第5話 蜜蜂の檻
仮面は、机の上に置かれていた。
真紅のマスカレードマスク。
薔薇の花弁をかたどった左右非対称の装飾。目元を覆う滑らかな曲線。頬にかかる部分には細い魔導回路が銀色の蔓のように走り、内側には肉眼では読めないほど小さな術式文字が刻まれている。
美しい。
そう思ってしまうことが、イツキは嫌だった。
この仮面は、サキを守っている。
昨夜のクラーケン戦でも、サキの顔と視界を守っていた。魔導毒の一部を濾過し、敵の熱源や命令核の位置を補正し、ローズウィップの軌道をサポートしていた。これがなければ、サキはもっと早く追い詰められていたかもしれない。
でも同時に、この仮面はサキを縛っている。
M∴R∴がサキの視覚、神経、戦闘人格、命令核へアクセスするための制御端末。真紅の仮面という形をした首輪。サキを「蒼原サキ」ではなく「ローゼンマスク」として扱うための道具。
イツキは作業台に肘をつき、仮面の内側へ細い解析プローブを差し込んだ。
「……ほんと、性格悪い」
仮面に向かって呟く。
イツキの家の修理屋は、今日は休業札を出していた。
表のシャッターは半分だけ閉めてある。通りから見れば、昨日の魔導災害と修理依頼の集中で店主一家が臨時休業しているようにしか見えない。だが店の奥では、普段よりもずっと物騒な作業が行われていた。
作業台には、仮面。
隣には、アラクネの命令核の抜け殻。
さらにその横には、死都回収業者の倉庫から持ち帰った検体リストのコピーと、氷棺の欠片に触れた時のサキの反応記録。
イツキの周囲には、小型ドローンが三機浮いている。
蜂の形ではなく、いつもの中古パーツ製の補助機だ。だが、昨日より少しだけ姿が変わっていた。アラクネの糸を避けるために組んだ反射センサーと、M∴R∴追跡ドローンから外した通信遮断部品を組み込んでいる。
修理屋の二階でサキが休んでいる間に、イツキはずっと仮面を解析していた。
眠っていない。
眠れば、あの白い糸を思い出す気がした。
サキの名前を、口の中で言えなくなりかけたあの感覚を。
忘れそうなら、何度でも書けばいい。
自分で言った言葉だ。
だから作業台の横には、メモ帳が開かれている。
蒼原サキ。
蒼原サキ。
蒼原サキ。
蒼原ユウリ。
イツキ。
蒼原サキ。
何度も、何度も書いた。
文字は眠気で少し歪んでいた。けれど、そこにあるだけで安心できた。名前は紙に書ける。端末に残せる。声に出せる。誰かが覚えていれば、完全には奪われない。
そのはずだ。
「……でも、こいつは奪う側なんだよね」
イツキは仮面を睨む。
解析画面には、複数の制御層が表示されていた。
表層。戦闘補助。視覚保護。毒素遮断。ローズウィップ運用補正。
中層。対象識別。M∴R∴認証。位置情報送信。グローリア・モード起動補助。
深層。Y核接続。戦闘人格ロゼの優先化。外部命令受信。名前認識の上書き。
さらに、その奥。
古い術式層がある。
イツキはそれを見つけた時、背筋が冷たくなった。
M∴R∴の工学系術式ではない。
もっと古く、もっと柔らかく、もっと悪趣味なもの。
夢に落とす。
記憶を曇らせる。
本名を覆い隠す。
仮名を貼り付ける。
仮面を皮膚ではなく、自己認識へ装着する。
その術式には、真紅のベールと、マスカレードマスクを合わせたような印が埋め込まれていた。
「夢の館……」
イツキはカリンから聞いた言葉を思い出す。
マダム・ヴィー。
会員制秘密サロン《夢の館》の主。
人を仮面で覆い、記憶を曇らせ、アルファベットや仮名で管理する女。
M∴R∴の研究主任ではなく、出資者であり、被験者調達者であり、芸術監督であり、ローゼン計画に美学を与えた黒幕。
サキを「作品」と呼ぶ女。
イツキは吐き気を覚えた。
「サキは作品じゃない」
小さく言った。
「絶対に」
プローブの先端が、仮面の深層術式へ触れる。
