツキの眉が動いた。
「サキ」
「わたしがローゼンマスクだから、イツキまで狙われた。M∴R∴は、わたしを制御するためにイツキをアピスにしようとした。わたしが逃げなければ、イツキは普通に修理屋で暮らしてて、こんな腕に――」
「あたしの選択まで、サキのせいにしないで」
イツキの声が、部屋を切った。
サキは息を止めた。
イツキは怒っていた。
泣きそうな顔ではない。
怖がっている顔でもない。
まっすぐ怒っている。
「あたしは、サキに黙って連れてこられたわけじゃない。サキの正体を知っても、そばにいるって決めた。サキの仮面を調べたのも、あたしがやるって決めた。蜂に接続されかけた時だって、サキの名前を打ったのは、あたしがそうしたかったから」
「でも」
「でもじゃない」
イツキは右手でベッドのシーツを握った。
「サキが自分を責めると、あたしの選択がなかったことになる。あたしが怖くても隣にいたことも、サキを呼びたかったことも、全部サキのせいってことになる」
サキは言葉を失った。
イツキは視線を落とす。
「……それは、嫌だよ」
その声は、さっきより少し震えていた。
「守られるだけの子にしないで。巻き込まれただけの子にしないで。あたしはサキの名前を守るって言った。勝手に言った。だから、その言葉までサキの罪にしないで」
サキの胸が苦しくなる。
「ごめん」
「また謝った」
「……ごめん」
「二回目」
イツキは少しだけむくれた。
その表情がいつものイツキに近くて、サキは泣きそうになった。
「じゃあ、どう言えばいい?」
「ありがとう、でいい」
「……ありがとう」
「うん」
イツキは小さく頷いた。
「あと、心配なら心配って言って」
「心配」
「それは言えるんだ」
「心配だから」
サキはイツキの腕を見た。
「その回路、痛くない?」
「今は平気。ちょっと熱い時はあるけど」
「怖くない?」
「怖いよ」
イツキは素直に言った。
「蜂の視界が混ざった時、すごく怖かった。自分の目がどれかわからなくなって、あたしがあたしじゃなくなる感じがした。今でも、たまに羽音が聞こえる」
サキの顔が歪む。
イツキは慌てて続けた。
「でも、それをサキのせいにしたいわけじゃない。M∴R∴のせい。マダム・ヴィーのせい。あいつらが勝手にしたこと」
「……うん」
「だから、勝手にされた意味を、こっちで変える」
イツキは自分の腕に残った金色の回路を指でなぞった。
「これ、アピス・ユニットとして使えるんでしょ」
部屋の隅で、アリスが端末から顔を上げた。
「はい。現段階では限定的ですが、蜂型支援ドローン群との同期が可能です。索敵、命令核のマーキング、通信補助、サキ様の暴走値モニタリングに有効と推定されます」
「じゃあ、訓練する」
イツキは言った。
サキは即座に首を振った。
「だめ」
「早い」
「だめ」
「二回言った」
「イツキ、まだ昨日救出されたばかりだよ。身体も完全じゃない。そんなもの使ったら、また蜂に引っ張られるかもしれない」
「だから訓練するんでしょ」
「イツキ」
「サキ」
二人の声がぶつかる。
アリスは無表情のまま、少しだけ視線をカリンへ向けた。
部屋の入口にもたれていたカリンは、面白そうに肩をすくめる。
「青春だねぇ」
「カリンさん、茶化さないでください」
イツキが睨む。
「ごめんごめん。真面目に言うと、イツキちゃんの言い分にも一理あるよぉ。使わないまま放置すると、敵に再接続された時の危険が大きい。自分で扱えるようにしたほうがいい」
「カリンまで」
サキは困った顔をする。
「でも、危ない」
「危ないから、ボクとアリスちゃんがいる時にやる。危なくない時に危ないものを練習するんだよぉ」
「危なくない時に危ないもの……」
「言葉が変なのは気にしない」
イツキはベッドから足を下ろした。
サキが慌てて支える。
「まだ歩かないで」
「歩ける」
「ふらついてる」
