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第2話 サキという名前

 ホウジュ区の朝は、昨日の赤い雨など最初から存在しなかったみたいに明るかった。


 ビルの谷間には、昨夜の魔導災害で割れた窓ガラスの補修足場が組まれている。交通規制の黄色いホログラムが交差点の端に浮かび、清掃ドローンが歩道の隅に残った黒い水の跡を吸い取っていた。けれど、通勤客はいつものように急ぎ足で駅へ向かい、屋台の店主は魔導コンロに火を入れ、空中歩道の広告は新発売の携帯端末を派手な音楽と一緒に宣伝している。


 帝都エデンは、傷を隠すのが上手い街だった。


 壊れたものは修理される。

 汚れたものは清掃される。

 危険区域は黄色い線で囲まれる。

 市民には「安全が確認されました」という短い通知が届く。


 だから、昨夜の屋上で何があったのかを覚えている者は少ない。

 赤い雨を浴びた人々も、空に浮かんだ黒い薔薇の紋章を見た人々も、朝になれば仕事や学校や買い物に戻っていく。


 けれど、消えないものもある。


 イツキの家の修理屋には、昨夜壊れた魔導端末が山のように運び込まれていた。


「うわあ……これ、全部?」


 店先で、イツキが腰に手を当てて天井を仰いだ。


 店は狭い。

 表のシャッターを半分だけ開けた小さな修理屋で、棚には中古魔導端末、旧式ドローン、廃番になったバッテリー、出どころの怪しい配線パーツが所狭しと積まれている。入口の上には、もう何年も前から塗り直していない看板があり、そこに「魔導端末・家電・小型機械修理承ります」と手書きで書かれていた。


 昨日の災害で通信障害が起きたせいで、朝から客が絶えなかった。

 店主であるイツキの父親は、近所のビル管理会社へ出張修理に出ている。母親は奥で事務処理をしている。表に残されたのは、イツキと、そしてもう一人。


 蒼原サキは、作業台の前で壊れた魔導端末を一つずつ仕分けていた。


 制服は洗って乾かしたものを着ている。

 けれど袖口には、昨夜の戦いで裂けた跡がまだ残っていた。縫い合わせた糸の色が少しだけ違う。頬には小さな治療パッチ。右手首には包帯。昨夜、仮面の制御術式に焼かれた痕が、薄く赤く浮いている。