画面に警告が走った。
External Rewrite Detected
Unauthorized User
Counter-Invitation Protocol Active
「え」
仮面の薔薇紋が、淡く光った。
イツキの端末画面が暗転する。
黒い背景。
中央に浮かぶのは、黒薔薇ではない。
真紅のベール。
その奥に、唇だけが笑っている。
さらに重なるように、白いマスカレードマスクの紋章が浮かび上がった。
画面に文字が現れる。
アピス適合候補者へ。
夢の館は、貴女の来訪を歓迎いたします。
イツキは息を止めた。
「……サキ!」
叫ぼうとした瞬間、店の表側でガラスの割れる音がした。
蜂の羽音が、修理屋の中へ流れ込んできた。
それは本物の虫の音ではなかった。
もっと硬い。もっと速い。小型モーターと魔導羽根が作る、高く鋭い振動音。
イツキが作業台から飛び退く。
シャッターの隙間から、金色と黒の小型ドローンが雪崩れ込んできた。
一機、二機、十機。
いや、それ以上。
蜂型ドローンの群れ。
丸い胴体に細い翅。腹部には針のような端子。眼にあたる部分は赤い魔導光を放ち、機体の側面には小さな紋章が刻まれている。黒薔薇ではなく、真紅のベールとマスカレードマスク。
アピス。
そう呼ぶべきものだと、イツキは直感した。
ドローン群が店内の空気を支配する。
工具棚の上へ。
天井の配線へ。
作業台の周囲へ。
奥の階段へ。
数機が一斉に針を伸ばし、端末や照明、監視カメラへ接続した。店内の電源が一瞬落ち、すぐに赤い非常灯へ切り替わる。イツキの補助ドローン三機は反応する前に通信を妨害され、床へ落ちた。
「嘘でしょ……!」
イツキは工具バッグへ手を伸ばす。
その時、二階から足音が響いた。
「イツキ!」
サキが階段を駆け下りてきた。
寝間着代わりのシャツに、羽織ったカーディガン。包帯の巻かれた腕。顔にはまだ疲労が残っている。けれど、イツキを見る目だけははっきりしていた。
「来ちゃだめ!」
イツキが叫ぶ。
遅かった。
蜂型ドローンの群れが一斉にサキへ向きを変える。
サキの腕から、薔薇の茨が伸びた。
ローズウィップが狭い店内を走る。
棚を壊さないように、家族の工具を傷つけないように、客から預かった端末を巻き込まないように。サキは苦しいほど丁寧に鞭を振るった。
それでも、戦場はあまりにも狭かった。
蜂型ドローンが棚の隙間へ潜り、配線の裏へ回り、壁に取り付いたまま針を伸ばす。サキのローズウィップが一機を叩き落とす。二機目、三機目。だが、落とした機体の残骸から小さな子機が弾け、さらに細かな羽音が広がった。
「増えるの!?」
イツキが叫び、手元の工具を投げた。
レンチが一機に命中し、床へ叩き落とす。
イツキはすぐにカウンター下へ滑り込み、非常用の電磁パルス装置を掴んだ。旧式で、店内の端末ごと壊しかねない道具だ。
「サキ、三秒目閉じて!」
「え?」
「いいから!」
サキが反射的に目を閉じる。
イツキは電磁パルス装置を起動した。
青白い閃光が店内に走る。
蜂型ドローンの数機が火花を散らして落下する。照明がまた消え、棚の端末が一斉に警告音を鳴らした。
「イツキ、今の」
「あとで怒られるやつ!」
イツキは床から転がるように出る。
だが、蜂型ドローンはすべて止まったわけではなかった。
数十機のうち、半数近くがまだ飛んでいる。
その翅には、電磁対策の魔導膜が薄く張られていた。
サキが歯を食いしばる。
「イツキ、奥へ!」
「サキは?」
「わたしが止める!」
「一人で前に出ない約束!」
「今は――」
サキの言葉が途切れた。
蜂型ドローンの群れが、サキを無視してイツキへ向かったからだ。
サキではない。
最初から狙いはイツキだった。
「イツキ!」
ローズウィップが伸びる。
