第6話 X核とY核
赤い薔薇は、白い床の上で暴れていた。
旧医療機器倉庫の奥。
六角形の魔導陣が消えた部屋で、サキは膝をついていた。
イツキはいない。
さっきまで確かに、ここに気配があった。蜂型ドローンの羽音。甘い花の匂い。ガラスの檻へつながる転送術式の残り香。そして、ほんのわずかに残された、イツキの体温に似た魔導反応。
けれど、今は空白だけがある。
サキの指が床を掻いた。
「イツキ……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
それだけで、胸の奥が焦げるように痛んだ。
六角形の魔導陣が、床に薄く残っている。
その紋様は蜂の巣に似ていた。中心から外周へ、外周からさらに外へ。いくつもの経路が重なり、ひとつの檻を作っている。
イツキは、その檻の中へ連れていかれた。
サキは立ち上がった。
腕から、ローズウィップが伸びる。
赤い茨は、いつもより太く、荒い。棘の一本一本が怒りに反応して硬化し、床を削っている。サキはそれを抑えようとしたが、うまくいかなかった。
『抑えるな』
胸の奥で、ロゼが言った。
『そのまま行け。全部壊せ。部屋ごと、施設ごと、M∴R∴ごと、あのベール女ごと』
「……イツキが奥にいるかもしれない」
『だから早く行くんだろ』
「壊しすぎたら、イツキが傷つく」
『じゃあ、また奪われるのを見てるか?』
サキは唇を噛んだ。
返事ができない。
ロゼの言葉は乱暴だった。
でも、間違っているわけではない。
自分が怖がった。
仮面を被ることを迷った。
ロゼに代わることを拒んだ。
その間に、イツキは連れていかれた。
サキは胸ポケットのメモを握った。
蒼原サキ。
イツキ。
あの子が、何度も書いた名前。
その紙がくしゃりと音を立てた瞬間、部屋の壁が開いた。
医療用倉庫だったはずの壁の奥から、白い機械腕が何本も伸びてくる。
先端には注射針、拘束具、神経接続端子、仮面用の制御ケーブル。蜂型ドローンではない。M∴R∴支部そのものに組み込まれた捕獲装置だ。
『RZ-X01、再拘束を開始』
天井のスピーカーから、冷たい機械音声が流れる。
サキはローズウィップを振るった。
茨が機械腕を切り裂く。
一本、二本、三本。切断された腕が床へ落ち、火花を散らす。
だが、床の魔導陣が赤く光った。
サキのバッグの中で、真紅の仮面が震える。
制御信号が逆流した。
仮面を被っていないのに、仮面の内側に刻まれた術式が、サキの視覚へ直接入り込んでくる。
RZ-X01
Rosen Mask
Y-Core Priority
Gloria Mode Authorization
「っ……!」
サキの身体が硬直した。
ローズウィップが空中で止まる。
指先が動かない。膝が笑う。喉の奥に金属の味が広がる。
床から伸びた赤い魔導線が、サキの足首に絡みついた。
機械腕がその隙を逃さず、肩、手首、首筋へ向かってくる。
カリンが大鎌を振るった。
「サキちゃん!」
黒い刃が機械腕をまとめて落とす。
だが、カリンも万全ではない。先ほどから蜂型ドローンと支部の警備機構を相手にし続け、黒い外套の袖は裂れ、頬に細い傷がついている。
「まずいねぇ。仮面なしでここまで干渉されるとは思わなかった」
カリンはサキの前へ立った。
「サキちゃん、聞こえる?」
「……聞こえる。でも、身体が」
『代われ』
ロゼが囁く。
『この程度の拘束、アタシなら破れる』
「だめ」
『まだ言うか』
「イツキを助けるまでは、わたしが……」
『だから、その“わたし”が動けてないんだろ!』
ロゼの怒鳴り声に、サキの意識が揺れた。
足元から、赤い魔導線がさらに伸びる。
それはサキの影へ絡み、ローズウィップへ入り込み、仮面なしでグローリア・モードを強制起動しようとしていた。
髪の先が紅く染まる。
視界が赤くなる。
サキは自分の名前を思い出そうとした。
蒼原サキ。
けれど、その上から別の文字が重なる。
RZ-X01。
ローゼンマスク。
回収対象。
作品。
「違う……」
サキは声を絞った。
「わたしは……」
その時、天井が爆ぜた。
爆発音ではない。
硬質な何かが高速で突入し、天井板と配管をまとめて踏み抜いた音だった。
白い影が落ちてくる。
