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第7話 ツインタワーの薔薇園

 ツインタワー東タワーは、夜になると顔を変える。


 地上階には光があった。

 高級ブランド店、魔導家電のショールーム、展望レストラン、企業向けラウンジ、女帝政府認可の警備ドローン。西タワーほど華やかではないが、それでも表の客たちにとっては十分に洗練された商業施設だった。


 ガラス張りの吹き抜けには、人工の月光が降り注ぐ。

 空中庭園には季節外れの花が咲き、広告ホログラムには微笑むモデルと最新型魔導端末が映っている。家族連れ、観光客、企業の接待客、夜景を見に来た恋人たち。誰もが、帝都エデンの夜を安全なものとして消費していた。


 だが、一般客が使うエレベーターでは到達できない階層がある。


 東タワーの地下。

 防火区画より下。

 物流搬入口よりさらに奥。

 建築図面から消された、招待制の会場。


 そこは、薔薇園と呼ばれていた。


 もちろん、本物の薔薇が咲いているわけではない。


 黒い大理石の床。

 天井から吊るされた赤い硝子灯。

 壁面を飾る人工薔薇の蔓。

 それぞれの花弁には盗聴防止結界と観客識別術式が埋め込まれ、客の名前も、顔も、取引記録も、必要に応じて曇らせる。


 会場の中央には、円形の舞台があった。


 周囲には、仮面をつけた招待客たち。

 企業の代理人。違法魔導具商。賞金首仲介業者。死都回収業者。女帝政府の下請けから流れてきた者。東タワー地下にだけ出入りする貴族趣味の富豪。彼らは顔を隠し、声を変え、互いに誰であるか知らないふりをして、壇上の商品を眺めている。


 展示されているものは、人の生活を便利にする道具ではなかった。


 封印解除済みの呪具。

 登録番号を削られた違法機械人形。

 死都東京の外縁から持ち出された黒い結晶標本。

 ヨムルンガルド結界外活動用の未認可防護服。

 培養槽に沈むEXキメラの未成熟体。

 名前を削られた記録核。

 魔導処理された生体装甲。


 そして、中央の舞台に置かれた試験台。


 そこに、イツキがいた。


 白いガラスの椅子に固定され、両手首と肩を薄い拘束具で留められている。拘束具は金属というより、蜂の巣のような六角形の魔導膜だった。腕には、試作接続端子。首筋には細いモニターケーブル。足元には、小型の蜂型ドローンが花粉のような金色の光を散らしながら眠っている。


 イツキの目は開いていた。


 けれど、彼女が見ているのは、目の前の会場だけではなかった。


 蜂の視界が流れ込んでくる。


 天井近くから見下ろす会場。

 舞台の下から見上げる客席。

 ガラスケースの中から見る赤い光。

 換気口の奥を飛ぶ狭い視界。

 搬入口に立つ警備員の背中。

 地下通路を走る信号線。


 数十、数百の視界が、イツキの頭の中へ押し寄せる。


 酔いそうだった。

 自分の目がどれなのかわからなくなる。

 自分の手がどこにあるのか、床に足がついているのか、いま自分が座っているのか飛んでいるのかさえ、時々曖昧になる。


 それでも、イツキは唇を噛んでいた。


 忘れない。


 自分はイツキ。

 修理屋の娘。

 サキの名前を呼ぶ。

 サキの手を握った。

 サキの仮面を書き換えようとした。

 サキをひとりにしないと決めた。


 サキ。


 その名前を心の中で呼ぶたび、蜂の羽音が少しだけ遠のく。


「皆様、大変お待たせいたしました」


 舞台の端に、司会者が現れた。


 顔を白い仮面で隠し、赤い手袋をした男だった。声は変声術式で加工され、年齢も性別もわからない。彼の背後には、真紅のベールとマスカレードマスクの紋章が浮かんでいる。


「今宵の特別出品は、M∴R∴より提供された新型支援キメラ適合候補体。コードネーム、アピス・ユニット」


 客席がざわめいた。


 イツキは奥歯を噛んだ。


 やめて。

 その名前で呼ばないで。


「本機構は、単体兵器ではありません。自律型EXキメラ、特にローゼン系列個体の支援、監視、誘導、鎮静、必要に応じた再拘束を目的とする、群制御型支援端末でございます」