だが、蜂型ドローンは店内に張った赤い魔導糸のような通信網を使い、サキの鞭の軌道を予測していた。左右へ散り、上下へ分かれ、ローズウィップの死角へ潜り込む。
イツキは工具バッグを盾にして後退した。
一機が腕へ取りつく。
「っ!」
針が袖を貫く。
皮膚に触れる寸前、イツキは自分の腕を作業台へ叩きつけた。ドローンが潰れる。けれど別の一機が背後から肩に取りついた。
サキの中で、何かが冷たく弾けた。
「やめて!」
ローズウィップが暴れた。
棚の一部が壊れる。
工具が散らばる。
蜂型ドローンが五機まとめて切り裂かれる。
しかし、さらに細い機体が天井から降りる。
イツキの足元に、小さな魔導陣が展開された。
円形ではない。
六角形。蜂の巣のような構造。
床が光り、イツキの身体が一瞬だけ硬直する。
「なに、これ……!」
イツキは足を動かそうとした。
動かない。
六角形の魔導陣が脚を固定している。
さらに、蜂型ドローンが両手首、肩、背中へ取りついた。
サキが飛び込む。
その前に、店内の奥にあった仮面が光った。
真紅のマスカレードマスク。
作業台の上に置かれていた仮面から、赤い糸のような制御信号が伸びる。サキの視界が一瞬揺れた。
Return Order
RZ-X01
Protective Target Reassignment
Apis Candidate Secured
「っ……!」
サキの身体が止まる。
仮面をつけていないのに、制御信号が入ってくる。
さっきイツキが深層術式へ触れたせいで、仮面が一時的に店内の魔導網と接続しているのだ。
ロゼが怒鳴った。
『何してる! 動け!』
「動いてる……!」
『動けてない!』
サキは歯を食いしばる。
足が重い。
神経が焼ける。
視界に赤い警告が走る。
その向こうで、イツキがサキを見る。
怖がっている。
でも、サキを怖がっているのではない。
「サキ、こっち来ちゃだめ!」
「嫌!」
「仮面、反応してる! サキまで捕まる!」
「イツキを置いていけない!」
サキは無理やり足を踏み出した。
ローズウィップが蜂型ドローンを貫く。
一機、二機、三機。
だが、イツキの背後に六角形の光が開いた。
転送術式。
店内の空気が歪む。
真紅のベールとマスカレードマスクの紋章が浮かび上がる。
女の声がした。
甘く、艶やかで、ひどく遠い声。
『愛は素晴らしいわ』
サキの血が凍った。
その声を知っている。
ガラス管の向こう。
手術台の上。
仮面をつけられた日の夢の奥。
マダム・ヴィー。
『だから、命令系統に組み込む価値がある』
イツキの身体が、六角形の光に引き込まれる。
「サキ!」
イツキが叫んだ。
サキは腕を伸ばした。
ローズウィップがイツキの手首へ向かう。
傷つけないように、そっと巻きつくはずだった。
だが、蜂型ドローンがその間に割り込み、鞭の軌道を逸らした。茨はイツキの指先を掠めるだけで、届かない。
ほんの一瞬。
サキとイツキの指先が触れた。
離れた。
「イツキ!」
光が弾ける。
蜂の羽音が一斉に消えた。
修理屋の中に、壊れた端末の警告音だけが残る。
イツキはいなかった。
床には、彼女が落としたメモ帳が開いたまま残っていた。
蒼原サキ。
何度も書かれた名前。
その一番下に、震えた文字で、もう一つ。
イツキ。
サキはその場に膝をついた。
息ができない。
店の中は壊れていた。
棚は倒れ、端末は散らばり、床には蜂型ドローンの残骸が転がっている。だが、そんなものは何も見えなかった。
見えるのは、イツキが消えた場所だけ。
『だから言っただろ』
ロゼの声がした。
今度は冷たくなかった。
怒りで震えていた。
『代われ。アタシなら、あいつらを全部壊せた』
「……うるさい」
『うるさい? あの子を取られたんだぞ』
「わかってる」
