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第3話 氷棺の少女

 夏の匂いがした。


 焼けたアスファルト。

 駅前ロータリーに停まるバスの排気。

 コンビニの自動ドアから漏れる冷房。

 信号待ちの人々が手にした紙コップのアイスコーヒー。

 遠くで鳴る蝉の声。


 東京は、まだ死んでいなかった。


 駅前の大型ビジョンには、天気予報が映っていた。

 最高気温三十四度。午後から局地的な雷雨の可能性。熱中症に注意。ありふれた夏の警告。誰も本気で空を見上げてはいなかった。


 蒼原サキは、弟の手を握っていた。


 弟――ユウリは、まだ小さかった。

 サキより頭ひとつ分低く、歩くたびにリュックが背中で揺れる。細い手は汗ばんでいて、何度も握り直さなければするりと抜けそうだった。


「お姉ちゃん、アイス買っていい?」


「さっきジュース飲んだでしょ」


「アイスは別」


「お母さんに怒られるよ」


「お姉ちゃんが怒られるんじゃなくて?」


「ユウリも一緒に怒られるの」


 ユウリは不満そうに頬を膨らませた。

 その顔がおかしくて、サキは笑った。


 あの頃の自分は、たぶん普通の姉だった。


 弟がうるさいと少し面倒で、でも手を離すのは怖くて、家に帰ったら宿題をしなきゃいけないのが嫌で、夏休みの予定表に空白があるだけで世界がどこまでも続いているような気がしていた。


 駅前のビルのガラスに、青空が映っていた。


 雲は白い。

 空は高い。

 人は多い。

 東京は、当たり前みたいに生きている。


 その空が、割れた。


 最初は音がなかった。


 ただ、空の真ん中に黒い線が走った。

 ガラスにひびが入るように。

 青の向こう側から、別の色が滲み出すように。


 誰かが足を止める。

 誰かがスマートフォンを向ける。

 大型ビジョンの天気予報が乱れ、画面が白く飛んだ。


「お姉ちゃん?」


 ユウリがサキの手を強く握った。


 サキは答えようとした。


 だが、声が出る前に、光が落ちてきた。


 それは雷ではなかった。

 火でもなかった。

 音のない白い柱が、駅前ビルのひとつを貫いた。


 次の瞬間、世界が叫んだ。


 窓ガラスが一斉に割れ、信号機が火花を散らし、道路の車が横倒しになる。人々の悲鳴が遅れて押し寄せ、誰かの荷物が宙を舞った。サキの耳は痛みで塞がれ、何が起きたのかわからないまま、弟の手だけを握りしめていた。