 舞台周囲の蜂型ドローンが、ふわりと浮き上がった。


 客席の仮面たちが、値踏みするようにイツキを見る。


 視線が肌に刺さる。


 イツキは震えそうになる指先を、拘束具の中で必死に丸めた。


 怖い。

 でも、怖いだけで終わらせない。


 彼女の視界の端で、小さな入力欄がまだ残っている。

 ガラス室から転送される直前、イツキが打った文字。


 サキ。


 その二文字が、まだ端末の隅に光っていた。


「……来るよね」


 イツキは声にならない声で呟いた。


「来ちゃだめって言いたいけど、来るよね、サキ」


 泣きそうになる。


 でも、泣くのはあとだ。


 イツキは蜂の視界の海に手を伸ばした。


 支配される前に、読む。

 読めるなら、書き換える。

 修理屋の娘が、壊れた機械を前にして何もしないわけがない。


 同じ頃。


 薔薇園の正面入口に、一人の客が現れた。


 黒いドレス。

 細い腰。

 肩にかかる長い黒髪。

 顔の上半分を覆う白い仮面。

 招待状を差し出す指には、黒いレースの手袋。


 カリンだった。


 入口の警備員が招待状を確認する。


「お名前を」


「今夜は、名前を預ける場所でしょう?」


 カリンは甘く笑った。


 警備員の一人が一瞬だけ見惚れる。

 もう一人は、職務を思い出したように端末へ照会をかけた。


 招待状は本物だった。


 もちろん、正確には本物に見えるようシンが作った偽物である。だが、東タワー地下の監視網にとっては本物と区別できない。招待者の欄には、古い違法魔導具商の名前が入っている。彼は三年前に行方不明になっているが、この会場ではそういうことはよくある。