『わかってない。あんたはまだ怖がってる。壊すのが怖い。傷つけるのが怖い。自分がローゼンマスクになるのが怖い。その間に、あの子は持っていかれた』
サキはメモ帳を拾った。
指が震える。
蒼原サキ。
イツキ。
その二つの名前が、同じページに並んでいる。
サキの目から涙は出なかった。
涙よりも先に、胸の奥が熱くなった。
怖い。
怖いままだ。
でも、それ以上に、取り返したい。
サキは仮面を見た。
真紅のマスカレードマスクは、作業台の上で静かに光を失っている。
首輪。
制御端末。
M∴R∴がサキを縛る道具。
そして、イツキが命懸けで書き換えようとしていたもの。
サキは立ち上がり、仮面を手に取った。
その時、店の裏口が開いた。
「サキちゃん!」
カリンだった。
黒い外套の裾を翻し、店内の惨状を一目で確認する。笑みはなかった。甘い声もない。
「遅かったか……」
サキは振り向かない。
「イツキが連れていかれた」
「見ればわかる。蜂型ドローン、六角転送陣、夢の館紋。M∴R∴だけじゃない。マダム・ヴィーが直接絡んでる」
「場所は」
「シンが追ってる。転送先は複数偽装されてるけど、近場のM∴R∴支部に中継した可能性が高い。サキちゃん、焦るのはわかる。でも単独で突っ込むのは――」
「行く」
サキの声は静かだった。
その静けさが、カリンの表情を変えた。
「止めても?」
「行く」
「イツキちゃんは、君が無茶して捕まるのを望んでないと思うよぉ」
「わかってる」
「わかってて行く?」
「うん」
サキは仮面を握りしめた。
真紅の縁が手のひらに食い込む。
「わたし、怖い。今も怖い。仮面を被るのも、ロゼに飲まれるのも、M∴R∴に戻るのも、全部怖い」
カリンは黙って聞いていた。
「でも、イツキはもっと怖いはずだから」
サキは顔を上げた。
「わたしの名前を、ずっと守ってくれた。わたしが自分を嫌いになりそうな時、サキって呼んでくれた。今度は、わたしが呼ぶ番だから」
カリンは深く息を吐いた。
「……いい顔、しちゃうんだもんなぁ」
彼は端末を取り出し、シンへ通話を繋いだ。
「シン、支部の場所」
『まだ確定していない』
「一番可能性が高いところ」
『ホウジュ区北西、旧医療機器倉庫。表向きは閉鎖されたM∴R∴系の機材保管支部。現在、異常な電力反応と微弱な転送残滓がある』
「地図送って」
『送る。ただし、サキを一人で行かせるな』
「もう言った」
『君が止められないなら、誰が止める』
カリンはサキを見た。
サキはもう歩き出している。
「たぶん、イツキちゃん」
カリンは小さく言った。
『……笑えない冗談だ』
「ボクもそう思う」
通信を切り、カリンはサキの前に立った。
「サキちゃん」
「どいて」
「一つだけ。仮面は被らないで」
サキの指が仮面に触れる。
「でも、これがないと」
「今の仮面は敵に接続されてる。被った瞬間、君まで支部へ引っ張られるかもしれない。もしくは、ロゼを強制起動される」
サキは唇を噛んだ。
『被れ』
ロゼが囁いた。
『今度こそ代われ。あの子を取り返したいんだろ?』
サキの胸が揺れる。
ロゼの声は、誘惑ではなかった。
怒りだった。
サキと同じように、イツキを奪われたことに怒っている。
『あんたが怖がるなら、アタシが怒ってやる。あんたが泣くなら、アタシが壊してやる。あの蜂どもも、M∴R∴も、マダムのベールも、全部刻んでやる』
「……それで、イツキを傷つけたら?」
サキは小さく言った。
ロゼは黙った。
「イツキを取り返したい。でも、イツキを守るためにイツキを壊したくない」
『じゃあ、どうする』
「わからない」
サキは正直に答えた。
「でも、行く。怖いまま、行く」
仮面をバッグに入れる。
被らない。
まだ。
カリンは少しだけ頷いた。
「なら、ボクも行く」
「だめ」
「だめ?」
「これは、わたしが」
「そこから先は言わせないよぉ」