 サキは黙って端末の電源を確認し、反応するものとしないものに分けていく。


 その手つきは丁寧だった。

 壊れた機械を、ただのゴミとして扱わない。

 持ち主が戻ってきた時に困らないよう、ストラップやメモリカードの有無まで確認している。


 イツキはその横顔を見て、少しだけ口元を緩めた。


「サキ、やっぱり細かい作業向いてるよね」


「そうかな」


「うん。あたしより丁寧」


「イツキは、早いから」


「雑って言わないところ、サキの優しさだね」


「……雑だとは、思ってる」


「あ、言った」


 イツキが笑った。


 その笑い方は自然だった。

 昨夜、屋上で怪物と戦っていた少女を前にしているのに、まるで友達が少し面白いことを言っただけみたいに笑う。


 サキはその笑顔を見るたび、胸の奥が痛くなる。


 嬉しい。

 怖い。

 近づきたい。

 離れなければいけない。


 その四つが、いつも同時に来る。


「サキ、これ持ち上げるね。そっちの箱、ちょっと寄せて」


 イツキが作業台の端に置かれた工具箱へ手を伸ばした。


 サキの指先と、イツキの指先が触れそうになる。


 サキは反射的に手を引いた。


 端末が一つ、作業台の上でかたんと音を立てる。


 イツキの手が止まった。


「……ごめん」


 先に謝ったのはサキだった。


 サキは自分の右手を左手で押さえる。

 包帯の下で、薔薇型の魔導生体ナノマシンが微かに疼いているような気がした。


「違うの。嫌だったわけじゃなくて」


「わかってる」


 イツキはすぐに言った。


 軽く、でも逃げない声だった。


「サキが嫌がったんじゃなくて、怖がったんでしょ」


 サキは返事ができなかった。


 イツキは工具箱を持ち上げ、少し離れた棚の上へ置いた。それから、わざとサキの真正面には立たず、横に並ぶ位置へ戻ってくる。


「じゃあ、今日はこうする」


「こう?」


「触る時は、先に言う」


 イツキは自分の手を上げた。


「手、触っていい?」


 サキは一瞬、目を伏せた。


 触れてほしいと思う。

 でも、触れていいと自分で言うのが怖い。


 自分の身体は、自分だけのものではない気がする。

 M∴R∴に改造され、仮面に制御され、ロゼという戦闘人格まで内側にいる。自分の意志が届かない場所で、棘が生え、鞭が伸び、人を傷つけるかもしれない。


 だから、誰かに触れられるのが怖いのではない。

 自分が、誰かを傷つけるのが怖い。


「……少しだけなら」


 サキが言うと、イツキは頷いた。


「うん。少しだけ」


 イツキの指が、サキの包帯の巻かれていない左手に触れた。


 ほんの短い接触だった。

 手を握るというより、そこにいることを確かめるみたいな触れ方。


 サキの肩から力が抜ける。


 棘は出なかった。

 警告音も鳴らなかった。

 仮面もない。


 ただ、イツキの手が温かいだけだった。


「はい、終了」


 イツキはすぐに手を離した。


 サキは少しだけ名残惜しくなり、そんな自分に戸惑った。


「……今の、何?」


「接触テスト」


「機械みたい」


「機械修理屋だからね」


 イツキは笑い、また壊れた端末の山へ向き直った。


 サキも作業に戻ろうとした。


 その時、イツキが作業台の下から一枚の薄いカードを取り出した。


「で、本題」


「本題?」


「これ」


 イツキは得意げにカードを差し出した。


 薄い半透明の学生証。

 まだ正式な発行物ではなく、表面には仮登録用の青いラインが走っている。帝都の学校や夜間課程で使われる一時身分証に似ていた。


 ただし、写真欄は空白。

 所属欄も未入力。

 名前欄だけが、仮の文字で点滅している。


 蒼原サキ。


 サキは息を止めた。


「……これ」


「仮の学生証。正確には、学生証っぽく使える仮登録カード。ちゃんとしたやつじゃないから、検問とか公式端末には通せないけど、図書室とか学習端末とか、地域の学割サービスくらいならいけるかも」


「だめだよ、そんなの」


「だめなのはわかってる。だからまだ発行してない」


 イツキは椅子に腰かけ、端末を開いた。


 画面には、複雑な申請フォームが表示されている。

 仮登録者名、生年月日、現住所、保護者情報、過去の学籍記録、魔導適性検査結果、都市安全照合番号。


 空白ばかりだった。


 サキは画面を見て、胸がきゅっと縮むのを感じた。


 自分の人生は、空白でできている。


 生年月日はある。

 記憶もある。

 家族の名前も、弟の顔も、かつて通っていた学校の制服の色も覚えている。


 でも、それは今の帝都の記録にはつながっていない。


 トキオ聖戦。

 死都東京。

 氷棺。

 ガラス管。

 M∴R∴。


 その間に、蒼原サキという少女の記録は途切れている。


「サキの戸籍、普通に照会すると変なことになるんだよね」


 イツキは声を落とした。


 茶化さない声だった。


「死亡扱いじゃない。でも現行市民登録にもない。旧東京系の災害保留記録に近いところで止まってる。そこにM∴R∴が変なタグを上書きしてるから、公式端末に通すと危険検体扱いされる可能性がある」