 黒い雪が降ってきた。


 真夏なのに、雪だった。


 ただし、それは冷たいだけの雪ではない。

 空の裂け目からこぼれ落ちる黒い灰のような結晶。地面に触れた瞬間、影を伸ばし、壁を凍らせ、人の足元から色を奪っていく。


 逃げなければ。


 誰かが叫んだ。


 死都化警報。

 結界異常。

 門が開いた。

 ワルキューレ。

 タルタロス。


 意味のわからない言葉が、壊れたスピーカーから途切れ途切れに流れる。


 サキはユウリの手を引いた。


「走って!」


「お姉ちゃん、こわい」


「大丈夫。大丈夫だから」


 大丈夫ではなかった。


 駅前のビルの影が伸びていた。

 人の影も、街路樹の影も、車の影も、太陽の位置とは無関係に長く長く伸びていく。影は地面から剥がれ、誰かの足に絡み、壁に這い上がり、黒い雪と混じって凍っていく。


 足元が白くなる。


 サキはユウリを抱き寄せた。


 寒い。

 さっきまで夏だったのに、息が白い。

 手足の感覚が消えていく。


 ユウリが泣いている。


「お姉ちゃん」


「ここにいる」


「手、離さないで」


「離さない」


 サキは弟の手を両手で包んだ。


 黒い雪が肩に積もる。

 頬に触れる。

 髪に絡む。


 世界の音が遠くなっていく。


 ユウリの泣き声も、駅前の悲鳴も、割れた空も、何もかもが氷の向こう側へ沈んでいく。


 最後に見えたのは、弟の顔だった。


 怖がっている顔。

 泣いている顔。

 それでも、サキの手だけは離さなかった顔。


 だからサキも、離さなかった。


 離さなかったはずだった。


 次に目覚めた時、そこはガラス管の中だった。


 青白い液体。

 口元を覆う呼吸器。

 身体に刺さる無数のチューブ。

 ぼやけた視界の向こうで、白衣の人影が動いている。


 弟の手は、どこにもなかった。


 サキは叫ぼうとした。


 液体が喉へ入り、声にならなかった。


 誰かがガラスの向こうで言った。


「RZ-X01、覚醒反応」


 違う。

 その名前じゃない。


 サキはガラスを叩こうとした。

 腕は動かなかった。


「ローゼンマスク候補体、意識確認」


 違う。


 わたしは。


 蒼原サキ。


 弟は。


 ユウリは。


 ユウリはどこ。


 声は液体の中で泡になり、消えた。


 サキは目を覚ました。


 天井は、修理屋の二階の低い天井だった。


 白い蛍光灯。

 古いエアコンの唸る音。

 カーテン越しの朝の光。

 棚に並んだ工具箱と、予備の毛布。

 昨夜、イツキが「ここなら誰も来ないから」と貸してくれた小さな部屋。


 夢ではない。


 いや、夢だった。

 けれど、ただの夢ではなかった。


 サキは布団の中で身体を丸めた。

 右手が空を掴んでいる。そこには誰の手もない。


「ユウリ……」


 声に出した瞬間、胸が痛んだ。


 痛みは、記憶の奥から来る。

 氷の中で凍ったまま、ずっと溶けていなかった名前が、ようやく表面に浮かんできたみたいだった。


 扉の向こうで足音がした。


「サキ、起きてる?」


 イツキの声。


 サキは慌てて顔を拭った。

 泣いていたことに、そこで気づく。


「起きてる」


 声が少し掠れた。


 扉が少しだけ開く。


「入っていい?」


「……うん」


 イツキは盆を持って入ってきた。

 湯気の立つ味噌汁、焼いたパン、卵焼き、昨日買った冷却ジェルの箱を端に寄せて作った即席の朝食。和洋が雑に混ざっているのは、たぶんイツキらしさだった。


「うち、朝ごはん適当なんだけど」


「おいしそう」


「お世辞?」


「本当に」


「じゃあ成功」


 イツキは笑った。

 だが、サキの顔を見ると、すぐにその笑みを静かに畳んだ。


「夢、見た?」


 サキは布団の端を握った。


「……うん」


 イツキは盆を小さな机に置き、少し離れた場所に座った。


 近づきすぎない。

 でも、出ていかない。


 その距離の取り方が、サキにはありがたかった。


「話したくなかったら、話さなくていいよ」


「……話したい」


 サキ自身、その言葉に驚いた。


 けれど、言ったあとでわかった。

 話したかったのだ。


 話さなければ、あの日の東京はまた氷の中へ戻ってしまう。

 ユウリの手が、自分の手の中にあったことまで、誰にも知られないまま消えてしまう。


「イツキ」


「うん」


「わたし、たぶん……今の人間じゃない」


 イツキは瞬きをした。

 驚いた顔ではあったが、怖がった顔ではなかった。


 サキは続けた。


「数十年前の東京にいた。まだ、死都東京になる前。トキオ聖戦の日に、駅前で弟と一緒にいて……空が割れて、黒い雪が降って、街が凍って」


 言葉にすると、夢が現実に近づいてくる。


 サキの指先が震えた。


「弟の手、握ってた。絶対離さないって言った。でも、次に目が覚めたら、ガラス管の中だった。M∴R∴の研究所。身体に管が刺さってて、知らない人たちがわたしを実験番号で呼んでて……弟はいなかった」