「サキが支えてるから大丈夫」
「それは大丈夫って言わない」
「じゃあ、支えて」
イツキはサキの袖を掴んだ。
少し強引な言い方だった。
けれど、掴む手は震えている。
サキはそれに気づいた。
イツキは怖い。
それでも、立とうとしている。
守られるだけでは嫌だと言っている。
その気持ちまで否定したら、自分はまたイツキの選択を奪うことになる。
サキは深く息を吸った。
「……無理しそうになったら、止める」
「うん」
「本当に止める」
「うん」
「イツキが嫌がっても」
「それは相談」
「イツキ」
「わかった。ちゃんと止まる」
イツキは小さく笑った。
「だから、隣にいて」
サキは頷いた。
「いる」
訓練室は、白い箱のような空間だった。
壁と床には衝撃吸収用の魔導結界が張られている。天井には複数の観測端末。中央には、アリスが用意した蜂型支援ドローンが十機、透明なケースの中で待機していた。
M∴R∴から奪った機体ではない。
シンが回収した部品を、アリスとイツキが安全化し、マナの認可コードで制御層を上書きしたものだ。
それでも、サキには蜂型というだけで胸がざわついた。
イツキは訓練室の中央に立つ。
左腕の金色回路が、淡く光った。
「アピス・ユニット、試験起動」
アリスが端末を操作する。
「イツキ様、異常を感じた場合は即時申告をお願いします」
「はい」
「サキ様、暴走値が上昇した場合、わたくしが強制停止します」
「……はい」
サキは壁際に立っていた。
腕を組んでいるわけでも、構えているわけでもない。いつでも駆け寄れる距離で、ただイツキを見ている。
イツキが振り返った。
「そんな顔しないで」
「どんな顔?」
「今にも泣きそうな顔」
「してない」
「してる」
「……してるかも」
イツキは少し笑った。
「見てて」
その言葉で、サキは何も言えなくなった。
イツキは目を閉じる。
蜂型ドローンが一機、ケースから浮かび上がった。
金色の小さな翅が震える。羽音は柔らかく、昨日のオークション会場で聞いた不気味な群れの音とは違っていた。
イツキの額に汗が浮かぶ。
「視界、来る……」
「切りますか」
アリスが問う。
「まだ大丈夫」
イツキはゆっくり呼吸する。
「自分の目。ドローンの目。分ける。重ねない。タグをつける。主視界はあたし。補助視界は蜂」
まるで修理手順を口に出すように、イツキは自分へ命令した。
蜂型ドローンが訓練室の端へ飛ぶ。
「見える。壁の傷。アリスさんの端末。カリンさんの靴。サキの……」
イツキが言葉を止めた。
サキは身を乗り出す。
「大丈夫?」
「大丈夫」
イツキは目を開けた。
「蜂の目で見るサキ、ちょっと変な感じ」
「変?」
「赤く見える。薔薇の熱みたいなのが、胸と腕にあって。あと、心臓の近くに青い光と赤い光がある」
アリスが頷いた。
「X核とY核の反応です。アピス・ユニットの魔導反射により、可視化されています」
「サキの中に、二つ」
イツキは呟いた。
サキは少しだけ身構える。
イツキがロゼのことに気づく。
いつか話さなければいけないと思っていた。
でも、まだ言えない。
自分の中に、もう一人がいる。
戦うための怒りがいる。
それをイツキがどう思うか、怖かった。
イツキはそれ以上聞かなかった。
ただ、蜂型ドローンをサキの周囲へ飛ばし、そっと笑った。
「サキ、きれいだね」
「え?」
「蜂の目で見ると、薔薇みたい。怖い光じゃない」
サキは言葉を失った。
アリスが端末を見る。
「イツキ様、同期安定。二機目を起動します」
「お願いします」
二機目、三機目。
イツキの額に汗が増えていく。
視界が増えるたびに、彼女の呼吸は少し乱れた。だが、彼女は一つずつ名前をつけるようにドローンを制御していった。
一番機、索敵。
二番機、通信。
三番機、マーキング。
四番機、治療補助。
ただの群れではない。
イツキの意志で動く、小さな蜂たち。