カリンの声が冷えた。
「イツキちゃんを巻き込みたくないって言って一人で抱えた結果、どうなった?」
サキの顔が歪む。
カリンは容赦しなかった。
「君は強い。でも、一人で全部抱えるほど強くはない。あと、ボクはもうM∴R∴案件として受けた。依頼人はまだいないけど、ボクが勝手に受けた。だからこれは、ボクの仕事でもある」
「カリン……」
「ただし、先に走るのは君。ボクは追う。君が仮面を被りそうになったら、殴ってでも止める」
サキは少しだけ笑った。
「殴るの?」
「蹴るかも」
「痛そう」
「美しく蹴るから大丈夫」
「大丈夫じゃない」
ほんの短い会話。
その間だけ、サキは呼吸ができた。
けれど次の瞬間には、またイツキの消えた床が目に入る。
サキはメモ帳のページを破り、胸ポケットに入れた。
蒼原サキ。
イツキ。
その名前を抱いて、サキは修理屋を飛び出した。
ホウジュ区の夕方は、いつものように騒がしかった。
けれど、サキには街の音が遠かった。
魔導広告も、車両灯も、人々の声も、すべて水の中から聞こえるみたいだった。
サキはビルの壁を蹴る。
ローズウィップを伸ばし、看板の支柱を掴み、屋上へ跳ぶ。カリンが少し遅れて外壁を駆け上がる。黒いドレスが夕陽を受け、薔薇の影のように舞った。
旧医療機器倉庫は、ホウジュ区北西の再開発予定地にあった。
低層ビル群の裏。
廃線跡の高架下。
表向きは何年も前に閉鎖された、灰色の倉庫。
だが、サキには見えた。
窓の奥で、蜂のような光が動いている。
屋上のアンテナに、真紅のベールとマスカレードマスクの紋章が一瞬だけ浮かぶ。
イツキが、あそこにいる。
そう思った瞬間、サキの身体が勝手に前へ出た。
カリンが叫ぶ。
「サキちゃん、待って!」
待てなかった。
サキはローズウィップを倉庫の外壁へ叩き込み、窓を破って内部へ飛び込んだ。
そこは、蜂の巣だった。
医療機器倉庫だったはずの広い空間は、六角形の魔導パネルで埋め尽くされていた。壁には培養槽。天井には蜂型ドローンの待機ユニット。床には赤い導線が網のように走り、中央には細い通路が奥へ続いている。
サキが着地した瞬間、ドローンが一斉に起動する。
『RZ-X01侵入。回収対象、優先度上昇』
蜂型ドローンが群れになって襲いかかる。
サキはローズウィップを振るった。
今度は店内ではない。
守る棚も、客の端末も、家族の工具もない。
ただし、奥にイツキがいる。
だから壊しすぎてはいけない。
施設を爆発させれば、イツキごと巻き込む。
サキはドローンの胴体ではなく、羽根と通信針を狙った。
ローズウィップが細く分かれ、蜂の翅だけを切る。機体は床へ落ち、爆発する前に茨が針を引き抜く。
殺すための薔薇ではなく、止めるための薔薇。
アラクネ戦で覚えた感覚を、必死に思い出す。
『甘い』
ロゼが言った。
『一機一機止めてる場合か』
「奥にイツキがいる」
『だからこそ速く壊せ』
「壊しすぎたら、イツキが」
『……ちっ』
ロゼは苛立っている。
だが、サキの判断を完全には否定しなかった。
サキは通路へ走る。
背後でカリンが追いつき、群れの一部を大鎌で薙ぎ払った。
「先走りすぎ!」
「ごめん!」
「謝るなら生きて帰ってから!」
カリンの鎌が天井の待機ユニットを斬る。
火花が散り、ドローンの補充が止まった。
サキは奥へ進む。
途中、壁面の投影装置が起動した。
真紅のベール。
ルージュだけが笑う女の顔。
『ようこそ、蒼薔薇』
サキの足が止まる。
マダム・ヴィーの声が、倉庫のスピーカーから響いた。
『いいえ、今日はローゼンマスクと呼ぶべきかしら。貴女、とてもよい顔をしているわ。恐怖と怒りと愛情が混ざって、実に美しい』
「イツキを返して」
『返す? 変な言い方ね。彼女は物ではないのでしょう? なら、彼女自身の可能性を伸ばしてあげているだけよ』