 イツキは静かに聞いていた。


 いつものように茶化さない。

 冗談で空気を軽くしない。

 ただ、サキの言葉が途切れても、急かさずに待っている。


「研究所から逃げた時、資料を少しだけ見たの。死都東京外縁部から発掘された氷棺。中にいた少女。薔薇因子適合。RZ-X01。そう書いてあった」


 サキは息を吸う。


「でも、ユウリのことは、どこにもなかった」


「ユウリって、弟さん?」


「うん。蒼原ユウリ。わたしの弟」


 口にするだけで、胸が苦しくなる。

 でも同時に、名前が少しだけはっきりする。


「生きてるかどうか、わからない。死んだのかもしれない。氷の中で砕けたのかもしれない。M∴R∴に……何かされたのかもしれない。でも、わたしは……」


 サキは声を詰まらせた。


「わたしだけ逃げたのかもしれない」


 それが一番怖かった。


 弟の手を離した記憶はない。

 でも今、ユウリはいない。

 サキだけが生きている。怪物の身体になって、仮面を持って、逃げている。


 弟は、どこにいる。


 もし死んでいるなら。

 もしまだガラス管の中にいるなら。

 もしサキを呼んでいたのに、サキだけが逃げたのなら。


 サキは膝を抱えた。


「イツキに、こんな話しても困るよね」


「困る」


 イツキは言った。


 サキの胸が小さく沈む。


 でも、イツキは続けた。


「困るけど、聞く。困るから聞かないっていう話じゃないでしょ」


 サキは顔を上げた。


 イツキは真面目な顔をしていた。


「じゃあ、探そう。サキの弟」


 あまりにも自然に言われて、サキは言葉を失った。


「……え?」


「探そう。ユウリくん。死んだって決まってないんでしょ。記録がないなら、記録を探す。消されてるなら、消された跡を探す。M∴R∴が関わってるなら、あの黒薔薇連中の尻尾を掴む」


 イツキは指折り数えながら言った。


「まずカリンさんに連絡。そこからシンさんっていう情報屋さん。あと、氷棺の発掘業者とか、死都回収ルートとか、帝都大学の資料とか……あたし一人じゃ無理だけど、手がかりゼロじゃない」


「待って」


 サキは慌てた。


「イツキがそこまでしなくていい」


「する」


「危ないよ」


「知ってる」


「M∴R∴に見つかるかもしれない」


「もう見つかってる」


「わたしの弟だよ。イツキには関係ない」


 言った瞬間、サキはしまったと思った。


 イツキの表情が、少しだけ強張ったからだ。


 怒ったのではない。

 傷ついた顔だった。


 その顔を見たサキの胸が痛む。


「……ごめん」


「うん。今のはちょっと傷ついた」


 イツキは正直に言った。


 サキは俯く。


「ごめん」


「でも、言いたいことはわかる。あたしを巻き込みたくないんでしょ」


「うん」


「じゃあ、あたしも言う」


 イツキはサキの正面に座り直した。


「サキが誰かを探したいなら、あたしは隣にいる。サキが一人で行くって言っても、たぶん勝手についていく。迷惑なら迷惑って言っていいけど、それでも考える時間はもらう」


「どうして」


 サキは小さく訊いた。


「どうして、そこまで……」


 イツキは少し困ったように笑った。


「前にも言ったじゃん。サキがサキだから」


「それ、答えになってない」


「なってるよ」


 イツキは机の上の卵焼きを箸でつついた。


「サキが自分の名前を守ってる理由が、弟さんに見つけてもらうためだったならさ。あたし、その理由ごと守りたい」


 サキは息を止めた。


「名前って、その人だけのものじゃないんだね」


 イツキは言った。


「誰かが呼んだ記憶とか、探すための目印とか、帰る場所とか、そういうのもくっついてる。だから、蒼原サキって名前を守るなら、ユウリくんのことも一緒に守らなきゃいけない気がする」


