第4話 黒薔薇と蜘蛛の糸
名前は、糸に似ている。
誰かと誰かを結ぶ。
過去と現在を結ぶ。
呼ぶ者と、返事をする者を結ぶ。
だから、糸を切られれば、人は迷う。
自分がどこから来て、誰に呼ばれ、何を守ろうとしていたのか、わからなくなる。
地下保管室は、もう倉庫ではなかった。
白い糸が天井を覆っている。
霜のついた配管から垂れ、冷却装置の隙間を縫い、氷棺の欠片を包み、古い端末の画面に蜘蛛の巣の模様を描いていた。床はまっすぐだったはずなのに、糸の結界に巻き込まれたせいで、遠近感が狂っている。入口の扉は見える。だが、歩いても歩いても近づかない。端末はすぐ横にあるのに、振り返るたびに別の棚の奥へ移動している。
空間が縫い直されていた。
アラクネは、その中心で微笑んでいた。
少女の上半身。蜘蛛の下半身。白い装甲に、黒薔薇の紋章。背中から伸びる糸は、まるで彼女自身の髪のように細く、長く、しなやかだった。
「記録を覗く子は、糸で縫ってあげないとね」
アラクネの声は甘い。
しかし、その甘さは人を安心させるものではなかった。冷たい毒を砂糖で包んだような声だった。
「縫えば、ほつれない。ほどけない。忘れない。……いいえ、忘れたままでいられる」
サキは腕を構えた。
右手首から、薔薇の茨が伸びている。
ローズウィップは彼女の感情に反応して、細く震えていた。恐怖で縮み、怒りで硬くなり、イツキの声でかろうじて形を保っている。
横にいるイツキは、ドローンの操作端末を握りしめていた。
カリンは一歩前に出て、大鎌を肩に担いでいる。黒いドレスの裾が、冷気と糸の魔導風に揺れていた。
「サキちゃん、イツキちゃん。糸には触らないほうがいいよぉ」
カリンの声は軽い。
だが、目は笑っていない。
「見た目は蜘蛛の糸だけど、たぶん記録干渉系。触ると、身体じゃなくて名前のほうを絡め取られる」
「名前のほう……?」
イツキが呟いた瞬間だった。
彼女の左手首に、細い糸が触れた。
ほんの一瞬。
髪の毛よりも細い白い糸が、イツキの手首を撫でるように通り過ぎただけ。
けれど、イツキの顔から血の気が引いた。
「……あれ」
手に持っていた端末が揺れる。
サキはすぐに気づいた。
「イツキ?」
イツキはサキを見た。
目は合っている。
でも、焦点が揺れている。
「えっと……」
イツキの唇が震えた。
「えっと、あたし……今、何を……」
「イツキ!」
サキは駆け寄ろうとした。
カリンが横から大鎌の柄を伸ばし、サキの進路を止める。
「待って。糸が増えてる」
床に、細い白糸が這っていた。
イツキの足元からサキの足元へ、まるで二人の間を縫い合わせるように伸びている。
アラクネがくすくす笑った。
「呼んであげれば? 大事な子の名前を。呼ばれた子は戻ってくるかもしれないわ」
サキは喉を鳴らした。
「イツキ、わたしを見て。蒼原サキ。わかる?」
イツキは眉を寄せた。
「サ……」
その一音で、サキの心臓が止まりそうになる。
「サ……き……?」
イツキの声が曖昧になる。
「ごめん。なんでだろ、わかるのに、言いにくい。サ……サ……」
サキの視界が白くなった。
イツキに名前を忘れられる。
それは、M∴R∴にローゼンマスクと呼ばれることよりも怖かった。
都市端末にRZ-X01と表示されることよりも、仮面に制御されることよりも、ずっと。
イツキだけは、自分をサキと呼んでくれた。
怪物でも、兵器でも、検体でもなく。
蒼原サキとして。
その声がなくなったら、自分は何で自分を保てばいいのかわからない。
「イツキ!」
ローズウィップが暴れかける。
棘が床を裂き、白い糸を何本も引きちぎった。
だが、切れた糸はすぐに繋がる。切断面からさらに細い糸が芽吹き、空間に新しい網を張った。