 警備員が道を開けた。


「お楽しみください」


「ええ。できれば、掃除が必要になる前にね」


 カリンは会場へ入った。


 耳元の極小通信機から、シンの声が聞こえる。


『正面潜入、成功を確認』


「招待状の趣味が悪いよぉ。亡霊商人って何?」


『実在の名義だ。死亡確認が曖昧で、かつ信用が残っている』


「裏社会って便利だねぇ」


『便利ではない。腐っているだけだ』


 カリンは仮面越しに会場を見渡した。


 出入口、警備ドローン、展示品、客の配置、舞台の高さ、消火設備、結界の流れ。

 すべてを一瞬で確認する。


 中央の舞台に、イツキ。


 カリンの目から笑みが消えた。


「見つけた。生きてる」


『意識状態は?』


「遠目だけど、まだ本人。目が死んでない」


『なら急げ。サキたちは搬入通路側から侵入中だ』


 東タワー地下の別ルート。


 サキとアリスは、廃棄物搬送用の縦坑を降りていた。


 通常の人間が通る場所ではない。

 狭い鉄骨通路。壁面を走る配管。魔導廃熱の赤い光。下からは会場の低いざわめきが響いてくる。


 アリスは無表情で先行し、壁に設置されたセンサーを指先で一つずつ無効化していた。

 サキはその後ろを、ローズウィップで壁面を固定しながら進む。


「サキ様、呼吸数が上昇しています」


「……大丈夫」


「大丈夫ではありません」


 アリスは振り返らずに言った。


「しかし、進行は可能と判断します」


「アリスって、時々イツキみたいなこと言うね」


「イツキ様の言動ログと一致する部分がありますか」


「うん。大丈夫じゃないって、ちゃんと言ってくれるところ」


 サキは少しだけ笑った。


 だが、すぐに表情が引き締まる。


 下にイツキがいる。

 自分を呼んでくれた子が、今度は呼ばれる側で待っている。


 胸の奥で、ロゼが静かにしていた。


 いつものように急かさない。

 代われとも言わない。


 ただ、熱だけがある。


『蜂の匂いがする』


 ロゼが呟いた。


「わかるの?」


『ああ。あの子の匂いに、変な機械臭が混ざってる。気に食わない』


「わたしも」


『暴れるなよ』


 サキは目を瞬かせた。


「ロゼがそれ言うの?」


『暴れるのはアタシの仕事だ。あんたが先に暴れたら、止めるやつがいない』


 サキは小さく息を吐いた。


「うん。……でも、助けて」


『最初からそのつもりだ』


 アリスが足を止めた。


「搬入口直上に到達。三秒後、シン様が監視システムを撹乱します」


 通信機からシンの声が入る。


『三、二、一。照明を落とす』


 薔薇園の会場で、赤い硝子灯が一斉に瞬いた。


 客席にざわめきが走る。


 司会者が声を張る。


「ご安心ください。演出でございます」


 嘘だった。


 会場の監視網が、ほんの数秒だけ盲目になる。


 その数秒で、アリスが天井パネルを開いた。


「突入します」


 白い影が落ちる。


 続いて、赤い薔薇の茨が闇を裂いた。


 サキは舞台裏の搬入口へ着地した。


 警備員が振り向く。


「誰だ――」


 声は最後まで出なかった。


 サキのローズウィップが警備員の武器だけを弾き飛ばし、アリスの魔導盾が彼らを壁へ押しつける。気絶させる。殺さない。


 サキは奥の舞台へ向かって走った。


 その瞬間、会場の照明が戻った。


 赤い光の中、司会者が高らかに告げる。


「それでは皆様、アピス・ユニットの実演をご覧ください」


 蜂型ドローンが、舞台上空へ広がった。


 イツキの腕の接続端子が赤く光る。


「っ……!」


 蜂の視界が一気に増えた。


 客席の顔。

 天井。

 舞台。

 カリンの横顔。

 搬入口から走るサキ。


 見えた。


 サキがいる。


 でも、その姿が蜂の視界越しに何重にも見える。どれが本当のサキなのかわからない。赤い茨が複数の画面に走り、仮面を被っていない素顔が一瞬だけ見え、次の瞬間にはローゼンマスクという識別表示が重なる。


 RZ-X01。

 ローゼンマスク。

 回収対象。

 制御対象。


「違う……」


 イツキは歯を食いしばった。


「サキは、サキ……!」


 舞台の下から、男が現れた。


 大柄な影だった。


 黒い獣毛のような生体装甲。

 犬を思わせる鋭い耳と顎。

 両腕には鉤爪。

 背中には追跡用の魔導感覚器が何本も突き出している。目は赤く、笑うと牙が並ぶ。


 犬型EXキメラ、ノーガ。


 彼が一歩踏み出すだけで、客席の空気が変わった。


 恐怖ではない。

 歓声に近い。


 この会場の客たちは、怪物を恐れるために来たのではない。

 値踏みするために来ている。


 ノーガは舞台の縁に立ち、サキを見下ろした。


「来たか、失敗作」


 サキの足が止まる。


 その言葉に、ローズウィップが反応して硬くなる。


 ノーガは鼻を鳴らした。


「薔薇の匂い。恐怖の匂い。怒りの匂い。ああ、いいな。おまえはいつも半端だ。逃げたいくせに戻ってくる。壊したくないくせに鞭を伸ばす。兵器のくせに、人間のふりをする」