 サキの視界が滲んだ。


 泣きたくないのに、泣きそうだった。


 イツキは少し慌てる。


「あ、なんか偉そうなこと言った?」


「違う」


「じゃあ、泣く?」


「泣かない」


「泣いてもいいよ」


「……泣かない」


「じゃあ、ごはん食べる?」


 サキは少しだけ笑った。


「それは、食べる」


「よし」


 イツキは箸を渡した。


 サキは受け取ろうとして、少し躊躇した。

 イツキの指が近かったから。


 イツキはすぐ気づく。


「手、触っていい?」


 サキは頷いた。


 ほんの一瞬だけ、指先が触れた。


 朝の光の中で、サキは小さく息を吐いた。


 怖さはまだ消えない。

 でも、触れたあとに何も壊れなかったという事実が、少しずつサキの中に積もっていく。


 壊れる記憶だけではなく。

 壊れなかった記憶も。


 その日の午後、シンから連絡が入った。


 場所はイツキの修理屋の奥。

 作業台の上には、いつもの壊れた端末ではなく、カリンが持ち込んだ暗号化通信端末が置かれていた。


 カリンは昼間だというのに黒いレースの手袋をつけ、店の丸椅子に優雅に腰かけている。店の雰囲気から完全に浮いていたが、本人は気にしていない。


「やっほ、サキちゃん、イツキちゃん。朝ごはん食べた?」


「食べましたけど、カリンさん、なんで普通に裏口から入ってくるんですか」


 イツキが警戒心を隠さずに言う。


「表から入ると、ご近所さんがボクに見惚れて騒ぎになるから」


「自信がすごい」


「事実だからねぇ」


 カリンはにこにこと笑う。


 サキは少し緊張していた。

 昨日の路地で助けられたとはいえ、まだ完全には信用していない。カリンの薔薇の香りは、甘いのに底が見えない。


 ただ、敵ではない。

 少なくとも今は。


 カリンは端末を軽く叩いた。


「シン、つないで」


 画面が開く。


 そこに映ったのは、薄暗い部屋だった。

 壁一面のモニター、積み上がったデータチップ、浮遊する小型投影窓。中央に座る青年は、姿勢よく椅子に座っているのに、どこかひどく疲れて見えた。


『こちらは情報屋であって、便利屋ではない』


「便利屋みたいなこと頼んでごめんねぇ」


『謝意が軽い』


「でも調べてくれたでしょ」


『調べた。僕は好奇心に弱い』


 シンは画面越しにサキを見た。


 その視線は失礼ではないが、細かい。

 カリンのように美しさや危険を見ているのではなく、情報の欠落を見る目だった。


『蒼原サキ。旧東京災害保留記録に名前が残っている。ただし、現行市民登録には接続されていない。死亡者名簿にもない。死都化初期の混乱で失われた記録の一つとして処理されている』


 サキは息を呑んだ。


 自分の名前が、記録の中にあった。


 それだけで、胸が痛いほど熱くなる。


『問題は、そこから先だ』


 シンが画面を切り替える。


 古い発掘記録の写しが映った。

 文字の一部は劣化し、ところどころ黒く潰れている。写真もある。白い防護服の作業員。結界壁の外縁に近い荒野。割れたコンクリート。凍りついた駅の案内板らしきもの。


 そして、氷の塊。


 人が入れるほど大きな、青白い氷棺。


 サキの喉が鳴った。


 知っている。

 見たことはないはずなのに、身体が覚えている。


『死都東京外縁部、第七凍結層から回収された氷棺。回収業者は表向き、女帝政府委託の環境浄化企業。だが実際には、複数の下請けを経由して死都由来遺物を横流ししていた。その流れの先にM∴R∴がいる』