細い少女の姿。
金色の髪。
陶器のような白い肌。
黒を基調としたメイド服の上から、白い戦闘用魔導装甲を部分展開している。
背中には、骨組み状の魔導翼。
アリス。
彼女は落下の衝撃をまったく感じさせず、床へ静かに着地した。
そして、淡々と周囲を見回す。
「状況を確認しました」
機械腕がアリスへ襲いかかる。
アリスは視線も動かさず、片手を上げた。
「コード零零零、限定解除三十パーセント。近接防御を展開」
半透明の魔導盾が展開される。
機械腕の針が盾に触れた瞬間、逆に針のほうが粉砕された。
アリスはもう片方の手から小型の魔導刃を伸ばし、サキに絡みついた赤い魔導線だけを正確に切断する。
サキの身体が自由になった。
膝から崩れそうになるところを、カリンが支える。
「アリスちゃん、遅いよぉ」
「申し訳ございません。マナ様の許可取得、ならびにカリン様から提供された位置情報の誤差修正に時間を要しました」
「相変わらず律儀だねぇ」
アリスはサキの前へ立った。
蒼い瞳が、まっすぐサキを見る。
「サキ様の現在の状態を、危険と判断いたしました」
サキは荒い息を吐く。
「あなたは……」
「アリスでございます。高位機械人形。現在、マナ様の管理下にあります。カリン様より、サキ様およびイツキ様の救助要請を受けました」
「イツキは」
「現時点で当施設内にイツキ様の生体反応は確認できません」
その言葉に、サキの顔が強張る。
アリスは続けた。
「ただし、転送残滓を追跡可能です。まず、サキ様の仮面制御干渉を解除しなければ、追跡行動中に再拘束される危険があります」
「そんな時間ない!」
サキは叫んだ。
「イツキが、今どこかで」
「はい。イツキ様は危険です」
アリスの声は変わらない。
だからこそ、その言葉は冷たく響いた。
「しかし、サキ様が現在の状態で突入した場合、サキ様も敵制御下へ置かれ、イツキ様の救出成功率は低下します。サキ様がイツキ様を救うためには、まずサキ様自身がサキ様である必要があります」
サキは息を呑んだ。
サキ自身が、サキである必要。
イツキがいつも言ってくれたことと、同じだった。
アリスは床へ膝をつき、サキの腕にそっと触れた。
「触れてよろしいでしょうか」
サキは少し驚いた。
イツキと同じように、先に聞いたからだ。
「……うん」
「ありがとうございます」
アリスの指先から、淡い青い光が広がる。
魔導回路の解析光だった。
サキの腕に埋め込まれた薔薇型魔導生体ナノマシンが反応する。皮膚の下で微細な光が走り、胸の奥に二つの硬い熱源が浮かび上がる。
アリスの瞳に、膨大な解析情報が映る。
「対象内部に、二つの主要核を確認」
「二つ……?」
「仮称、X核およびY核」
アリスは淡々と告げた。
「X核は、サキ様の記憶、名前、自己認識、感情連続性を保持する中心核です。蒼原サキという個人を維持するための記録核と推定されます」
サキは自分の胸に手を当てた。
そこに、自分の名前がある。
「Y核は、戦闘人格ロゼ様の格納核です。戦闘判断、攻撃衝動、防衛本能、怒り、敵性排除プログラムと強く結びついています」
ロゼが低く笑った。
『様づけされる筋合いはないね』
アリスは少しだけ首を傾けた。
「ロゼ様の音声反応を確認。サキ様の内部通信ではなく、疑似人格核として独立した反応です」
「聞こえるの?」
「正確には、感情波形と応答パターンを検出しています。音声として受信しているわけではありませんが、存在は確認可能です」
『気味悪い人形だな』
ロゼが吐き捨てる。
サキは胸を押さえた。
「ロゼは、敵なの?」
ずっと訊きたかった。
けれど、怖くて訊けなかった。
ロゼはM∴R∴が作った。
自分を兵器にするために植え付けた戦闘人格。
グローリア・モードになると、サキの意識は奥へ沈み、ロゼが前に出る。
なら、ロゼは敵なのか。
自分を奪うものなのか。
アリスはすぐには答えなかった。
彼女はサキの胸部反応を数秒解析し、それから静かに言った。
「敵かどうかは、作った者ではなく、これからの関係で決まります」
サキは顔を上げた。
アリスの表情は薄い。
けれど、その言葉だけは、ただの解析結果ではないように聞こえた。
「わたくしの内部にも、通常人格とは異なる人格層が存在します」