 サキは自分の手を見た。


 細い指。

 昨日まで普通の少女だったみたいな手。

 でも、その内側には薔薇のナノマシンがいる。


「危険検体……」


「サキ」


 イツキがすぐに呼んだ。


 サキは顔を上げる。


「それ、サキの名前じゃないから」


「でも、端末にはそう出るかもしれない」


「端末が間違ってる」


「帝都の端末だよ」


「帝都の端末でも、間違う時は間違う」


 イツキははっきり言った。


 強引で、少し乱暴で、でもサキのために怒っている声だった。


「だから、端末の表示をどう誤魔化すか考えてるの」


「……名前を変えたほうが、簡単なんじゃないかな」


 その言葉は、サキ自身が思っていたより静かに出た。


 イツキの指が止まる。


 修理屋の奥で、古い冷却ファンが回る音がした。

 外からは、朝市の呼び込みと魔導バスの発車ベルが聞こえる。


 サキは画面を見つめたまま続けた。


「蒼原サキじゃなくなれば、M∴R∴も探しにくくなるかもしれない。都市端末も反応しないかもしれない。仮の名前で学校に行って、仮の住所で暮らして、仮の……」


「サキは、それでいいの?」


 イツキの声は静かだった。


 サキは答えない。


「別に、名前を変えることが悪いって言ってるんじゃないよ。逃げるために必要なら、変えてもいいと思う。帝都には名前を変えないと生きられない人だっているし」


 イツキは画面を閉じた。


「でも、サキは?」


 サキは唇を噛んだ。


 少し迷ってから、胸の奥にしまっていた言葉を出す。


「弟がいるの」


 イツキの表情が変わった。


 驚きではなく、聞くための顔になった。


「名前は?」


「ユウリ」


 サキは小さく言った。


「蒼原ユウリ。わたしの弟。トキオ聖戦の時、一緒にいた。手、握ってた。すごく怖がってて、でもわたしが怖がるともっと泣くから、わたし、平気なふりして……」


 言葉が詰まる。


 指先が冷たくなる。


 夏の駅前。

 割れる空。

 光と黒い雪。

 弟の手。

 凍る街。

 次に目覚めた時のガラス管。


「研究所から逃げた時、ユウリはいなかった。でも、生きてるかもしれない。どこかで、わたしを探してるかもしれない。もし、いつかユウリがわたしを探すなら」


 サキは、空白だらけの登録画面を見つめた。


「蒼原サキじゃないと、見つけてもらえない」


 イツキは黙っていた。


 茶化さなかった。

 慰めもしなかった。

 簡単に「見つかるよ」とも言わなかった。


 ただ、ちゃんと聞いていた。


 それが、サキにはありがたかった。


「だから、名前は変えたくない」


 サキは言った。


「怖くても、追われても、危なくても。蒼原サキでいたい。……変かな」


「変じゃない」


 イツキは即答した。


 その声の早さに、サキは少し驚く。


 イツキはカードをもう一度手に取った。

 仮登録欄に表示されている「蒼原サキ」の文字を指でなぞる。


「じゃあ、あたしもその名前、守る」


 サキは顔を上げた。


「イツキが?」


「うん」


「危ないよ」


「昨日から危ないよ」


「これから、もっと危なくなる」


「じゃあ、もっとちゃんと守る」


 イツキは当たり前みたいに言った。


 サキの胸が熱くなる。


 嬉しいと言うには重すぎて、怖いと言うには柔らかすぎる感情だった。


「どうして、そこまでしてくれるの」


 サキは訊いた。


 イツキは少し考えた。


 ほんの少しだけ頬を赤くしたように見えたのは、朝の光のせいかもしれない。


「サキが、サキだから」


「答えになってない」


「なってるよ。あたしの中では」


 イツキは笑った。


「あと、サキがいないと、うちの修理屋の仕分け作業が雑になる」


「それは、理由として弱い」


「じゃあ、サキがいると朝ごはんがおいしい」


「わたし、朝ごはん作ってない」


「一緒に食べるとおいしいの」


 サキは言葉に詰まった。


 イツキは端末を閉じ、仮学生証を小さなケースに入れた。


「正式なのは、まだ無理。でも、いつかちゃんと作る。蒼原サキって名前で」


 サキは小さく頷いた。


 その時、店の奥からイツキの母親の声が飛んできた。


「イツキ、買い出し行ける? 絶縁テープと端末用の冷却ジェル、あと昼のパン!」


「はーい!」


 イツキは立ち上がりかけて、サキを見た。


「サキ、行ける?」


「え」


「買い物。すぐそこ。人多いけど、朝だから安全だと思う。無理ならあたし一人で行く」


 サキは店の外を見た。


 明るい通り。

 人の声。

 屋台の湯気。

 昨日、赤い雨が降っていた同じ街。


 怖い。


 でも、このまま店の奥に隠れていたら、自分は一生、仮面を外したまま歩けない気がした。


「行く」


 サキは言った。


 イツキは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、荷物持ちよろしく」


「それ、最初からそのつもりだった?」


「半分くらい」


「……イツキ」


「嘘。三割」


 サキは少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、イツキは満足そうに頷いた。


 ホウジュ区の商店街は、朝から騒がしかった。


 高架下の市場には、魔導炉で温めた蒸しパン、合成肉の串焼き、旧横浜港から入った魚、死都外縁部の浄化農場で採れた野菜などが並んでいる。安売りを知らせるホログラムが頭上で跳ね、店主たちは買い物客へ負けない声量で呼び込みをしていた。