「氷棺の中にいたのは?」


 イツキが訊いた。


 シンは少し間を置いた。


『公式記録上は、一名。十代前半から半ばの少女。旧東京系市民、蒼原サキと推定』


 サキは机の端を掴んだ。


「一名……?」


 声が震えた。


「そんなはずない。わたし、ユウリと一緒にいた。手を握ってた。絶対に、ひとりじゃなかった」


『その可能性は高い』


 シンは即座に言った。


 サキは顔を上げる。


『記録が不自然だ。氷棺の容積、凍結層の形状、搬出時の重量、解凍槽への移送データ。どれも一名分としては過剰だ。だが、添付名簿には一名しかない』


 画面に、名簿らしきものが映る。


 そこには、確かにサキの名前があった。


 蒼原サキ。


 その下に、黒く塗り潰された欄がある。


 ただの黒塗りではない。

 文字の上から塗ったのではなく、そこにあった名前そのものが焦げ落ちたような、奇妙な空白。


 サキの頭がずきりと痛んだ。


「ユウリ……?」


 名前を呼ぼうとした瞬間、視界が揺れる。


 黒い雪。

 弟の手。

 氷。

 ガラス管。

 名前を呼ぶ声。


 しかし、ユウリの顔の輪郭が一瞬だけぼやけた。


 サキは息を詰める。


 忘れていない。

 忘れていないはずなのに。


 なぜか、弟の名前を思い出すたび、何かが頭の中で軋む。


 イツキがサキの背中に触れかけて、止めた。


「サキ、触っていい?」


 サキは声を出せずに頷いた。


 イツキの手が背中に触れる。

 その温かさで、サキは少しだけ現実へ戻った。


 シンが淡々と言う。


『名前を消す技術が使われている』


 カリンの表情が変わった。


「夢の館系?」


『近い。だが、より乱暴で、軍事的だ。単に名簿を改竄しただけではない。記録媒体、都市端末、回収業者の記憶補助ログ、複数の経路から同時に同じ名前が抜かれている。これは個人情報の削除ではなく、存在証明の切断に近い』