アラクネが笑う。
「だめ。名前は力任せに切れないの。切れば切るほど、ほつれた部分を縫ってあげないといけなくなる」
カリンが動いた。
大鎌が黒い弧を描く。
壁から天井へ、天井から床へ。カリンの身体は軽やかに跳び、黒いレースの裾を翻しながら、アラクネの糸をまとめて刈り取った。
刃が通った場所に、一瞬だけ空間の裂け目が見える。
倉庫本来の壁。錆びた棚。地下保管庫の扉。出口。
しかし次の瞬間、白い糸が雪のように降り、裂け目を縫い塞いだ。
「再生、早いねぇ」
カリンは着地し、口元だけで笑った。
「面倒な子」
「黒薔薇の香り。大鎌。あなた、カリンね」
アラクネが首を傾げる。
「知ってるわ。M∴R∴の記録にもあった。触れれば斬る子。笑いながら首を落とす子。きれいな子。……でも、あなたの名前も縫えるかしら」
「やってみる?」
カリンの目が細くなる。
大鎌が再び揺れた。
アラクネの糸が、四方からカリンを狙う。
カリンは正面から迎え撃った。鎌の刃で糸を斬り、柄で弾き、壁を蹴って宙へ跳ぶ。空中で身体を捻り、蜘蛛脚の一本へ刃を叩き込む。
甲高い音が響いた。
アラクネの脚に亀裂が走る。
しかし、白い糸が即座に傷を縫い、装甲を繋ぎ直す。
「再生じゃない。修繕か」
カリンが呟く。
「切った場所を、糸で縫い戻してる」
サキも動いた。
イツキを守らなければ。
ユウリの手がかりを守らなければ。
自分の名前を守らなければ。
ローズウィップが伸びる。
薔薇の棘が白糸の網を裂き、アラクネの胴体へ向かう。
アラクネは避けなかった。
白い糸が空間に映像を作った。
サキの目の前に、ガラス管が現れる。
青白い液体。
呼吸器。
白衣の人影。
サキの腕が止まった。
次に、手術台。
冷たい金属。
眩しいライト。
動かない身体。
手首から伸びる管。
皮膚の下を這う薔薇型ナノマシン。
誰かの声がした。
「美しいわ。恐怖が残っている。怒りも残っている。記憶も、名前も、まだ剥がしきっていない。だからこそ、作品になる」
真紅のベール。
艶やかなルージュ。
片脚のない女主人。
マダム・ヴィー。
「蒼原サキではなく、ローゼンマスク。いいえ、ただの兵器名では足りないわね。あなたは逃げる薔薇。怯える薔薇。誰かに呼ばれるほど美しく咲く薔薇」
サキの胃がひっくり返る。
「やめて……」
映像の中のマダム・ヴィーが、仮面を持ち上げる。
「さあ、名前を隠しましょう。素顔は夢の奥へ。あなたが誰だったかなんて、観客には必要ないもの」
真紅の仮面が、サキの顔へ近づく。
サキの呼吸が止まった。
ローズウィップが力を失い、床へ落ちる。
アラクネの糸がその茨に絡みついた。
薔薇の蔓が白く縫われていく。
「サキ!」
イツキの声が聞こえた。
でも、その声も揺れていた。
「サ……サキ、だよね。あたし、わかってる。わかってるのに、糸が、邪魔で……」
サキは動けない。
自分の名前が、イツキの口の中でほどけていく。
その恐怖が、マダム・ヴィーの記憶と重なって、身体を縛った。
『何やってる』
ロゼの声が響いた。
胸の奥。
Y核の暗がり。
もう一人のサキが苛立っている。
『代われ。アタシなら、こんな糸ごと全部燃やしてやる』
サキは答えられない。
『聞いてるのか、サキ。あの子まで忘れかけてるぞ。怒れ。壊せ。泣いてる場合じゃない』
「……怖い」
サキは小さく言った。
『は?』
「怖いの」
その言葉は、戦場で口にするにはあまりにも弱かった。
けれど、一度出したら止まらなかった。
「わたし、ずっと怖い。仮面も怖い。ロゼも怖い。M∴R∴も怖い。自分の腕から薔薇が出るのも、誰かを傷つけるのも、イツキに名前を忘れられるのも、全部怖い」