 サキは、イツキの半歩後ろを歩いていた。


 近すぎない。

 離れすぎない。

 イツキが少し歩調を緩めると、サキも気づいて速度を合わせる。人の肩がぶつかりそうになるたび、サキの身体が強張る。


「サキ、こっち」


 イツキが自然に手を伸ばしかける。

 すぐに止める。


「手、引いていい?」


 サキは一瞬迷ってから、頷いた。


 イツキはサキの手を取った。


 今度は、作業台の上で触れた時より少し長い。


 人混みの中で、イツキの手だけが道しるべみたいだった。


「人、多いね」


 サキが言う。


「ホウジュ区だからね。人と機械と怪しいものなら大体あるよ」


「怪しいものも?」


「あるよ。見る?」


「見ない」


「えー」


「見ない」


 イツキが笑う。


 サキはその横顔を見る。


 イツキは、昨日の戦いを忘れているわけではない。

 あの屋上で震えていた。端末が壊れるかもしれないのに、サキの仮面へ通信妨害をぶつけた。怖くなかったはずがない。


 それでも、今は普通に買い物をしている。

 絶縁テープの値段に文句を言い、パン屋の新作に目を輝かせ、サキの手を握って人混みを抜ける。


 この普通さが、サキには眩しかった。


 眩しすぎて、自分がそこにいていいのかわからなくなる。


「あ、冷却ジェル安い。買っとこ」


 イツキが店先の棚へ近づく。


 その時だった。


 商店街の入口に設置された防犯端末が、短く鳴った。


 ピ、と。


 最初は誰も気にしなかった。

 ホウジュ区では、迷子検知、盗難防止、魔導具の登録不備、ペット型機械の脱走などで、防犯端末が鳴ることは珍しくない。


 だが、サキの視界だけが凍りついた。


 端末の画面に、一瞬だけ文字が浮かんだからだ。


 RZ-X01


 すぐに消えた。


 その下に、別の表示が重なる。


 市民安全照合中。

 対象情報不一致。

 死都由来危険検体候補。

 警告レベル――


 サキは息ができなくなった。


 手から力が抜ける。


 イツキが振り向く。


「サキ?」


 防犯端末のカメラが、サキの顔を追った。


 街の音が遠くなる。


 蒼原サキではない。

 RZ-X01。

 ローゼンマスク。

 危険検体。


 都市が、自分をそう呼ぼうとしている。


「サキ、どうしたの?」


「……ごめん」


 サキはイツキの手を離した。


「サキ?」


「ごめん、イツキ」


 走り出した。


 イツキが呼ぶ声が背中に届く。


「サキ!」


 でも止まれない。


 人混みの中を抜ける。肩がぶつかる。誰かが怒鳴る。買い物袋が落ちる。サキは謝ることもできず、細い路地へ飛び込んだ。


 逃げなければ。

 ここにいたら、イツキの家に迷惑がかかる。

 店に捜査が入る。

 イツキまで危険人物として記録されるかもしれない。


 何より、あの端末にもう一度見られるのが怖かった。


 路地は狭く、朝なのに薄暗かった。

 壁には古い配管が走り、壊れた室外機が積まれ、魔導広告の裏面から漏れる光がちらちらと揺れている。表通りの賑わいが嘘みたいに遠い。


 サキは路地の奥へ逃げ込んだ。


 呼吸が乱れる。

 胸が痛い。

 手首の包帯の下で、薔薇が疼く。


『逃げるのか?』


 ロゼの声がした。


 サキは壁に手をついた。


「……今は、出てこないで」


『あの端末、壊せば済んだ』


「だめ」


『じゃあ、ずっと逃げる?』


「わからない」


『サキ』


「わからないって言ってる!」


 叫んだ声が、路地に反響した。


 その直後、頭上で羽音のような機械音がした。


 サキは顔を上げる。


 小型の監視ドローンが二機、路地の入口に浮いていた。

 帝都の一般防犯用ではない。機体の側面に黒い薔薇の極小マークが刻まれている。


 昨夜のクラーケンの残骸から送られた信号。

 M∴R∴の追跡補助ドローン。


 サキの血の気が引いた。


「もう……?」


 ドローンのカメラアイが赤く光る。


『対象確認。RZ-X01。非戦闘状態。回収優先度、上昇』


 機械音声が路地に響く。


 サキの袖口から、細い茨が覗いた。


 だめ。

 ここで戦えば、表通りに人がいる。

 壊した破片が飛ぶかもしれない。

 ローズウィップを出せば、また都市端末に記録される。


 でも、逃げ場はない。


 ドローンの下部から、注射針のような捕獲アンカーが展開した。


 その瞬間。


 路地に薔薇の香りが流れ込んだ。


 甘い。