 サキは画面を見つめる。


「じゃあ、ユウリは……死んだんじゃないの?」


『断言はできない』


 シンは言った。


『だが、死者なら死亡記録を作ればいい。事故死、搬送中死亡、検体破損。帝都の下請け企業はそういう記録を作るのが得意だ。わざわざ名前そのものを消す理由は薄い』


「じゃあ、どうして」


『記録から外したかったからだ』


 シンの声が低くなる。


『死んだんじゃない。記録から外された。誰かが、彼を別の場所へ移した』


 サキは椅子に座っていなければ崩れていたかもしれない。


 生きている。


 そう言われたわけではない。

 でも、死んだと決まったわけではない。


 それだけで、息が苦しくなった。


 イツキがサキの背中をゆっくり撫でる。


「探せる」


 イツキが言った。


「ね、サキ。探せるよ」


「でも、どこを……」


『回収業者の旧倉庫が残っている』


 シンが言った。


 画面に地図が出る。

 ホウジュ区から少し離れたミナト区寄りの倉庫街。海風と排熱と錆の匂いが混じる場所。古い死都回収業者が使っていた保管倉庫。


『表向きは廃業済み。だが、倉庫の地下保管庫だけは今も電力を食っている。氷棺の欠片、搬送時の副資料、売却前の検体タグが残っている可能性がある』


 カリンが立ち上がった。


「じゃあ、行こうか」


「今からですか?」


 イツキが訊く。


「今から。情報は腐ると臭いからねぇ」


 カリンは笑う。


 サキは不安げにイツキを見た。


「イツキは、店に……」


「行く」


「危ない」


「知ってる」


「倉庫だよ。死都回収業者の。M∴R∴に関係あるかもしれない」


「だから行く」


 イツキは端末バッグを肩にかけた。


「あたし、サキの過去を端末越しに見るだけの人にはなりたくない。サキが怖くなる場所に行くなら、隣で名前呼ぶ役が必要でしょ」


 サキは言い返せなかった。


 カリンは微笑んだ。


「いいねぇ。名前係」


「そんな係ではないです」


「じゃあ、何?」


 イツキは少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。


「……相棒、みたいな」


 サキの心臓が跳ねた。


 相棒。


 その言葉は、まだ少し大きい。

 でも、嫌ではなかった。


 カリンは満足げに頷く。


「じゃあ、相棒二人とボクで行こうか。シン、バックアップよろしく」


『料金はカリンにつけておく』


「ツケ増えちゃうねぇ」


『払う気がある時だけ笑え』


 通信が切れた。


 倉庫街は、帝都エデンの中でも朝と夜の区別が曖昧な場所だった。


 海に近く、空気には塩と錆の匂いが混じっている。

 使われなくなった旧倉庫、表向きは物流会社の看板を掲げた密輸拠点、女帝政府の封印物搬送ルート、外部国家へ流すことのできない危険物の一時保管庫。そういうものが、巨大なコンテナと錆びたシャッターの間に隠れている。


 カリンは黒い外套を羽織り、昼間の光の中でも浮くような優雅さで歩いていた。

 イツキは小型ドローンを二機だけ飛ばし、周囲の監視カメラと魔導センサーの位置を確認している。

 サキはその後ろで、腕の包帯を押さえていた。


 倉庫の前には、古い看板がかかっている。


 神奈川環境復旧資材保管庫。

 旧東京災害廃棄物一時管理施設。

 立入禁止。


 看板の隅に、小さな女帝政府委託の印章があった。

 その上から、別の企業ロゴが何度も貼られ、剥がされ、もう判別できなくなっている。


「ここに……氷棺が?」


 サキが呟く。


「たぶん、直接じゃなくて一時保管ねぇ」


 カリンが言う。


「死都東京から出てくるものは、いきなり研究施設には運べない。呪い、汚染、時間差発火、名前の感染、色々あるから。いったんこういう倉庫で検査して、表の台帳と裏の台帳に分けて、それから売れるものは売る」