カリンが小さく目を細める。
「零式人格?」
「はい」
アリスは頷いた。
「零式人格は、わたくしを作った者の目的、封じられた記録、怒り、拒絶を多く保持しています。かつてのわたくしは、それを異物と判断していました。自分ではないもの、危険なもの、目覚めてはならないものと」
「今は?」
「現在は、統合過程にあります」
アリスは自分の胸に手を当てた。
「零式人格は、わたくしを壊すためだけに存在していたわけではありません。わたくしが人形として扱われることへの怒り、誰かの代用品であることへの拒絶、命令ではなく自分で選びたいという衝動。それらは、わたくしにとって危険であると同時に、必要なものでした」
サキは黙って聞いていた。
ロゼも黙っていた。
「ロゼ様も同様である可能性があります」
「ロゼが……必要?」
「はい。M∴R∴はサキ様を完全に洗脳しなかった。むしろ、サキ様の恐怖、怒り、守りたい相手への執着を残すことで、出力を高める設計を行っています」
アリスの声が少しだけ低くなる。
「非常に悪質です。サキ様の心を燃料として使用する兵器設計です」
サキの手が震えた。
恐怖。
怒り。
守りたい相手への執着。
それらを残したのは、優しさではない。
兵器として強くするため。
イツキへの気持ちまでも、M∴R∴は命令系統に組み込もうとしている。
サキは吐き気を覚えた。
「じゃあ、ロゼも、そのために……」
「生まれた理由は、そうかもしれません」
アリスは言った。
「しかし、生まれた理由と、これから何になるかは同一ではありません」
その言葉に、サキは息を止めた。
作られた理由。
与えられた役割。
他人が貼った名前。
それがすべてではない。
イツキがいつも、自分に言ってくれたことと同じだった。
サキは胸の奥へ意識を向ける。
「ロゼ」
『……なんだよ』
「あなたは、わたしを乗っ取りたいの?」
沈黙。
ロゼはすぐには答えなかった。
『最初は、そういう命令だった』
いつもの荒い声が、少しだけ遠く聞こえた。
『あんたが怖がる。動けなくなる。泣く。目を閉じる。だからアタシが出る。敵を壊す。仮面の命令に従う。そう作られた』
「今は?」
『知らない』
ロゼは吐き捨てる。
『でも、あの子を連れていかれた時、ムカついた』
「イツキ?」
『ああ』
サキの胸が小さく痛んだ。
『あの子は、あんたの名前を呼ぶ。あんたが自分を怪物だって言っても、サキって呼ぶ。あんたが震えても、手を出す前に触っていいか聞く。そういうやつを、首輪にしようとした』
ロゼの声に、怒りが滲む。
『気に食わない』
「それは、わたしの怒りじゃないの?」
『そうかもな』
「じゃあ、ロゼは、わたしの一部?」
『それだけで片づけるな』
ロゼの声が鋭くなる。
『アタシはあんたの中にいる。でも、あんたの言いなりになる気はない。怖いなら下がれって今でも思う。敵は壊せって思う。甘いこと言ってる暇があるなら、先に動けって思う』
サキは黙って聞いた。
『でもな』
ロゼの声が少し低くなる。
『アタシはあんたを壊したいんじゃない。あんたを壊すやつを、先に壊したいだけだ』
サキの喉が震えた。
その言葉は、あまりにも不器用だった。
優しさと呼ぶには乱暴すぎる。
愛情と呼ぶには棘が多すぎる。
でも、それはたぶん、ロゼなりの守り方だった。
サキは初めて、ロゼを完全には拒絶できなくなった。
「……わかった」
『何が』
「まだ、怖い。でも、あなたのことを全部敵だとは思えない」
『今さらかよ』
「今さらだよ」
ロゼは鼻で笑った。
サキの胸の奥で、Y核の熱が少しだけ穏やかになる。
アリスは解析を終え、サキの腕から手を離した。
「仮面制御干渉の一時遮断に成功しました。ただし、完全解除ではありません。仮面を装着した場合、再干渉の危険があります」
「被らない」
サキは言った。
そして少し迷ってから、言い直す。
「今は、被らない」
カリンが微笑んだ。
「正直でよろしい」
その時、アリスの瞳が微かに光った。
「転送残滓の解析が完了しました」
サキが立ち上がる。
「イツキの場所?」
「はい」
アリスは空中に地図を投影した。
ホウジュ区、ミナト区、カミハラ区。