 でも、イツキの店に置いてある古い芳香剤のような安っぽさではない。

 冷たく、深く、どこか刃物のような香り。


「はい、そこまで」


 黒い影が、ドローンとサキの間に降り立った。


 少女のようにも、少年のようにも見える人物だった。


 黒いレースのドレス。

 白い肌。

 長い黒髪。

 手袋をはめた細い指。

 背中に月光を受けて、まるで黒薔薇が人の形を取ったように見える。


 その手には、巨大な大鎌が握られていた。


 サキが瞬きする間に、大鎌が一閃する。


 ドローン一機が真っ二つになった。

 火花が散る。

 もう一機が上昇しようとするが、黒いドレスの人物は壁を蹴って跳び、軽やかに空中で回転した。


 鎌の刃が、二機目のカメラアイを正確に貫く。


 ドローンは路地の床に落ち、痙攣するように羽を震わせた後、沈黙した。


 サキは身構えたまま動けなかった。


 黒いドレスの人物は、路地の真ん中に降り立ち、鎌を肩に担ぐ。


「危なかったねぇ」


 声は甘かった。

 けれど、目は笑っていない。


 サキは一歩下がる。


「あなたは……」


「通りすがりの清掃員」


 その人物はにこりと笑った。


 路地の床に落ちたドローンの残骸を見下ろす。


「まあ、今はちょっと仕事中だけど」


 サキは腕を押さえた。


 ローズウィップが出そうになるのを、必死に抑える。


 黒いドレスの人物は、その動きを見逃さなかった。


「真紅の仮面。薔薇の鞭。昨日の赤い雨。噂のローゼンマスクって、君?」


 その名を聞いた瞬間、サキの身体が強張った。


 足元から茨が伸びかける。


「違う」


 サキは震える声で言った。


「わたしは、ローゼンマスクじゃない」


 黒いドレスの人物は片眉を上げた。


 サキはさらに一歩退く。


「近づかないで」


「近づいてないよぉ」


「敵なら……」


「敵なら?」


 その人は楽しそうに首を傾げた。


 サキは言葉に詰まった。


 敵なら戦う。

 そう言えればよかった。


 でも、言えなかった。


 戦いたくない。

 傷つけたくない。

 自分の身体が誰かを切り裂くところを、朝の路地で見たくない。


 その人は、サキの顔をしばらく見つめてから、ふっと笑みを緩めた。


「君、戦いたくないんだね」


 サキは黙る。


「それはいいことだよぉ。戦いたくない子のほうが、まだ戻ってこられる」


「……あなた、何者?」


「カリン」


 大鎌を軽く回し、黒いドレスの人物は名乗った。


「帝都の裏で、ちょっと面倒な仕事をしてる者です。表向きは清掃員。裏向きは、まあ、色々」


「カリン……」


「君のことは、昨日から少しだけ探してた。ローゼンマスクという名前でね」


 サキはすぐに警戒した。


 カリンは片手を上げる。


「ああ、待って待って。回収業者じゃない。M∴R∴の犬でもない。むしろ別件で、あいつらのキメラを追ってた側」


「信じられない」


「うん。信じなくていいよぉ」


 カリンは軽く笑った。


「帝都の裏路地で初対面の美人を信じるほうが危ないからねぇ」


「美人……」


「そこ引っかかる?」


「自分で言うんだと思って」


「事実だから」


 サキは戸惑った。


 この人は危険だ。

 それはわかる。

 さっきのドローンを斬った動きは、ただの清掃員ではない。大鎌からはまだ薄い魔導光が漏れている。薔薇の香りに混じって、眠りと幻覚を誘う気配もある。


 でも、敵の気配とは少し違った。


 少なくとも、M∴R∴の研究者たちが向けてきた、観察するような視線ではない。


 カリンはドローンの残骸を爪先で転がした。


「これ、M∴R∴の追跡補助機だね。昨日のクラーケンから信号飛ばされた?」


 サキは答えない。


「無言かぁ。まあ、いいけど。君、逃げるなら逃げてもいいよぉ」


 カリンは大鎌をすっと消した。

 異空間収納なのか、刃が薔薇の花びらみたいにほどけて消える。


「でも、逃げる方向は選んだほうがいい。帝都の裏路地って、優しくないから」


 サキは壁際に立ったまま、カリンを見つめた。


「どういう意味?」


「表通りはカメラが多い。路地裏はカメラが少ない。だから、追跡から逃げるには向いてる。でもね」


 カリンは路地の奥を指さした。


「カメラが少ない場所には、カメラに映りたくない人たちもいる。違法魔導具屋、賞金首狩り、身元を売る仲介人、臓器じゃなくて記録核を抜く医者、M∴R∴と似たようなことをもっと雑にやる連中。君みたいな子は、そういう人たちから見ると高く売れそうに見える」