ロゼは黙った。
サキの周囲で、白い糸がさらに迫る。
カリンが大鎌で糸を斬りながら叫んだ。
「サキちゃん!」
サキは顔を上げる。
カリンは糸に片足を取られながらも、無理やり鎌で切り払った。黒いドレスの袖が裂れ、手袋に白い糸が絡んでいる。
それでも、カリンは笑っていた。
「怖いなら怖いでいいよぉ」
その声は、冗談のようで、ひどく真面目だった。
「怖くないふりして戦うと、あとで壊れるから」
サキは息を呑んだ。
「怖いって言ったまま戦ちな。怖いから守りたい。怖いから止めたい。怖いから、殺さずに済む方法を探す。そういう戦い方もあるよ」
「殺さずに……?」
「君の鞭、命令核を抜けるんでしょ。だったら、全部壊す必要はない」
カリンはアラクネを見据えた。
「ただし、核を見つけなきゃいけない。焦って本体を刻めば、糸ごと記録が崩れる。ここにあるユウリくんの手がかりも、一緒に消えるかもしれない」
サキの心臓が強く鳴った。
ユウリ。
弟の名前。
サキは拳を握る。
『甘いな』
ロゼが低く言った。
『その甘さで死んだらどうする』
「死なない」
『根拠は?』
「イツキがいる。カリンがいる。……ロゼもいる」
ロゼが黙った。
サキは胸の奥へ向けて言った。
「代わらない。でも、逃げない。怖いまま、わたしが戦う」
『……勝手にしろ』
ロゼの声は不機嫌だった。
けれど、遠ざかりはしなかった。
『腕の力だけ貸してやる。失敗したら、次はアタシが出る』
「うん」
サキは立ち上がった。
ローズウィップが再び動く。
さっきより細く、鋭く。怒り任せに暴れるのではなく、糸の流れを読むように床を這った。
サキはイツキを見る。
イツキは額に汗を浮かべ、白い糸が絡んだ左手を押さえていた。
それでも、彼女は端末を開いていた。
端末の画面には、何度も同じ文字が打ち込まれている。
蒼原サキ。
蒼原サキ。
蒼原サキ。
蒼原サキ。
画面だけではない。
イツキは、ポケットから出した小さなメモ帳にも、その名前を書き続けていた。
手が震えて文字が歪んでいる。ところどころ「蒼」の字が崩れ、「サキ」が「サ□」になりかけている。それでも、何度も何度も上から書き直している。
「イツキ……」
イツキは顔を上げた。
目の焦点はまだ少し揺れている。
でも、口元には無理やり笑みを作っていた。
「忘れそうなら、何度でも書けばいい」
サキの胸が熱くなる。
「忘れないって言いたかったけど、糸が邪魔するから。だから、書く。消されても、また書く。サキがサキだって、あたしが覚え直す」
イツキは端末を操作した。
「アラクネの糸、全部同じじゃない。空間を縫ってる糸、記録を縫ってる糸、再生に使ってる糸がある。命令核につながってるのは、たぶん一番細い黒い糸。白糸の中に混ざってる。肉眼だと見えないけど、ドローンの魔導反射なら拾える」
小型ドローンが二機、白い糸の隙間を飛んだ。
一機はすぐに糸に絡め取られ、動きを止める。
もう一機が、かろうじてアラクネの背後へ回り込んだ。
イツキの端末に、ゆがんだ立体映像が浮かぶ。
白い糸の海。
その中に、一本だけ黒い糸があった。
アラクネの背中から伸び、天井を通り、古い検体リストの端末へ絡み、さらに彼女自身の胸部奥へ戻っている。
「見つけた」
イツキが言った。
「サキ、胸の少し左。白い装甲の下。黒薔薇の紋章じゃなくて、その奥」
アラクネの笑みが消えた。
「見ないで」
白い糸が一斉にイツキへ向かった。
サキが動いた。
ローズウィップが横に伸び、イツキへ向かう糸を弾く。
切るのではなく、絡め取って逸らす。カリンの鎌がその隙を突き、上から降る糸をまとめて刈った。
「いいよぉ、サキちゃん!」
カリンが笑う。