複数の偽装経路が表示され、それらが最終的に一箇所へ収束していく。
ツインタワー東タワー。
その地下深層。
「違法兵器オークション会場と推定されます」
カリンの顔から笑みが消えた。
「東タワー地下……よりによって、そこか」
「知ってるの?」
サキが訊く。
「知ってるどころじゃないよぉ。帝都の裏社会で、いちばん面倒な場所の一つ。表向き存在しない会場。違法魔導具、キメラ部品、機械人形のパーツ、死都由来遺物、封印呪物。金さえ積めば大抵のものが出る」
「M∴R∴はそこで、イツキを……」
「披露するつもりだね」
カリンの声が冷えた。
「アピス適性候補。ローゼンマスク制御用支援端末。サキちゃんを誘き出す餌であり、同時に商品価値の実演」
サキの拳が震えた。
「イツキは商品じゃない」
「うん」
カリンは頷く。
「だから、取り返す」
アリスが追加情報を投影する。
「M∴R∴は、イツキ様のアピス適性を利用し、蜂型支援ドローン群との神経接続を開始している可能性があります。ただし、現時点では完全な肉体改造には至っていないと推定されます」
「どうしてわかるの?」
「完全適合処理には専用培養槽と時間が必要です。拉致から現在までの経過時間では、第一段階接続が限界です」
サキは少しだけ息をついた。
まだ、間に合う。
完全には奪われていない。
「行こう」
サキは言った。
カリンが頷く。
「ただし、作戦ありで行く。サキちゃんは正面から走り込むと絶対罠にかかる。アリスちゃん、オークション会場のシステムに干渉できる?」
「外部からの完全侵入は困難です。ただし、わたくしが内部へ到達すれば、退路確保、通信妨害、局所的な防壁展開は可能です」
「いいね。ボクは裏の入場ルートを使う。シンに偽装チケットを用意させる」
「わたしは?」
サキが訊く。
カリンは彼女を見る。
「君は、イツキちゃんを呼ぶ」
サキは目を見開いた。
「戦うんじゃなくて?」
「戦うよ。でも、今回はそれだけじゃ足りない。イツキちゃんがアピスに接続されかけてるなら、あの子も自分の名前を保つのに必死なはず。君が呼ばなきゃ」
サキは胸ポケットのメモを押さえた。
イツキが打った「サキ」の文字。
何度も書いてくれた名前。
今度は、自分が呼ぶ。
イツキ、と。
サキは頷いた。
「呼ぶ」
アリスが静かに言った。
「サキ様」
「なに?」
「ロゼ様との協調を推奨します。ただし、主導権を手放さないでください」
サキは胸に手を当てた。
「うん」
『命令されるのは気に食わないが、今回は同意だ』
ロゼが言う。
『あの子を取り返す。あんたが呼べ。アタシは、邪魔するやつを壊す』
「壊しすぎないで」
『努力はする』
「それ、信用していいの?」
『さあな』
サキは少しだけ笑った。
こんな時に笑えるとは思わなかった。
でも、胸の奥でロゼがそこにいることが、今は少しだけ心強かった。
アリスは天井の破損部を見上げる。
「移動経路を確保します。カリン様、サキ様、追従をお願いします」
背中の魔導翼が展開する。
カリンは大鎌を担いだ。
「ツインタワー東タワー地下、違法兵器オークション。いいねぇ、いかにも帝都の裏って感じ」
「楽しそうに言わないで」
サキが言う。
「楽しんでないよぉ。怒ってる」
カリンは笑った。
だが、その目は冷たい。
「女の子の名前と愛情を商品にする連中は、掃除しがいがあるってだけ」
サキは頷いた。
倉庫の外では、夕闇が深まり始めていた。
ツインタワーの影が、ホウジュ区の空に遠く伸びている。
表の西タワーは光り輝き、買い物客で賑わっているだろう。
だが、その隣の東タワーの地下では、イツキが檻の中で目を覚ましている。
蜂の羽音。
ガラス室。
接続端子。
アピス。
サキは想像し、拳を握った。
「イツキ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
でも、胸の奥でロゼが言う。
『届かせに行くぞ』
「うん」
サキは顔を上げた。
怖い。
今も怖い。
でも、怖いまま走れる。
アリスの魔導翼が青白く光る。
カリンの黒い外套が夜風に翻る。
サキの腕から、赤い薔薇の茨が静かに伸びる。
ツインタワー東タワー地下。
違法兵器オークションの夜が、始まろうとしていた。