サキは、それを見ていた。
怖い。
でも、それだけではない。
イツキが、自分の腕に残されたものを、少しずつ自分の道具へ変えていく。M∴R∴の檻だったものを、イツキ自身の手で組み直していく。
それは、サキにとって眩しかった。
「イツキ、すごい」
思わず言うと、イツキは照れたように笑った。
「まだ五機で酔いそうだけどね」
「休んで」
「あと一機」
「休んで」
「サキが過保護」
「イツキが無茶」
「じゃあ、引き分け」
そのやり取りに、カリンが小さく笑った。
だが、その直後、訓練室の警報が鳴った。
赤い光が白い壁を染める。
アリスが端末を操作する。
「外部転送反応。訓練室内へ直接侵入」
カリンが大鎌を出す。
「早いねぇ。もう来たか」
シンの声が通信に割り込んだ。
『M∴R∴の偽装信号だ。ツインタワー地下で回収した残骸に追跡術式を仕込まれていた可能性が高い。すまない、検出が遅れた』
「謝罪はあとで。対象は?」
『生体反応一。だが、妙だ。サキに酷似している』
サキの背筋が凍る。
訓練室の中央に、黒い薔薇紋が浮かび上がった。
転送陣が開く。
そこから、一人の少女が現れた。
サキと同じ顔だった。
いや、完全に同じではない。
髪はサキより少し長く、色は灰がかった薄い蒼。肌は白く、血の気がない。目は開いているが、瞳に焦点がない。表情は何もない。制服に似た戦闘服を着ており、胸元には黒薔薇の小さな紋章が刻まれている。
仮面はつけていない。
だが、その顔は、サキに似すぎていた。
イツキが息を呑む。
「サキ……?」
「違う」
サキは震える声で言った。
自分でも、それが否定なのか祈りなのかわからなかった。
少女の首元に、文字が浮かぶ。
RZ-DOLL
Rosen Doll Prototype
Command Only
アリスの目が青く光る。
「対象、サキ様の生体構造を模した複製戦闘体と推定。X核反応、極めて微弱。Y核相当の戦闘制御回路のみ確認」
カリンの表情が冷える。
「趣味が悪いなんてもんじゃないねぇ」
ローゼン・ドール。
M∴R∴が望んだ完成品。
名前を持たない。
記憶を持たない。
怖がらない。
迷わない。
命令だけで動く、サキによく似た兵器。
ローゼン・ドールは、サキを見た。
その目には、何も映っていないように見えた。
『RZ-X01確認。回収不能時、破壊許可』
機械音声のような声が、彼女の口から出た。
サキの胸がきしむ。
「わたし……?」
ロゼが低く唸った。
『違う』
「でも」
『あれは、あんたじゃない』
ローゼン・ドールの腕から、薔薇の茨が伸びた。
ローズウィップ。
同じ形。
同じ赤。
けれど、そこには感情の揺れがない。恐怖で縮むことも、怒りで硬くなることも、イツキの声で安定することもない。ただ命令に応じて最適な軌道を描く、兵器としての蔓。
次の瞬間、ローゼン・ドールが動いた。
速い。
サキは反応が遅れた。
ローズウィップが横薙ぎに走る。サキは自分の鞭で受けるが、衝撃で壁際まで弾かれた。床を削り、結界が火花を散らす。
「サキ!」
イツキが叫ぶ。
サキは立ち上がろうとした。
ローゼン・ドールは待たない。
痛みを恐れない。
相手の呼吸を読まない。
言葉を投げない。
ただ最短距離で破壊しに来る。
サキの足元へ鞭が走る。
サキは跳ぶ。
壁を蹴る。
空中で身体を捻り、ローズウィップを天井へ引っかける。
ローゼン・ドールも同じ動きをした。
鏡のように。
いや、鏡よりも速い。
サキの迷いがある分だけ、ドールのほうが速かった。
ローズウィップがサキの肩を掠める。
血が散る。
薔薇型ナノマシンが傷を塞ぐ前に、二撃目が来る。
カリンが割り込んだ。
大鎌がドールの鞭を受け止める。
「アリスちゃん、イツキちゃんを下げて!」
「了解」
アリスがイツキの前に魔導盾を展開する。
イツキは唇を噛む。
「下がらない」
「イツキ様、現状では危険です」