「売る……」


 サキの声が低くなった。


「わたしも、売られたの?」


 カリンは即答しなかった。


 少しだけ、優しくない沈黙が落ちる。


「たぶんね」


 カリンは言った。


「でも、君は商品じゃない。売った側がそう扱っただけ」


 イツキがサキの横に並ぶ。


「入ろう」


 サキは頷いた。


 倉庫の扉は電子ロックだった。

 イツキが端末を接続し、指を走らせる。


「古い型。暗号も古い。これなら……」


「開く?」


「開ける」


 数秒後、ロックが外れた。


 重い扉が軋みながら開く。


 中は冷えていた。


 夏の外気とは違う、人工的な冷気。

 照明は半分死んでおり、天井の蛍光管が不規則に明滅している。床には古い搬送レール。壁際には金属製の保管ラックが並び、霜のついたコンテナがいくつも置かれていた。


 倉庫の奥から、かすかに水滴の落ちる音がする。


 サキは足を止めた。


 寒い。


 この寒さを知っている。


 氷棺の中。

 ガラス管の中。

 名前を呼べない場所。


「サキ」


 イツキが呼んだ。


 それだけで、サキの足が少し動く。


「大丈夫?」


「……大丈夫じゃないけど、行ける」


「うん。大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言って」


「うん」


 カリンは先頭を歩く。

 足音は軽い。だが、手はいつでも大鎌を出せる位置にある。


「ここ、妙だねぇ」


「何がですか?」


 イツキが訊く。


「廃倉庫にしては、空気が生きてる。誰かが最近まで使ってた」


 その言葉の直後、イツキのドローンが小さく警告音を鳴らした。


「地下に電力反応。あと、冷却装置が動いてる。古いけど、まだ生きてる」


 カリンは壁際の階段を見つけた。


 地下へ続く鉄扉。

 その表面には、凍結物管理区域、許可なき開封を禁ず、という古い警告文が貼られている。


 サキの呼吸が浅くなった。


 カリンが扉を開ける。


 地下は、さらに冷たかった。


 細い通路を抜けると、広い保管室に出た。

 そこには、割れた氷の欠片が保管されていた。


 透明ではない。

 青白く、内側に黒い雪の粒を閉じ込めた氷。

 ひとつひとつが結晶化した時間の破片みたいだった。


 サキはふらりと近づく。


 氷の表面に、指を触れようとする。


 イツキが小さく言った。


「触って大丈夫?」


 サキは手を止める。


「……わからない」


「じゃあ、手袋」


 イツキはバッグから厚手の絶縁手袋を取り出し、サキに渡した。


 サキはそれを受け取り、少しだけ笑う。


「用意いいね」


「修理屋なので」


 サキは手袋をはめ、氷の欠片に触れた。


 冷たい。


 その瞬間、短い映像が頭の中を走った。


 黒い雪。

 ユウリの手。

 氷の中で止まった呼吸。

 誰かの声。


 ――二体確認。

 ――片方、記録値が異常。

 ――姉個体は薔薇因子適合。弟個体は別計画へ。

 ――名前処理を先に。


 サキは息を呑み、手を離した。


「サキ!」


 イツキが支える。


「何か見えた?」


「声……たぶん、記録」


 サキは額を押さえた。


「二体って言ってた。姉個体と、弟個体って。ユウリは、いた。ここに、いたんだ」


 イツキの顔が強張る。


 カリンは保管室の奥にある端末へ向かっていた。


「こっち、台帳がある」


 端末は古いが、電源は生きていた。

 イツキがすぐに接続する。システムは何重にもロックされていたが、シンから送られてきた簡易解除コードが役に立った。


 画面に、検体リストが表示される。


 死都東京外縁部 第七凍結層回収物

 氷棺番号:C-07-Rose

 搬送先:神奈川環境復旧資材保管庫

 最終売却先:Magical Reconstruction Rosen


 その下に、二つの欄があった。


 第一検体。

 蒼原サキ。

 推定年齢、身体状態、凍結損傷、薔薇型因子適合の可能性。


 第二検体。


 そこに、名前はなかった。


 黒く塗り潰された欄。

 いや、塗り潰されたのではない。


 画面上の文字領域そのものが、黒い穴になっている。カーソルを近づけても認識しない。コピーもできない。表示情報が欠落しているのではなく、そこに名前があったという事実だけが、黒い傷のように残っていた。