「ふざけないで」
『ふざけてなどいないわ。愛は素晴らしいものよ、サキ。名前を呼ぶ。手を握る。怖いと言う相手の隣に立つ。ああ、なんて美しい関係』
マダム・ヴィーの声が甘く濡れる。
『だからこそ、命令系統に組み込む価値がある』
サキの瞳が揺れた。
『貴女を止められるのは、あの子だけ。ならば、あの子を貴女の制御端末にすればいい。暴走すれば彼女が鎮める。逃げれば彼女が呼ぶ。逆らえば彼女の声で戻される。愛を首輪に変えるの。素敵でしょう?』
「素敵じゃない」
サキの声は震えていた。
怒りで。
「イツキは、わたしの首輪じゃない」
『では、何?』
「イツキは……」
言葉に詰まる。
友達。
相棒。
名前を呼んでくれる人。
隣にいてくれる人。
自分が自分でいるための声。
そのどれも正しくて、どれも足りない。
マダム・ヴィーが笑う。
『答えられないなら、わたくしが名前を与えてあげる。アピス。蜜蜂の少女。蒼薔薇を囲い、守り、導き、そして必要な時に刺すための美しい群れ』
「黙って」
サキのローズウィップが投影装置を貫いた。
映像が砕ける。
その奥で、扉が開いた。
六角形の光が漏れる。
サキは駆け出した。
だが、その瞬間、床の魔導陣が起動する。
赤い蔓のような制御信号がサキの脚へ絡みついた。
仮面がバッグの中で熱を持つ。
Return Order
Rosen Mask
Gloria Mode Standby
「っ……!」
サキの身体が膝から崩れる。
バッグの中の仮面が、勝手に浮かび上がった。
真紅の仮面が、サキの顔へ向かう。
カリンが叫んだ。
「サキちゃん、被るな!」
サキは手で仮面を押さえた。
しかし、仮面は熱い。
まるで自分から顔へ貼り付こうとしている。
『被れ』
ロゼが囁く。
『今度こそ代われ。あの子を取り返したいんだろ?』
「……取り返したい」
『なら被れ。アタシが走る。アタシが壊す。アタシがあの女のベールを引き裂いてやる』
「でも」
『まだ迷うのか!』
サキは仮面を握りしめた。
奥の扉の向こうから、微かな声が聞こえた気がした。
イツキ。
呼ばれたわけではない。
でも、サキにはそう聞こえた。
サキは仮面を見た。
これを被れば、速くなる。
強くなる。
イツキへ近づけるかもしれない。
でも、サキがサキでなくなったら。
イツキが呼ぶべき名前が、そこになくなったら。
サキは歯を食いしばった。
「まだ、被らない」
『サキ!』
「でも、力は貸して」
ロゼが黙る。
「お願い。イツキを助けたい。わたしでいたまま」
胸の奥で、ロゼが深く息を吐いた気がした。
『……面倒くさい女だな、あんたは』
「うん」
『腕だけだ。脚も少し貸す。意識は渡すな』
「うん」
サキの髪の先が、淡く紅に染まった。
完全なグローリア・モードではない。
仮面も被っていない。
だが、ローズウィップが赤い光を帯び、床の制御信号を内側から裂いた。
サキは立ち上がる。
カリンが目を見開く。
「……今の、制御した?」
「たぶん」
「上出来すぎて怖いねぇ」
「怖いよ」
サキは奥の扉を見据えた。
「でも、行く」
扉へ手を伸ばす。
その瞬間、施設全体に警報が鳴り響いた。
『アピス適合処理、第一段階完了。候補者意識、隔離室へ移送』
扉の向こうの光が消える。
サキは飛び込もうとした。
だが、部屋は空だった。
六角形の魔導陣だけが床に残っている。
イツキはいない。
さらに奥へ転送されたのだ。
サキは床に手をつき、震えた。
「イツキ……!」
その頃。
イツキは、ガラス室の中で目を覚ました。
寒くはなかった。
むしろ、ひどく一定した温度だった。
白い光。透明な壁。六角形の床。空気には甘い花の香りと、機械油に似た匂いが混じっている。
イツキは身体を起こそうとした。
動かない。
両腕が固定されていた。