「今の、殺す動きじゃなかった」
サキは答える余裕がない。
アラクネが脚を広げる。
白い糸が刃になり、針になり、網になって襲いかかる。
サキはローズウィップを三本に分けた。
一本で糸を受ける。
一本で床を掴み、身体を引く。
一本でアラクネの脚を絡める。
力任せに斬れば、糸は増える。
なら、引く。逸らす。縫い目をほどく。
怖い。
まだ怖い。
けれど、怖いまま身体が動く。
イツキの声が飛ぶ。
「右、上から来る!」
サキは身を低くする。
白い糸の束が頭上を掠め、壁に突き刺さる。
「次、足元!」
ローズウィップが床を叩き、糸を浮かせる。
カリンがそこへ大鎌を入れ、糸の流れを断つ。
「黒い糸、動いた! 胸の奥、三秒だけ見える!」
「わかった!」
サキは踏み込んだ。
アラクネの顔が歪む。
「来ないで」
その声は初めて、怯えていた。
「来ないで。縫わないと、ほどける。ほどけたら、私が何だったか、わからなくなる」
サキの足が一瞬止まる。
アラクネは敵だ。
サキたちを襲い、イツキの記憶を奪おうとした。
でも、その声は怪物のものではなかった。
名前を奪われた誰かの声だった。
アラクネが叫ぶ。
「縫って。縫って。縫って。忘れたところを縫って。私の名前を、誰か――」
黒い糸が、アラクネの胸で脈打った。
命令核が、彼女の言葉を遮るように赤黒く光る。
アラクネの表情が消えた。
「対象排除。記録閲覧者を縫合。RZ-X01再拘束」
サキの目が細くなる。
「それは、あなたの声じゃない」
ローズウィップが伸びた。
棘はアラクネの身体を裂かなかった。
装甲の隙間へ入り込み、黒い糸を掴み、その奥に埋まる命令核へ届く。
アラクネの糸がサキの腕に絡む。
痛みが走る。
自分の名前が一瞬、遠くなる。
蒼原――。
サキは歯を食いしばった。
「イツキ!」
自分で呼んだ。
イツキが即座に答える。
「サキ!」
その名前が、糸の中で光った。
サキは叫んだ。
「わたしは、蒼原サキ!」
ローズウィップが命令核を貫いた。
刺すのではなく、掴む。
掴んで、引き抜く。
黒い結晶体が、アラクネの胸から抜け出した。
同時に、白い糸が一斉に緩んだ。
天井を覆っていた網がほどけ、壁に張りついていた糸が乾いた霜のように崩れ落ちる。歪んでいた空間が元へ戻り、倉庫本来の壁と扉と端末が姿を現す。
アラクネの身体が沈んだ。
蜘蛛脚が折れ、少女の上半身が床へ崩れ落ちる。
白い装甲に走っていた黒薔薇の紋章が、薄れていく。
カリンは大鎌を下ろした。
イツキは糸から解放された手首を押さえ、息をついた。
「サキ……」
今度は、はっきり呼べた。
サキは振り向く。
「イツキ」
「覚えてる」
イツキは少し泣きそうな顔で笑った。
「サキ。蒼原サキ。ちゃんと覚えてる」
サキは頷いた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
けれど、安堵は長く続かなかった。
床に倒れたアラクネが、小さく息をした。
まだ、生きている。
いや、消えかけている。
サキは近づいた。
カリンが止めなかった。
イツキも止めなかった。
アラクネの瞳は、もう命令核の赤黒い光を宿していなかった。
かわりに、ひどく迷子のような色をしていた。
「……止まったの?」
アラクネが呟いた。
サキは膝をつく。
「命令核は、抜いた」
「そう」
アラクネは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「静か。頭の中、静かね。糸が、もう縫えって言わない」
白い糸が、彼女の身体から少しずつほどけていく。
それは崩壊だった。
M∴R∴の命令核で無理やり維持されていた身体が、支えを失って壊れていく。