 サキはぞっとした。


 カリンの口調は軽い。

 けれど内容は冗談ではなかった。


「だから、逃げるなら一人で深く潜らないこと。名前を呼んでくれる子がいるなら、なおさらね」


 その言葉に、サキの胸が跳ねた。


「イツキは関係ない」


「名前、イツキちゃんっていうんだ?」


 しまった、と思った時には遅かった。


 カリンは別に勝ち誇らなかった。

 ただ、少しだけ表情を柔らかくした。


「君、警戒してるわりに、その子のことになるとすぐ顔に出るねぇ」


「……言わないで」


「うん?」


「イツキを、巻き込みたくない」


 サキの声は小さかった。


「昨日も、今日も、わたしのせいで危ない目に遭ってる。M∴R∴に見つかった。街の端末にも反応された。もしイツキの家まで……」


「それ、君が決めること?」


 カリンが言った。


 サキは顔を上げる。


 カリンは壁にもたれ、腕を組んでいた。

 朝の薄い光の中で、黒いドレスのレースが揺れている。


「守りたい相手を遠ざけたい気持ちはわかるよぉ。でも、相手が隣にいるって決めてるなら、その選択まで君が取り上げるのは違うんじゃない?」


「でも、わたしは危険だから」


「危険だね」


 カリンはあっさり認めた。


 サキの言葉が止まる。


「危険じゃないなんて言わないよ。君の身体、たぶんかなり物騒だし。さっきも路地ごと斬れそうな顔してた」


「……」


「でも、危険だから一人でいなきゃいけない、とは限らない。危険な子が一人で追い詰められるほうが、もっと危ない場合もある」


 サキは何も言えなくなった。


 その時、路地の入口から声がした。


「サキ!」


 イツキだった。


 息を切らし、買い物袋を片手に抱え、もう片方の手には小型ドローンの操作端末を握っている。髪は走ったせいで乱れ、頬は赤くなっていた。


 サキは反射的に一歩前へ出た。


「イツキ、来ちゃだめ!」


「来るよ!」


 イツキは怒っていた。


 路地に駆け込み、サキの前で止まる。

 それから、床に落ちたドローンの残骸と、壁にもたれているカリンを見て、目を丸くした。


「え。誰?」


「通りすがりの美人清掃員」


「情報量多い」


「カリンだよぉ」


 カリンはひらひらと手を振った。


 イツキはすぐにサキのほうを向く。


「怪我は?」


「ない」


「ほんと?」


「ほんと」


「端末、反応したんだよね? 防犯のやつ。追跡来た?」


「……少し」


「少しって何」


「ドローンが、二機」


「それは少しじゃない!」


 イツキの声が震えた。


 怒っている。

 でも、その怒りはサキを責めるものではなかった。


 サキは目を伏せる。


「ごめん。逃げた」


「うん、逃げたね」


「イツキを巻き込みたくなくて」


「それで一人で路地裏に入るの、巻き込みたくないっていうより、あたしを心配で殺す作戦?」


 サキは言葉に詰まった。


 カリンが小さく吹き出した。


「イツキちゃん、なかなか言うねぇ」


「笑い事じゃないです。あ、さっき助けてくれたならありがとうございます。でも、サキをローゼンマスクって呼ぶ人なら警戒します」


「いいね。警戒心、大事」


 イツキはサキの前に立とうとした。


 サキは慌てて止める。


「イツキ、前に出ないで」


「嫌」


「嫌って」


「サキが一人で前に出るのも嫌」


 イツキはサキを振り返った。


「さっき、手、離したでしょ」


 サキの胸が痛んだ。


「……ごめん」


「謝るなら、次は離す前に言って」


「言ったら、止めるでしょ」


「止めるよ」


「だから……」


「止められたくないから黙っていなくなるの、なし」


 イツキの声は強かった。


「怖いなら怖いって言って。逃げたいなら逃げたいって言って。あたしが邪魔なら邪魔って言って。そしたら考える。でも、勝手にいなくなるのはなし」