椅子のような台に座らされ、手首と肩に細い拘束具がついている。痛みは少ない。けれど、逃がす気がない作りだった。
周囲には、蜂型ドローンが眠っていた。
成体ではない。
もっと小さく、透明な翅も未完成の、幼体のような機体。ガラス容器の中で、淡い金色の光を点滅させている。
蜂の巣。
イツキはそう思った。
自分は、その中央に置かれている。
「……最悪」
声が掠れた。
左腕に違和感がある。
見下ろすと、前腕の内側に小さな接続端子が取り付けられていた。針ではない。魔導回路と神経信号を読み取るための薄い金属片が、皮膚の上に貼り付いている。
アピス・ユニット試作接続端子。
壁の端末に、そう表示されていた。
イツキの胃が冷える。
完全に改造されたわけではない。
まだ、皮膚を切られてもいない。
けれど、これは始まりだ。
自分を蜂の群れにつなぐための、最初の針。
ガラスの向こうに、真紅のベールの映像が浮かぶ。
『目覚めたのね、蜜蜂の少女』
マダム・ヴィーの声。
イツキは奥歯を噛んだ。
「その呼び方、やめてください」
『あら、嫌い? アピス。とても可愛い名だと思うけれど』
「あたしの名前はイツキです」
『ええ、知っているわ。だからこそ、別の名を重ねる価値があるの』
マダム・ヴィーは笑う。
『貴女は蒼薔薇のそばに咲いた、よく働く蜜蜂。彼女の暴走を止め、彼女の孤独を慰め、彼女の名前を呼ぶ。なんて健気で、なんて美しい役割』
「役割じゃない」
イツキは睨んだ。
「サキの名前を呼ぶのは、あたしがそうしたいからです。あんたに役割とか言われる筋合いない」
『自由意志。いい響きね』
マダム・ヴィーの声が甘くなる。
『わたくしは、それを奪いたいのではないのよ。残したいの。貴女が自分で彼女を呼んでいると思いながら、その実、命令系統の一部として機能する。その矛盾が美しいの』
「趣味悪い」
『よく言われるわ』
ガラス室の端末が起動する。
イツキの腕の接続端子が熱を持った。
「っ……!」
視界の端に、蜂型ドローンの映像が流れ込む。
一機、二機、三機。
眠っている幼体のカメラアイが、イツキの神経へ接続されようとしている。
気持ち悪い。
自分の目ではない視界が混じる。
自分の手ではない羽音が聞こえる。
群れの中心へ意識を引っ張られる。
イツキは必死に呼吸を整えた。
「……ふざけんな」
小さく呟く。
手首は動かない。
肩も固定されている。
でも、指先はかろうじて動いた。
作業台。
いや、拘束台の横に、端末が一つある。
M∴R∴がイツキの神経反応を記録するための端末。
接続確認用の入力欄が開いている。
イツキは指を伸ばした。
届かない。
もう少し。
左腕の接続端子が熱くなる。
蜂の視界が増える。
頭の中に、アピス、アピス、アピスという識別音が流れ込む。
イツキは唇を噛んだ。
忘れない。
自分の名前。
サキの名前。
忘れそうなら、書けばいい。
声が出なくても、打てばいい。
指先が端末に触れた。
入力欄にカーソルが点滅する。
イツキは震える指で、一文字ずつ打った。
サ。
画面が乱れる。
接続端子が痛む。
それでも、次の文字。
キ。
端末画面に、二文字が表示された。
サキ。
イツキは荒い息を吐いた。
泣きそうだった。
怖かった。
身体が自分のものではなくなりそうだった。
でも、その二文字だけは、まだ自分で打てた。
「……サキ」
声にも出した。
ガラス室の周囲で、蜂型ドローンの幼体が一斉に小さく震えた。
まるで、その名前を覚えたように。
イツキは画面の文字を見つめた。
サキ。
その名前を、檻の中で握りしめる。
遠く、どこかで赤い薔薇が暴れる音がした。
イツキはもう一度、掠れた声で呼んだ。
「サキ」
返事はまだない。
それでも、呼んだ。
蜜蜂の檻の中で、イツキはサキの名前を離さなかった。