「わかってます。でも、サキが」
イツキは蜂型ドローンを飛ばした。
訓練中の五機。
まだ不安定な蜂たちが、ローゼン・ドールの周囲を回る。
イツキの視界に、ドールの反応が入る。
青い光がない。
赤い光だけがある。
X核がない。
サキをサキにしている部分がない。
それが、イツキには怖かった。
「サキ、あれ、命令核が胸じゃない!」
イツキが叫ぶ。
「首の後ろ! 黒薔薇の紋章の下!」
サキは壁を蹴り、ドールの背後へ回ろうとする。
だが、ドールは即座に反応し、首の後ろを守るように鞭を展開した。
サキの腕が弾かれる。
ロゼが舌打ちする。
『迷うな。首を落とせば止まる』
「それは、だめ」
『相手は空っぽだぞ』
「だから、余計にだめ」
『余計に?』
「だって、あの子は、何も選べない」
サキはローズウィップを構え直す。
「あの子には、怖がることも、怒ることも、誰かを呼ぶこともできない。だったら、わたしがただ壊したら、本当に何も残らない」
『甘い』
「うん」
『その甘さで死ぬぞ』
「死なない」
『根拠は?』
「イツキが見てる。ロゼもいる」
ロゼが一瞬黙る。
『……ほんと、面倒な女だ』
ドールの攻撃がさらに鋭くなる。
サキは防ぐ。
逸らす。
止める。
だが、追い詰められていく。
ローゼン・ドールは強かった。
迷わないから。
痛みを恐れないから。
名前を持たないから。
サキが「傷つけたくない」と思う一瞬に、ドールは踏み込む。
サキが「この子も被害者かもしれない」と考える一瞬に、ドールは首を狙う。
サキがイツキの位置を気にする一瞬に、ドールは床を裂いて足場を奪う。
サキは膝をついた。
肩で息をする。
腕に走る傷はすぐ塞がるが、痛みは残る。精神のほうが削られていた。
目の前に、自分がいる。
もし、X核が壊れていたら。
もし、イツキが呼んでくれなかったら。
もし、ロゼだけが前に出て、サキが奥へ沈んだまま戻れなくなっていたら。
自分も、こうなっていたのかもしれない。
名前を持たず、誰かを守りたいとも思わず、ただ命令で動く薔薇。
『代われ』
ロゼが言った。
いつものように荒く。
けれど、少し違う。
『あんたがこのまま削られるのは見てられない。代われ。アタシがやる』
サキは目を閉じかけた。
代われば楽になる。
恐怖も、迷いも、痛みも、ロゼが前に出てくれる。
戦うのが得意なロゼなら、ドールに勝てるかもしれない。
でも。
それでは、自分はまた隠れるだけだ。
ロゼに怒りを預ける。
ロゼに戦いを押しつける。
ロゼを、M∴R∴が作った道具として使う。
それは違う。
サキは顔を上げた。
ローゼン・ドールが近づいてくる。
無表情な自分の顔。
空っぽの目。
命令だけの薔薇。
サキは胸の奥へ言った。
「ロゼ」
『なんだよ』
「一緒に戦って」
沈黙。
訓練室の警報音が遠くなる。
蜂の羽音も、カリンの大鎌の音も、アリスの端末操作音も、すべてが遠くなる。
ロゼが笑った。
『やっと言ったな』
その声は、いつもの皮肉に満ちていた。
けれど、どこか嬉しそうだった。
『代われじゃない。助けてでもない。一緒に、か』
「うん」
『遅いんだよ、サキ』
「ごめん」
『謝るな。立て』
胸の奥で、X核とY核が近づく。
青い光と赤い光。
記憶と怒り。
名前と戦闘本能。
怖がるサキと、壊したいロゼ。
どちらかが消えるのではない。
どちらかが沈むのでもない。
二つが同時に、前を向く。
サキの髪が紅く染まった。
だが、以前のように視界が赤一色にはならない。
青い光が残っている。
サキの瞳は、サキのままだ。
ローズウィップが複数展開される。
一本は荒く、鋭く、ロゼの怒りを宿す。
一本は細く、しなやかで、サキの制御を宿す。
残りの蔓が、互いを支えるように空間へ広がった。
アリスが端末を見る。
「グローリア・モード発動。ただし、サキ様のX核反応、沈降していません。Y核との協調状態を確認」