 サキはイツキを見る。


 イツキの目は少し潤んでいた。

 でも泣いてはいなかった。泣くより先に怒っている。


 その怒りが、サキには苦しかった。

 同時に、温かかった。


「邪魔じゃない」


 サキは小さく言った。


「イツキは、邪魔じゃない」


「じゃあ、手」


 イツキが右手を差し出す。


 サキは迷った。


 カリンが見ている。

 路地の奥に誰がいるかわからない。

 まだ追跡信号が残っているかもしれない。


 でも、イツキは手を下げなかった。


「手、触っていい?」


 朝の修理屋と同じ問い。


 サキは震える指を伸ばした。


「……うん」


 イツキはサキの手を握った。


 さっき商店街で握った時より、少し強く。

 逃がさないというより、戻ってきたことを確かめるように。


 カリンは二人を見て、ほんの少しだけ表情を変えた。


 甘い笑みが消えたわけではない。

 けれど、目の奥にあった仕事の冷たさが、わずかに緩んだ。


「その子、君の名前をちゃんと呼んでくれるんだね」


 サキはカリンを見た。


 カリンはドローンの残骸を拾い、黒薔薇のマークを眺めている。


「ローゼンマスクじゃなくて。RZなんとかでもなくて。サキって」


 イツキは少しむっとした顔になる。


「当たり前です。サキはサキなので」


「当たり前って言えるの、強いねぇ」


 カリンは笑った。


「帝都では、その当たり前を高く売る人が多いんだよ」


 サキはイツキの手を握り返した。


 自分でも気づかないくらい、少しだけ強く。


「カリンさん」


「カリンでいいよぉ」


「あなたは、M∴R∴を知ってるの?」


「少しだけね。正式名称は、Magical Reconstruction Rosen。表向きは死都由来汚染生物の研究法人。裏では、生体兵器、違法キメラ、記憶核の改竄、名前の管理。そういう、帝都の嫌なものを全部薔薇のリボンでまとめたみたいな連中」


 イツキの顔が険しくなる。


「サキを作ったところ」


「たぶんね」


 カリンは言った。


 サキはその言葉に胸を刺される。


 作った。

 その表現が嫌いだった。


 イツキがすぐに言う。


「違う」


 カリンがイツキを見る。


「ん?」


「サキを作ったんじゃなくて、サキにひどいことをしたところです」


 イツキの声は震えていた。


 怒りで。


「サキは、そこに作られる前からサキだったので」


 サキの喉が熱くなる。


 カリンはしばらくイツキを見つめ、それから満足そうに笑った。


「うん。訂正する。いい言い方じゃなかったね」


 カリンはドローンの残骸を小さな袋へ入れた。


「これ、ボクが預かる。調べてもらうから」


「誰に?」


「情報屋」


 カリンは端末を取り出した。


 黒いケースに、薔薇の小さなシールが貼ってある。


「シン、今いい?」


 通話先の声は、路地のノイズに混じって少しだけ聞こえた。


『君の“今いい?”は、だいたいよくない時の合図だな』


「当たり。M∴R∴の追跡補助機を拾った。黒薔薇マーク入り。ホウジュ区の防犯端末にも変な照合が走ってる。検索網、開けられる?」


『料金は?』


「ツケ」


『切るぞ』


「冗談。後で東タワーの上層清掃チケットあげる」


『僕は窓拭きショーの観客ではない』


「じゃあ、写真」


『送れ』


 カリンは笑い、ドローンの残骸を撮影して送信した。


 数秒の沈黙。


 通話先の声が、少しだけ低くなった。


『……M∴R∴。まだ残っていたか』


「知ってるの?」


『名前だけならな。マモンカンパニー残党、死都回収業者、女帝政府の外部委託を食い荒らす地下研究法人。だが、ここ数年は表に出ていない。出ていないということは、地下で育っていたということだ』