 サキは画面に近づいた。


「ユウリ……」


 名前を呼んだ瞬間、頭の奥が割れるように痛んだ。


 視界が白く弾ける。


「っ、あ……!」


 サキは膝をついた。


 イツキが駆け寄る。


「サキ!」


 サキは頭を押さえた。

 痛い。

 名前を思い出そうとするたび、何かが内側から刺してくる。


 ユウリ。

 ユウリ。

 蒼原ユウリ。


 呼ぼうとすると、黒い糸がその名前に絡みつく。


 忘れろ。

 記録するな。

 呼ぶな。

 その名は別計画へ移送済み。

 姉個体との接続を遮断。

 名前処理完了。


「いや……」


 サキの腕から、細い茨が零れた。


 痛みと恐怖で、ローズウィップが反応している。

 床を引っ掻き、金属板に細い傷をつけた。


 イツキは一瞬だけ息を呑んだ。


 それでも、逃げなかった。


「サキ、聞いて。こっち見て」


「イツキ……痛い。名前が、消える」


「消えない」


「でも、ユウリの顔が……」


「消えない。あたしも聞いた。蒼原ユウリ。サキの弟。今、あたしも覚えた」


 イツキはサキの前に膝をついた。


「一人で持たなくていい。サキが忘れそうになったら、あたしが言う。蒼原ユウリ。サキの弟。氷棺に一緒にいた。消されてない。あたしたちが今、見つけた」


 サキは荒い息を吐いた。


 イツキの声が、痛みの中に届く。


 サキ。

 ユウリ。

 名前が二つ、かすかに形を取り戻す。


 サキは震える手を伸ばした。


「イツキ、手……」


「触るよ」


 イツキがサキの手を握った。


 茨が一瞬、イツキの手首のすぐそばで震えた。

 サキは青ざめる。


「離して、棘が」


「大丈夫。サキ、戻って」


「傷つけるかも」


「傷つけたくないって思ってるなら、戻れる」


 イツキは手を離さなかった。


 サキは目を閉じ、必死に呼吸を整えた。


 ローズウィップが少しずつ床へ沈み、腕の中へ戻っていく。

 痛みは残っている。

 でも、名前は消えなかった。


「……ごめん」


「謝るの、あと」


 イツキはサキの手を握ったまま言った。


「今は、見つけたって言って」


「……見つけた」


「うん」


「ユウリ、ここにいた」


「うん」


「わたし、一人じゃなかった」


「うん」


 イツキの声も震えていた。


 サキはそれに気づいて、胸が苦しくなる。


 自分だけが怖いのではない。

 イツキも怖い。

 それでも、隣にいる。


 カリンが端末の前で声を低くした。


「二人とも、感動のところ悪いけど、長居はできなさそう」


 サキとイツキが顔を上げる。


 保管室の奥。

 暗がりの中で、何かが動いた。


 最初は、配線かと思った。


 天井から垂れ下がる古いケーブル。

 冷却装置から伸びる霜のついた管。

 だが、それが一本ずつ、ゆっくりとほどけていく。


 糸だった。


 白い糸。

 氷のように細く、蜘蛛の巣のように粘り、魔導光を帯びている糸が、保管室の壁、天井、床、端末、氷棺の欠片へ絡みついていく。


 カリンが大鎌を取り出した。


「やっぱり残してたか。番犬ならぬ、番蜘蛛」


 暗がりの奥で、女の声が笑った。


「記録を覗く子は、糸で縫ってあげないとね」


 氷棺の欠片の向こうから、蜘蛛の脚が現れた。


 一本、二本、三本。

 細長く、節が多く、白い装甲に黒薔薇の紋が刻まれた脚。


 その中央に、少女の上半身が吊られていた。

 青白い肌。

 閉じかけた瞳。

 唇の端に、糸のような笑み。


 蜘蛛型EXキメラ、アラクネ。


 彼女の背中から伸びる糸が、保管室中の記録媒体へ絡みついている。

 古い台帳にも。

 端末にも。

 氷棺の欠片にも。

 サキたちの足元にも。


 サキは立ち上がろうとした。


 イツキが支える。


「動ける?」


「……動く」


 サキは腕を構えた。


 まだ頭痛は残っている。

 名前を呼ぶたび、黒い糸が脳裏を引っ掻く。

 でも、逃げない。


 ここに、ユウリの手がかりがある。

 サキが一人ではなかった証拠がある。


 それを、また奪わせるわけにはいかない。


 アラクネが首を傾げた。


「蒼薔薇。まだ名前を持ってるのね。かわいそう。持っているから痛いのよ」


 白い糸が、一斉に張り詰める。


 カリンが大鎌を構えた。


「サキちゃん、イツキちゃん。次は日常回じゃ済まないよぉ」


 イツキはサキの横に立ち、ドローンを起動した。


「サキ」


「うん」


「ユウリくんの名前、忘れないで」


「うん」


「サキの名前も」


 サキはイツキを見た。


 そして、小さく頷く。


「忘れない」


 アラクネの糸が、倉庫全体を包み込んだ。


 扉が閉じる。

 照明が消える。

 端末の画面が白い糸に覆われる。


 外の倉庫街の音が遠ざかり、地下保管室は蜘蛛の結界へ変わっていく。


 暗闇の中で、アラクネの声だけが甘く響いた。


「さあ、名前を縫い直しましょう。あなたたちが、二度と自分を思い出せないように」


 サキの腕から、薔薇の茨が伸びた。


 白い糸と、蒼薔薇の棘が、氷棺の眠る地下でぶつかり合う。


 失われた名前をめぐる戦いが、始まった。

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