カリンが口笛を吹く。
「いいねぇ。怖いけど、きれいだ」
イツキは息を呑んだ。
「サキ……?」
サキが振り向く。
紅い髪。
薔薇の光。
いつもより鋭い目。
でも、イツキにはわかった。
サキだ。
「イツキ」
サキが呼んだ。
声にロゼの荒さが少しだけ混じっている。
でも、サキの声だった。
「大丈夫。わたし、ここにいる」
イツキの胸が熱くなる。
「うん!」
ローゼン・ドールが突進した。
サキも動く。
速度が違った。
今度は、ドールのほうが遅い。
サキはドールの鞭を一本目のローズウィップで受け、二本目で絡め、三本目で床を掴んで身体を反転させた。ロゼの反応速度で踏み込み、サキの制御でドールの首を避ける。命令核の位置だけを狙う。
ドールは痛みを恐れない。
サキは痛みを知っている。
ドールは迷わない。
サキは迷いながら選ぶ。
ドールは名前を持たない。
サキは名前を呼ばれている。
その差が、力になった。
「イツキ、マーキング!」
「任せて!」
蜂型ドローンが飛ぶ。
五機の小さなアピスが、ドールの周囲へ広がる。
イツキの視界が一瞬揺れたが、彼女は踏みとどまった。
「首の後ろ、黒薔薇紋の下! でも防御層が三枚ある!」
「ロゼ」
『一枚目は壊す。二枚目は剥がす。三枚目はあんたが抜け』
「わかった」
サキは踏み込んだ。
一本目のローズウィップが、ドールの防御鞭を正面から砕く。
ロゼの怒りが宿った一撃。迷いのない破壊。
二本目が黒薔薇紋の外装を絡め取り、引き剥がす。
サキの丁寧な手つき。傷つけすぎないための制御。
三本目が、露出した命令核へ伸びる。
ドールの顔が初めて動いた。
表情ではない。
命令回路の異常反応。
『停止回避。自己破壊準備』
アリスが叫ぶ。
「自爆反応!」
イツキの蜂が一斉に警告音を鳴らす。
「サキ、核が熱暴走してる!」
ドールは、自分が止められるくらいなら爆発するよう設定されていた。
訓練室ごと、サキたちを巻き込むつもりだ。
ロゼが低く笑う。
『やっぱり壊すしかないか』
「違う」
サキはドールの顔を見る。
自分に似た、空っぽの顔。
この子は、自爆することすら選んでいない。
命令されているだけだ。
「イツキ、通信妨害できる?」
「やる!」
イツキの左腕の金色回路が強く光る。
蜂型ドローンがドールの周囲を高速で回り、六角形の結界を作った。M∴R∴から送られてくる自爆命令に、雑音を流し込む。
イツキの顔が苦痛に歪む。
「っ、重い……!」
「イツキ様、負荷上昇」
アリスが端末に手をかける。
イツキは首を振った。
「切らないで! あと少し!」
サキは叫ぶ。
「イツキ、無理しないで!」
「無理するって言ったでしょ!」
「言ってない!」
「言った気がする!」
「イツキ!」
「サキが止めて!」
その声で、サキは迷いを断った。
ローズウィップが命令核へ届く。
砕かない。
焼かない。
引き抜く。
アラクネの時と同じ。
ノーガの時と同じ。
敵の身体ではなく、命令の核を狙う。
だが今回は、相手に名前がない。
引き抜いたあと、何が残るのかわからない。
それでも、サキは手を伸ばす。
「ロゼ、支えて」
『任せろ』
赤い蔓がサキの腕を支えた。
青い光が指先を安定させる。
命令核が引き抜かれた。
黒い結晶が、ローズウィップに絡め取られて外へ出る。
同時に、イツキの蜂が通信を完全に遮断した。
自爆反応が止まる。
ローゼン・ドールの身体が崩れ落ちた。
サキはすぐに駆け寄り、その身体を抱き止めた。
軽い。
人間の重さではない。
でも、ただの機械の重さでもない。
ローゼン・ドールはサキの腕の中で目を開けたままだった。
瞳には、何も映っていない。
サキはその顔に手を伸ばす。
自分によく似た頬。
冷たい肌。
名前のない顔。
「ごめん」
サキは小さく言った。
「あなたを、わたしにはできなかった」
イツキが近づく。
サキはドールの顔を見つめたまま続けた。