「どいて」


 サキは言った。


「イツキを返して」


 ノーガは笑った。


「返す? あれはもう展示品だ。おまえを呼び戻すための蜂。おまえの首輪。おまえが暴れれば暴れるほど、あの女は価値を証明する」


 サキの髪の先が赤く染まった。


 ロゼの熱が上がる。


『殺す』


「待って」


『待たない』


 ローズウィップが太くなる。


 イツキが舞台上から叫ぼうとした。

 だが、喉に走る接続端子が声を詰まらせる。


 ノーガはさらに煽る。


「助けたいなら使えよ、グローリア・モード。おまえの本当の力だろう? 人間の顔をして、化け物の爪を隠すな。見せてみろ、ローゼンマスク」


「……その名前で呼ばないで」


「なら何と呼ぶ? 蒼原サキ? 死都から拾われた氷の娘? M∴R∴の失敗作? それとも、蜂一匹守れず泣いていた弱虫か?」


 サキの視界が赤く染まった。


 客席のざわめきが遠くなる。

 舞台の上のイツキが見えなくなる。

 ノーガの喉元だけが、いやにはっきり見える。


 殺せ。


 ロゼの声か、自分の怒りか、もう区別できない。


 髪が紅く変わる。

 ローズウィップが四本、五本と増え、床を裂いた。

 会場の大理石に亀裂が走る。


 客席から悲鳴と歓声が同時に上がった。


 カリンが仮面を外した。


「ちょっと、これはまずいねぇ」


 彼は客席の手すりを蹴り、舞台へ向かって跳ぶ。

 しかし、警備用の魔導障壁が立ち上がった。


 大鎌が障壁を叩く。


 火花が散る。


「シン!」


『解除中だ。会場側が手動制御に切り替えた。時間がかかる』


「時間ないんだけどねぇ!」


 アリスも動く。


 蜂型ドローンの群れが彼女を阻む。

 アリスは魔導盾を展開し、ドローンを破壊せずに弾き落とす。だが数が多い。しかも、ドローンの動きにはイツキの神経信号が混じっている。乱暴に壊せば、イツキへ負荷が返る可能性があった。