「検索網に流して。関連企業、回収業者、古い研究棟、全部」


『対象は?』


 カリンはサキを見た。


 サキはイツキの手を握ったまま、息を止める。


 カリンは少し考えてから答えた。


「蒼原サキ」


 サキの目が揺れた。


 カリンは続ける。


「それから、RZ-X01、ローゼンマスク。三つとも。けど優先する名前は蒼原サキで」


 通話先で、キーボードを叩く音がした。


『了解した。帝都裏社会の検索網に流す。ただし、敵にも痕跡を読まれる可能性がある』


「読まれる前に読むよ」


『君らしい雑な作戦だ』


「可愛いでしょ?」


『切るぞ』


 通話が切れた。


 カリンは端末をしまい、サキとイツキへ向き直った。


「さて。これでM∴R∴の名前は、帝都の裏に流れた。今まで隠れていた連中も、少しは動きづらくなる」


 サキは不安そうに言う。


「でも、それでカリンも狙われるんじゃ」


「もう狙われてる仕事の途中だから、ひとつ増えても誤差だよぉ」


「誤差……」


「それに、君たちだけで抱えるよりはいい」


 カリンは路地の出口を顎で示した。


「今日はもう帰りな。表通りに出る時は、端末のカメラを避けて。イツキちゃん、サキちゃんの顔をその買い物袋で隠せる?」


「できます」


「即答だねぇ」


「やります」


 イツキは買い物袋を抱え直し、サキの前に立った。


 サキは少し困った顔をする。


「イツキ、そこまでしなくても」


「さっき一人で逃げた人は黙って守られてください」


「……はい」


 カリンが楽しそうに笑う。


「いいね。君たち、けっこう相性いいよ」


 イツキの頬が少し赤くなった。


「そ、そういうのじゃ」


「どういうの?」


「……今は、そういう場合じゃないです」


「今じゃなかったら、そういう場合なの?」


 イツキが言葉に詰まる。


 サキも顔を伏せた。


 その反応を見て、カリンはますます楽しそうに目を細めた。


「青春だねぇ」


「からかわないでください!」


「ごめんごめん。でも、名前を守るっていうのは、なかなか重い告白だと思うよぉ」


 イツキは完全に黙った。


 サキは胸の奥がまた熱くなるのを感じた。


 告白。


 その言葉は、今の二人にはまだ早すぎる気がした。

 でも、まったく違うとも言えなかった。


 名前を守る。

 手を離さない。

 怖くても隣にいる。


 それが何なのか、サキにはまだわからない。


 でも、イツキの手の温かさはわかる。


 カリンは背を向けた。


「じゃあ、ボクは仕事に戻る。サキちゃん」


 呼ばれて、サキは顔を上げた。


 カリンは振り返らずに言った。


「仮面の名前に負けそうになったら、その子の声を聞きな。君の名前を間違えない人は、思ってるより貴重だから」


 サキはイツキの手を見る。


 そして、小さく頷いた。


「……うん」


「返事が小さい」


 イツキが横から言った。


 サキは驚いて、少しだけ笑った。


「うん」


「よし」


 イツキも笑う。


 カリンはひらひらと手を振り、黒い薔薇の香りを残して路地の奥へ消えていった。


 サキとイツキは、しばらくその場に立っていた。


 路地の向こうには表通りの光がある。

 買い物袋の中には、冷却ジェルと絶縁テープと、少し潰れた昼のパン。

 サキの手には、イツキの手。


「帰ろう」


 イツキが言った。


「お店、手伝わないと。あと、仮学生証の続きもあるし」


「……まだ作るの?」


「作るよ。名前、守るって言ったでしょ」


 サキは何かを言おうとして、やめた。


 ありがとう、では足りない気がした。

 ごめん、では違う気がした。


 だから、今言える名前を呼んだ。


「イツキ」


「なに?」


「手、もう少しだけ……このままでいい?」


 イツキは目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「いいよ」


 サキは頷いた。


 二人は表通りへ歩き出す。


 その頃、ツインタワー東タワーの高層階。


 情報屋シンの端末群に、ひとつの検索ワードが流れ込んだ。


 M∴R∴。

 ローゼンマスク。

 RZ-X01。

 そして、蒼原サキ。


 帝都の裏社会の見えない網が、静かに震え始める。


 遠くの誰かが、その震えに気づくのは、もう少し後のことだった。

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