「名前をつけてあげることも、思い出を戻すことも、できなかった。あなたが怖かったのか、苦しかったのか、それもわからない」
ローゼン・ドールは答えない。
ただ、首元のRZ-DOLLという表示が消え、灰色の戦闘服に刻まれた黒薔薇紋が薄れていった。
「でも」
サキは震える指で、ドールの目をそっと閉じた。
「あなたは、完成品なんかじゃない。M∴R∴が作りたかったわたしでもない。名前をもらえなかった、誰かだった」
沈黙が落ちる。
カリンは何も言わなかった。
アリスも解析を止め、静かに立っていた。
イツキはサキの隣に膝をついた。
「サキ」
「……うん」
「戻ってきて」
サキは目を閉じた。
紅い髪が、少しずつ元の色へ戻っていく。
複数のローズウィップがほどけ、腕の中へ沈む。
胸の奥で、ロゼが深く息を吐いた。
『悪くなかった』
サキは小さく笑った。
「ロゼが褒めた」
『褒めてない』
「褒めたよ」
『うるさい』
サキはローゼン・ドールの身体を床に横たえた。
命令核を抜かれた彼女は、もう動かない。
生きていたのか、最初から生きていなかったのか、それすらわからない。
ただ、サキにはわかった。
自分は、ああなっていたかもしれない。
でも、今は違う。
違うと言えるのは、イツキが名前を呼んでくれたから。
ロゼが怒りを抱えてくれていたから。
そして、サキ自身が怖いまま立つと決めたから。
訓練室の警報が止まる。
シンの声が通信に入った。
『転送経路を逆探知した。M∴R∴の移動研究区画からだ。詳細は追って送る』
カリンが頷く。
「ありがとう。こっちは一体止めた」
『一体?』
「サキちゃんの複製みたいな子」
短い沈黙。
『……悪趣味だな』
「ほんとにねぇ」
カリンは大鎌を消し、サキを見る。
「立てる?」
「うん」
「イツキちゃんは?」
「立てます」
イツキは言ったが、ふらついた。
サキが支える。
「無理しないで」
「はい」
「素直」
「今はちょっと、ほんとに足にきた」
「座って」
「サキも座るなら」
「わたしは平気」
「じゃあ座らない」
「イツキ」
「一緒に座る」
サキは困ったように笑った。
それから、二人で訓練室の壁際に座った。
イツキの蜂型ドローンが一機、二人の前にふわふわと浮いている。さっきまで戦っていたとは思えないほど、小さくて頼りない光だった。
サキはそれを見る。
「助けられた」
「蜂に?」
「イツキに」
イツキは少しだけ頬を赤くした。
「じゃあ、サキにも助けられた」
「助けられてばっかりだね」
「お互い様ってことにしよう」
サキは頷いた。
「うん」
その夜。
訓練室の片づけとドールの封印処理が終わった後、サキとイツキは研究棟の屋上にいた。
カミハラ区の夜景が広がっている。
遠くにツインタワーが見える。東タワーの上層はまだ光っているが、その地下で何が起きたかを知る者は少ない。帝都エデンは、今日も傷を隠したまま輝いている。
屋上のフェンス際に、サキとイツキは並んで座っていた。
イツキの肩には薄い毛布。
サキの手には温かい缶飲料。
蜂型ドローンは一機だけ、二人の周囲をゆっくり飛んでいる。アリスが安全確認済みの機体だ。
サキはしばらく黙っていた。
風が髪を揺らす。
「イツキ」
「なに?」
「話したいことがある」
イツキはサキを見た。
「うん」
「怖い話かも」
「サキが怖い?」
「わたしが怖い」
「じゃあ、聞く」
イツキは毛布の端を少し持ち上げた。
「寒いなら入る?」
「……寒くはない」
「じゃあ、怖いなら?」
サキは迷った。
それから、少しだけイツキの近くへ寄った。
肩が触れる。
イツキはそれ以上近づきすぎず、ただその距離を保った。
サキは胸に手を当てる。
「わたしの中に、ロゼがいる」
イツキは黙っていた。
サキは続ける。
「M∴R∴が作った戦闘人格。グローリア・モードになると、ロゼが前に出る。今までは、わたしを乗っ取るものだと思ってた。怖くて、ずっと拒んでた」