「イツキ様への逆流ダメージを確認。強制破壊は推奨されません」


 アリスの声がわずかに硬くなる。


「サキ様の暴走値、上昇」


 舞台上で、サキがノーガへ踏み込んだ。


 速い。


 今までのサキではない。

 ロゼが前へ出かけている。身体の動きが鋭くなり、攻撃の迷いが消え、ローズウィップが獣のように暴れている。


 ノーガは笑いながら迎え撃った。


 鉤爪と茨がぶつかる。


 金属音に似た衝撃が会場へ響いた。

 サキの鞭がノーガの肩を裂く。ノーガの爪がサキの腕を掠める。血が散る。だが、薔薇型ナノマシンが即座に傷を塞ぐ。


「そうだ、それだ!」


 ノーガが吠える。


「それがおまえだ、ローゼンマスク! 怖がるな。泣くな。人間の名前にしがみつくな。兵器は兵器らしく、壊せ!」


「黙れ」


 声が変わっていた。


 サキの声に、ロゼの荒さが混じる。


 客席の一部がどよめく。


 ノーガは嬉しそうに牙を見せた。


「出てきたな、グローリア」


『サキ、退け』


 ロゼが言う。


『こいつはアタシがやる』


「だめ」


『だめじゃない。今度は迷ってる場合じゃない』


「イツキが見てる」


『だから何だ』


「イツキは、わたしを呼びに来た。わたしがいなくなったら、イツキが呼べない」


 サキの意識が揺れる。


 でも、怒りが強すぎる。

 ノーガの言葉が、イツキの拘束具が、客席の視線が、すべて火種になる。


 ローズウィップが暴走した。


 一本が客席側へ飛ぶ。


 カリンが大鎌で受け止める。


「サキちゃん!」


 サキには聞こえない。


 視界が赤い。


 その時。


 蜂の羽音が変わった。


 イツキは、無数の視界の中心で歯を食いしばっていた。


 支配される。

 蜂の群れに意識を溶かされる。

 自分の視界が薄くなる。

 自分の名前が遠ざかる。


 でも、彼女は見つけた。


 蜂型ドローンの制御信号には、支配と同期の二種類がある。M∴R∴はイツキを中継端末にしようとしている。ならば、完全に支配される前なら、信号の向きを逆にできる。


 修理屋で、壊れた端末の配線を繋ぎ替える時と同じだ。


 もちろん、規模は違う。

 危険も違う。

 失敗すれば、自分の意識が蜂の群れに飲まれる。


 でも、サキが消えかけている。


 イツキは自分の指先に残るわずかな自由を使い、拘束台の端末へ触れた。


 入力欄に文字を打つ。


 サキ。


 その文字を起点に、蜂の群れへ命令を流す。


 識別名変更。

 RZ-X01ではない。

 ローゼンマスクではない。

 対象名、蒼原サキ。

 保護対象。

 視線誘導。

 音声増幅。


 蜂型ドローンの一部が、M∴R∴の制御から外れた。


 小さな金色の機体が、舞台の上へ飛ぶ。


 赤い視界の中で、サキは金色の点を見た。


 蜂。


 その蜂が、サキの目の前で止まる。


 小型スピーカーが震えた。


「サキ!」


 イツキの声だった。


 サキの動きが止まる。


 ノーガの爪が迫る。

 ロゼが叫ぶ。

 カリンが障壁を叩く。

 アリスのドローン解析が走る。


 それでも、サキはその声を聞いた。


「サキ、こっち見て! あたしはここ!」


 蜂型ドローンの群れが一斉に道を開いた。


 その先、舞台中央。


 拘束台の上で、イツキが顔を上げている。


 青ざめている。

 腕には接続端子。

 目は涙で濡れている。

 でも、確かにそこにいる。


「あたしはここ! アピスじゃない、商品じゃない、サキの首輪でもない!」


 イツキは叫んだ。


「あたしはイツキ! サキを呼ぶのは、あたしがそうしたいから!」


 サキの赤い視界に、ひびが入った。


 ロゼが低く舌打ちする。


『……あの子、ほんとに無茶するな』


「イツキ……」


『戻れ、サキ』


 ロゼの声が、いつもより近かった。


『怒りは消すな。アタシも消えない。でも、前に立つのはあんただ。あの子は、あんたを呼んでる』


 サキは息を吸った。


 紅く染まった髪が、完全には戻らない。

 でも、赤い視界の中に、サキ自身の意識が戻ってくる。


 ローズウィップが静まる。


 ノーガの爪が目の前に迫った。


 サキは身を沈めた。


 ロゼの反応速度。

 サキの制御。

 二つが重なる。


 ローズウィップがノーガの腕に巻きついた。

 切断しない。折らない。関節の動きだけを封じる。次の一本が床を掴み、サキの身体を回転させる。三本目がノーガの胸部装甲の隙間を探る。


 ノーガの表情が変わった。


「何だ、その動き」


「ロゼ」


 サキは胸の奥へ言う。


「力、貸して」


『命令核は右胸の奥だ。爪に気を取られるな』


「うん」


 ノーガが吠える。


「ふざけるな! 兵器のくせに、誰かの声で止まるな!」


「止まったんじゃない」


 サキは踏み込んだ。


「戻ってきたの」


 ローズウィップがノーガの胸部装甲を貫いた。


 ただし、核は砕かない。


 掴む。

 引く。

 命令核の外装をわずかにずらし、ノーガの動きを一瞬だけ止める。


 ロゼが笑った。


『今だ』


 サキは空中で身体を捻り、ノーガの顎へ膝を叩き込んだ。

 ノーガの巨体が舞台の端まで吹き飛ぶ。大理石の床が割れ、赤い硝子灯が揺れた。


 カリンの大鎌が障壁を破った。


 同時にアリスが蜂型ドローンの群れへ干渉し、イツキへ逆流する負荷を遮断する。


「イツキ様の生命反応、安定傾向。拘束具の解除に移行します」


 アリスが舞台へ走る。


 カリンは客席へ向き直り、大鎌を床に突き立てた。