サキは何かできないかと周囲を見る。
でも、何もできない。
治療ではない。
修理でもない。
命令を抜いた時点で、アラクネの身体はもう保てない。
アラクネはサキを見た。
「蒼原サキ」
サキは息を呑む。
「あなた、名前、あるのね」
「……うん」
「いいわね」
それは羨望だった。
憎しみではなく。
ただ、眩しいものを見るような声だった。
アラクネの指が、床の霜を引っ掻く。
「私の名前、何だった?」
サキは言葉を失った。
アラクネはサキを見る。
答えを待つ子どものように。
「ねえ。私、何て呼ばれてたの? アラクネじゃなくて。検体番号じゃなくて。蜘蛛じゃなくて。M∴R∴に縫われる前の……私の名前」
サキは答えられなかった。
知らない。
カリンも口を開かなかった。
彼女の顔から、いつもの軽い笑みが消えている。
イツキは端末を必死に操作した。
「待って。ログに、もしかしたら……」
画面には、破損した検体リストが表示される。
アラクネに関する項目は、ほとんどが黒塗りだった。
型式、用途、糸制御適性、記録縫合成功。
名前欄はない。
いや、あったのかもしれない。
でも、もうない。
イツキの手が止まった。
「……ごめん」
アラクネは少しだけ瞬きをした。
「そう」
それだけ言った。
責めなかった。
怒らなかった。
ただ、少し寂しそうに笑った。
「じゃあ、私は……最後まで蜘蛛なのね」
「違う」
サキは反射的に言った。
でも、続きが出てこない。
違うと言いたい。
でも、彼女の本当の名前を知らない。
アラクネではないとわかっているのに、では何なのかを言えない。
それが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
アラクネの身体が、白い糸になってほどけていく。
「蒼原サキ」
「なに……?」
「名前、守りなさいね」
サキの喉が詰まった。
「あなたの名前も、その子の名前も。忘れそうなら、縫うんじゃなくて、呼んであげて」
アラクネの視線がイツキへ向く。
「書いてもいいわ。何度でも」
イツキは端末を握りしめたまま、頷いた。
アラクネは最後に、天井を見上げた。
「私も、誰かに呼ばれたかったな」
白い糸が、ふわりと舞った。
アラクネの身体は、音もなく崩れた。
残ったのは、砕けた白い装甲片と、命令核の抜け殻だけだった。
地下保管室に、静寂が戻る。
冷却装置の音。
水滴の落ちる音。
遠くで軋む倉庫の鉄骨。
サキは、その場に膝をついたまま動けなかった。
倒した。
アラクネを止めた。
イツキの名前も、自分の名前も守れた。
ユウリの手がかりも残った。
なのに、胸が少しも軽くならない。
サキの目から涙が落ちた。
イツキがそっと近づく。
「サキ」
「……わたし、勝ったのに」
サキは震える声で言った。
「命令核、抜けたのに。殺さないで止められたのに」
「うん」
「でも、名前、救えなかった」
涙が止まらなかった。
敵を倒したことではなく、名前を救えなかったことが、こんなに痛い。
アラクネは、怪物だった。
でも、誰かだった。
名前を持っていたはずの誰かだった。
それを、誰も呼べない。
サキは両手で顔を覆った。
「わたしも、ああなってたかもしれない。イツキが呼んでくれなかったら。ロゼに全部渡してたら。仮面に負けてたら……わたしも、最後に自分の名前を誰かに訊く側だったかもしれない」
イツキはしゃがみ込んだ。
「手、触っていい?」
サキは泣きながら頷いた。
イツキはサキの手を握った。
今度は、強く。
でも痛くない強さで。
「蒼原サキ」
イツキが呼んだ。
サキは肩を震わせる。