「うん」
「でも、ロゼは……わたしを壊したいんじゃなくて、わたしを壊すものを先に壊したいって言った」
イツキの目が少し揺れる。
サキは夜景を見た。
「今日、ローゼン・ドールと戦った時、わたしだけじゃ勝てなかった。ロゼに代わるんじゃなくて、一緒に戦ってって言った。そしたら、ロゼは……笑った」
「笑ったんだ」
「うん。ちょっと意地悪に」
「サキの中で?」
「うん」
「ロゼって、どんな子?」
その訊き方があまりにも自然で、サキは驚いた。
「怖くないの?」
「怖いかどうかは、聞いてから決める」
「凶暴だよ」
「サキが危ない時に怒ってくれるんでしょ」
「敵を壊したがる」
「サキを壊す相手が嫌いなんでしょ」
「口が悪い」
「それはちょっと聞いてみたい」
サキは思わず困った顔をした。
『言うなよ』
ロゼが胸の奥で低く言う。
サキは少しだけ笑った。
「今、言うなって言ってる」
「聞こえるの?」
「うん」
イツキは少し考え込んだ。
それから、ゆっくり言った。
「じゃあ、ロゼもサキの一部なんだね」
サキの胸が小さく震えた。
「……そう思う?」
「うん」
「M∴R∴が作ったのに?」
「サキの薔薇も、最初はM∴R∴が勝手に入れたものでしょ。でも、今のサキはそれで人を助けてる。あたしの蜂も、最初は勝手につけられたもの。でも、これから意味を変えるって決めた」
イツキはサキを見る。
「だったら、ロゼも同じかもしれない。最初につけられた意味は、あいつらのもの。でも、これからどういう存在になるかは、サキとロゼで決められるんじゃない?」
サキは何も言えなくなった。
胸の奥で、ロゼも黙っている。
イツキは少しだけ身を寄せた。
「ロゼは、サキを守りたいんだよね」
サキは頷く。
「たぶん」
「じゃあ、あたしはロゼにもありがとうって言う」
『は?』
ロゼの声が裏返った。
サキは目を丸くする。
「ロゼが、何か言ってる」
「何て?」
「……は? って」
イツキは笑った。
「聞こえてないけど、なんとなく想像できる」
サキも少し笑う。
笑いながら、涙が出そうになった。
怖かったものが、少しだけ形を変える。
敵だと思っていたものが、完全な敵ではなくなる。
自分の中の怒りを、初めて否定しなくてもいいと思える。
それが、こんなにも苦しくて、こんなにも楽になることだとは知らなかった。
イツキがそっと手を出した。
「手、触っていい?」
サキは頷いた。
イツキの手が、サキの手を包む。
左腕には金色のアピス回路。
サキの手首には薔薇型ナノマシンの薄い紋。
勝手につけられたもの。
奪われたもの。
変えていくもの。
サキはイツキの手を握り返した。
「イツキ」
「なに?」
「ロゼが、たぶん照れてる」
「え、かわいい」
『かわいくない!』
ロゼが怒鳴る。
サキは思わず笑った。
イツキも笑った。
夜の研究棟の屋上で、二人の笑い声が小さく溶けていく。
帝都のどこかで、M∴R∴はまだ次の兵器を準備している。
マダム・ヴィーは、きっとサキとイツキの関係を壊すために、新しい仮面を作っている。
ノーガは逃げた。
ユウリの手がかりも、まだ遠い。
でも、今夜サキは一つだけ取り戻した。
自分の怒り。
それは、怪物の証ではなかった。
誰かを傷つけるためだけの力でもなかった。
自分を壊そうとするものに、壊されないための声。
サキは夜景を見つめ、胸の奥へ呼びかける。
「ロゼ」
『なんだよ』
「これからも、一緒に戦って」
少しの沈黙。
それから、ロゼが笑う。
『命令すんな。……でも、いいよ』
サキは頷いた。
隣でイツキが、何も聞こえていないはずなのに、サキの手を少しだけ強く握った。
赤い薔薇と、金色の蜂。
怖いまま、怒ったまま、それでも名前を呼び合う少女たち。
その夜、グローリアは初めて、サキを沈めるためではなく、サキと共に目を開けた。