「今夜のオークションは中止だよぉ。命が惜しい方から順に、静かに退場してね」


 客席の仮面たちは、一瞬迷った。


 だが、ノーガが舞台の端で唸り、サキが赤い薔薇の茨を構え、アリスの魔導翼が青白く広がるのを見て、判断は早かった。


 悲鳴。

 怒号。

 転送札の発動音。

 違法業者たちが、我先にと出口へ走る。


 シンの声が通信機に入る。


『逃走経路は記録している。顔を隠しても、金の流れは隠せない』


「さすが陰湿」


 カリンが笑う。


『褒め言葉として受け取る』


 舞台上。


 アリスがイツキの拘束具へ手を当てた。


「解除します。痛覚反応が発生する可能性があります」


「今さら、ちょっと痛いくらい……っ!」


 拘束具が外れる。

 接続端子が腕から剥がされる。痛みが走り、イツキは歯を食いしばった。


 サキが駆け寄る。


「イツキ!」


 イツキは台から崩れ落ちかけた。


 サキが抱きとめる。


 触れていいかと聞く余裕はなかった。

 でも、イツキはサキの服を掴んだ。


「サキ……」


「ごめん。遅くなって」


「来たら怒るつもりだったのに」


「うん」


「来てくれて、嬉しい」


「うん」


 サキの声が震えた。


 イツキの身体は熱い。

 でも、生きている。

 自分の腕の中で、呼吸している。


 サキは泣きそうになりながら、イツキの髪に頬を寄せた。


 その瞬間、背後で瓦礫が砕けた。


 ノーガが立ち上がっていた。


 胸部装甲は割れ、命令核の外殻に亀裂が入っている。だが、まだ止まっていない。赤い目がぎらぎらと光り、牙の間から荒い息が漏れる。


「逃げるな、ローゼンマスク」


 サキはイツキを背に庇った。


 イツキがその袖を掴む。


「サキ」


「大丈夫」


「一人で前に出ない」


 サキは振り返る。


 イツキの目はまだ揺れている。蜂の視界の残滓が消えていない。立っているだけでつらいはずなのに、彼女はサキを見ていた。


「サキ。あたし、蜂、少し動かせる」


「無理しないで」


「無理する。でも、勝手にいなくならない。だから、サキも勝手に消えないで」


 サキは息を呑む。


 イツキは小さく笑った。


「相棒でしょ」


 サキの胸が熱くなる。


「うん」


 サキはイツキの手を一度だけ握った。


 それから前を見る。


 ノーガが突進してくる。


 床が砕けるほどの速度。

 獣の脚力。

 殺意の塊。


 イツキが蜂型ドローンを飛ばした。


 完全な操作ではない。

 ぎこちない。

 数も少ない。


 それでも、金色の小さな蜂たちはサキの周囲を飛び、ノーガの動きをマーキングした。肩。膝。胸部。命令核の亀裂。視界の死角。


「右脚、遅れてる!」


 イツキが叫ぶ。


 サキは右へ踏み込む。

 ロゼがその動きに力を乗せる。


『上から来るぞ』


 サキは身体を低くし、ローズウィップを床へ這わせる。ノーガの鉤爪が頭上を掠める。次の瞬間、床から跳ね上がった茨がノーガの右脚を絡め取った。


 カリンの大鎌が横から入る。


「足場、もらうよぉ」


 鎌の刃が床に円弧を刻み、ノーガの踏み込みを崩す。


 アリスが魔導盾を展開し、ノーガの肩から放たれた衝撃波を受け止める。


「サキ様、三秒以内に決着を推奨します」


「わかった!」


 サキは走った。


 ロゼの力が背中を押す。

 でも、意識はサキのままだ。


 怖い。

 怒っている。

 泣きそう。

 イツキを抱きしめたい。

 ノーガを止めたい。


 全部、自分の中にある。


 消さなくていい。


 ローズウィップが一本にまとまった。


 太く、紅く、棘を持つ一本の薔薇の槍。


 ノーガが吠える。


「兵器なら、壊せ!」


「わたしは」


 サキはノーガの胸へ踏み込んだ。


「兵器として壊すんじゃない」


 ローズウィップが命令核を貫く。


 だが、完全には砕かない。

 外殻を裂き、制御線を断ち、ノーガの身体を一時停止させる。


「止めるために、戦う」


 ノーガの身体が硬直した。


 赤い目が揺れる。


 一瞬だけ、そこに獣ではない何かが見えた気がした。


「……名前なんか」


 ノーガが低く呟く。


「そんなもの、邪魔だ」


 次の瞬間、彼の身体は黒い煙へ変わり、舞台の奥へ跳んだ。完全停止ではない。自ら命令核の一部を切り離し、退避したのだ。


 カリンが追おうとする。


 だが、シンの声が止めた。


『追うな。会場の崩落防止結界が壊れかけている。これ以上戦えば地下階層ごと落ちる』


 カリンは舌打ちした。


「逃がしたか」


「一時撃退で十分です」


 アリスが言う。


「イツキ様の救出を優先すべき状況です」


 サキはノーガが消えた奥を見つめていた。


 名前なんか邪魔だ。


 その声が耳に残る。


 彼もまた、名前を奪われた存在なのかもしれない。


 でも今は、イツキだ。


 サキは振り返った。


 イツキは舞台の上に座り込み、左腕を押さえていた。接続端子の一部は外れた。だが、完全には取れていない。前腕の内側に、小さな六角形の金色の回路が残っている。


 蜂型ドローンのうち数機が、彼女の周囲を不安げに飛んでいた。


 サキの顔が青ざめる。


「イツキ、それ」


「あー……残っちゃったみたい」


 イツキは笑おうとした。


 笑えていなかった。


 アリスが解析する。


「アピス・ユニット試作接続端子の一部が、イツキ様の神経信号と同期しています。現時点で生命活動への重大な悪影響はありません。ただし、完全除去には専門設備と解除コードが必要です」