「蒼原サキ。サキ。あたし、覚えてる。何度でも呼ぶ。サキが怖くなっても、忘れそうになっても、怪物みたいな身体だって言っても、呼ぶ」
「……イツキ」
「あたしの名前も呼んで」
サキは涙で濡れた顔を上げた。
イツキは泣きそうな顔で笑っている。
「サキだけじゃなくて、あたしも守られる側だけじゃ嫌だから。サキがあたしの名前も呼んで。そしたら、たぶん二人とも戻ってこられる」
サキは息を吸った。
「イツキ」
「うん」
「イツキ」
「うん」
「……ありがとう」
イツキは少しだけ困ったように笑った。
「そこは、ただいまでもよかったよ」
サキは泣きながら、小さく笑った。
「まだ、帰る場所がわからない」
「じゃあ、探そう」
イツキは言った。
「ユウリくんも。サキの帰る場所も。あたしの隣が候補に入ってると嬉しいけど」
サキの頬が、涙とは別の熱を持った。
返事はまだできなかった。
でも、手は離さなかった。
カリンは少し離れた場所で、命令核の抜け殻を回収していた。
その横顔は、いつもより静かだった。
「……M∴R∴」
カリンが呟く。
甘い声から、温度が消えていた。
「名前を奪って、糸で縫って、怪物にする。相変わらず、趣味が悪いねぇ」
彼女は端末を取り出し、シンへ短いメッセージを送る。
――アラクネ停止。命令核回収。
――検体名、消去済み。
――ユウリらしき第二検体の痕跡あり。
――M∴R∴の関与、確定。
送信。
カリンは振り返った。
「二人とも、泣くのはあとでもできるよぉ。ここ、まだ安全じゃない」
イツキは涙を拭い、頷いた。
「データ、持ち出します」
「お願い。サキちゃんは?」
サキは立ち上がった。
目は赤い。
身体は疲れている。
でも、さっきまでとは違う。
怖さは消えていない。
ただ、その怖さを隠すのをやめただけだった。
「持って帰る」
サキは言った。
「ユウリの手がかりも、アラクネの命令核も。名前を奪った証拠も」
カリンは微笑んだ。
「いい顔になったねぇ」
「怖いままだよ」
「うん。そのほうがいい」
サキはローズウィップを伸ばし、壊れた端末の周囲に残る白い糸を慎重にほどいた。
切るのではなく、ほどく。
イツキがデータを吸い出す間、サキは糸が再び絡まないよう、茨でそっと押さえていた。
殺すための薔薇ではなく。
奪われたものを取り戻すための薔薇。
それがまだ小さな変化だとしても、サキには確かに感じられた。
地下保管室を出る直前、サキは振り返った。
アラクネが消えた場所には、白い糸が一本だけ残っていた。
サキはそれを拾わなかった。
踏みつけもしなかった。
ただ、小さく頭を下げた。
「ごめん。あなたの名前、見つけられなくて」
イツキが隣に立つ。
「でも、忘れない」
サキは頷いた。
「アラクネじゃない誰かが、ここにいたこと」
白い糸が、冷気の中で静かにほどけた。
倉庫の外へ出ると、夕方の光がコンテナの列を赤く染めていた。
死都東京から運び出された氷棺の欠片。
消された弟の名前。
名前を失った蜘蛛の少女。
そして、M∴R∴。
サキは、もう戻れない場所まで踏み込んでしまったのだとわかっていた。
でも、手の中にはイツキの温もりがあった。
それだけは、まだ奪われていない。
サキはその手を握り返す。
イツキが振り向く。
「サキ?」
「名前、呼んで」
イツキは少し驚いて、それから笑った。
「サキ」
「うん」
「蒼原サキ」
「うん」
「帰ろう、サキ」
サキは夕暮れの倉庫街を見つめた。
帰る場所がどこなのか、まだわからない。
でも、今はその声のするほうへ歩けばいい。
「うん。帰ろう、イツキ」
三人の背後で、廃倉庫の地下保管室が静かに沈黙する。
その奥に残された黒薔薇の紋章が、一度だけ赤く瞬いた。
M∴R∴は、もう次の糸を張り始めていた。