「そんな……」


 サキの声が震える。


「わたしのせいで」


「はい、そこ禁止」


 イツキがサキの言葉を遮った。


「でも」


「禁止」


「イツキ、腕に」


「見えてる」


「わたしがいたから、イツキまで」


「サキ」


 イツキは少し怒った声で呼んだ。


 サキは黙る。


 イツキは震える右手を伸ばした。


「手、貸して」


 サキはすぐに手を差し出した。


 イツキが握る。


 力は弱い。

 でも、確かだった。


「お揃いだね」


 イツキは、泣きそうな顔で笑った。


「サキも薔薇で、あたしは蜂」


 サキの胸が痛みでいっぱいになる。


「そんなふうに言わないで」


 声が震えた。


「それは、M∴R∴が勝手にしたことでしょ。イツキが選んだんじゃない。お揃いなんて、そんな……」


「うん。最初はね」


 イツキはサキの手を握り返した。


「でも、サキの薔薇も、最初はM∴R∴が勝手にしたことでしょ」


 サキは息を止める。


「でも今、サキはその薔薇であたしを助けてくれた。アラクネの名前を救えなかったって泣いて、ノーガを殺さず止めようとして、あたしのところまで来てくれた」


 イツキは自分の腕に残った金色の回路を見る。


「じゃあ、これも同じにしたい」


「同じ?」


「最初につけた意味は、あいつらのもの。でも、これからの意味は、あたしたちで変えたい」


 サキの目に涙が浮かぶ。


 イツキは手を離さない。


「じゃあ、二人で別の意味に変えよう」


 蜂型ドローンが一機、イツキの肩の近くに止まった。


 サキはそれを見る。

 怖い。

 イツキを奪おうとしたものだ。

 でも、その小さな機体は今、イツキの命令を待っているように羽を震わせている。


 サキはゆっくりと手を伸ばした。


「触っても、大丈夫?」


 イツキは少し驚いた顔をした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「うん。たぶん」


「たぶん?」


「まだ説明書読んでないから」


「イツキ」


「大丈夫。怖いなら、怖いって言って」


 サキは小さく息を吐いた。


「怖い」


「うん」


「でも、イツキのものになるなら、怖いまま見てる」


「ありがと」


 サキの指先が、蜂型ドローンの背に触れた。


 小さな金色の機体は逃げなかった。

 赤い薔薇の茨と、金色の蜂が、ほんの一瞬だけ同じ光を反射した。


 カリンが少し離れた場所で、大鎌を肩に担いだ。


「青春してるところ悪いけど、そろそろ撤収だよぉ。地下階層が本当に落ちる」


 アリスが頷く。


「脱出経路を確保済みです。シン様、出口誘導をお願いします」


『東側搬入口を開ける。会場の取引記録は可能な限り回収した。M∴R∴の資金経路も一部掴んだ』


「上出来」


 カリンが笑う。


『褒めても料金は下がらない』


「けち」


『現実的と言え』


 サキはイツキを支えようとした。


 イツキが少しだけ照れた顔をする。


「歩けるよ」


「無理しないで」


「無理するなって言う側になると、サキって強いね」


「イツキがいつも言うから」


「じゃあ、あたしの勝ち」


「何に?」


「サキの口癖をひとつ増やした」


 こんな場所で、こんな状況で、イツキが笑う。


 サキは泣きそうになった。


 でも今度は、泣く代わりに手を握った。


「帰ろう、イツキ」


「うん。帰ろう、サキ」


 二人は並んで歩き出した。


 背後では、薔薇園の赤い硝子灯がひとつ、またひとつと消えていく。違法な展示品はアリスが封印し、客の逃走経路はシンが記録し、カリンは最後尾で追手を斬り払う。


 ノーガは逃げた。

 マダム・ヴィーも姿を見せていない。

 M∴R∴はまだ終わっていない。


 それでも、今夜ひとつだけ取り戻したものがある。


 イツキの名前。

 サキの名前。

 そして、二人が互いに呼び合う声。


 ツインタワー東タワーの地下で、赤い薔薇園は崩れ始める。


 その中を、蒼薔薇の少女と蜜蜂の少女は、手をつないで走り抜けた。

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