表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

第1話 赤い雨と蒼薔薇の仮面

 赤い雨が降っていた。


 それは天気予報に載らない雨だった。


 帝都エデン、ホウジュ区。

 夜でも眠らない商業街の空は、いつもなら魔導広告の青と金、空中軌道を走る車両灯の白、遠くミヤ区から漏れる結界光の淡い銀で染まっている。だがその夜だけは違った。高層ビルの谷間に広がる空が、朱色に濁っていた。


 夕焼けではない。


 夜の七時を過ぎていた。太陽はとっくに死都東京の向こうへ沈んでいる。それなのに空は赤かった。雲の腹が燃えるように明滅し、魔導炉の排熱を受けた霧が血のような光を孕んでいる。


 そして、その光の中から、細かな赤い雫が降ってきた。


「え、なにこれ」


 歩道橋の上で、制服姿の少女が掌を上に向けた。

 落ちてきた雫は、彼女の掌に触れる直前でぱちりと弾け、薔薇の香りに似た微かな甘さだけを残して消えた。


「雨? でも、傘マーク出てなかったよね」


「魔導広告の演出じゃないの?」


「いや、あれ見ろ!」


 誰かが叫んだ。


 ホウジュ区中央通りに面した超高層複合ビル。

 その屋上に、何かがいた。


 人の影ではない。

 塔のように高いビルの縁から、濡れた触手が何本も垂れ下がっている。触手はビルの外壁を吸盤で叩き、窓ガラスを曇らせながら、巨大な水棲生物のようにうねっていた。


 警報が鳴る。


『ホウジュ区第七街区にて魔導災害反応を検出。市民の皆様は屋内退避を――』


 都市端末の声が途切れた。

 ノイズが走る。街頭モニターが一瞬だけ黒く染まり、その画面の中央に、黒い薔薇の紋章が浮かんだ。


 それを見た者は、理由もなく息を呑んだ。

 花なのに、傷口に見えた。

 美しいのに、処刑印に見えた。


 ビルの屋上で、真紅の仮面が雨に濡れていた。


 少女が一人、そこに立っている。


 白と紺を基調とした学生服。雨に濡れて肌に貼りついた袖口。足元は擦り切れたローファー。細い身体は、強風に吹かれればそのまま屋上から落ちてしまいそうなほど頼りない。


 けれど、その少女の両腕からは、薔薇の茨が伸びていた。


 金属でも、植物でもない。

 肉の内側から生まれ、魔導光を帯びて硬質化した蔓。

 棘の一本一本が微細な刃になって、赤い雨を受けるたびに淡く光る。


 茨は少女の手首から奔り、屋上のアンテナ塔に巻きつき、給水タンクの脚を切り裂き、襲いかかる触手を弾いた。


 少女の顔の上半分を覆う真紅のマスカレードマスクには、薔薇の紋が刻まれている。

 仮面の奥で、蒼い瞳が震えていた。


「見つけたぞ」


 濡れた音がした。


 屋上の向こう側。巨大な給水設備の裏から、怪物が這い出してくる。


 頭部は人間に似ていた。

 だが、それだけだった。


 肩から下は水棲生物と魔導機械が混ざり合ったような形をしている。胴体には半透明の膜が張り、内部で黒い管が脈打っていた。背中から伸びる触手は八本では済まない。細いもの、太いもの、先端が鉤爪になったもの、吸盤が並ぶもの、注射針のような毒腺を備えたもの。すべてが雨を吸い、赤く濡れながら膨張していく。


 水棲型EXキメラ、クラーケン。


 その胸部には、黒薔薇の紋章とともに、銀色の小さな管理プレートが埋め込まれていた。


 M∴R∴

 Rosen Biological Reconstruction Asset

 Type-Kraken


 少女は一歩退いた。


 クラーケンの口が裂ける。笑ったのだ。


「ずいぶん逃げたな、ローゼンマスク」


 その名を呼ばれた瞬間、少女の指先が強張った。


 茨が反応する。

 感情に引っ張られるように、ローズウィップの棘が一斉に硬く尖った。


「……違う」


 声は小さかった。

 雨音と警報と風に、すぐに消されそうな声だった。


 それでも少女は、もう一度言った。


「わたしは、ローゼンマスクじゃない」


 クラーケンが低く喉を鳴らす。

 笑い声というより、排水管の奥から聞こえる濁流の音に近かった。


「コード名を拒絶するか。欠陥品らしい反応だ。だが、おまえの身体は覚えているはずだ。仮面も、薔薇も、命令核も。すべて我々のものだ」


 少女は仮面の奥で唇を噛んだ。


 右手の茨が床を叩く。コンクリートに細い亀裂が走った。


「わたしは……」


 呼吸が乱れる。

 胸の奥に、硬いものがある。

 黒い棘のようなものが、心臓に絡まっている。


 逃げたい。

 戦いたくない。

 これ以上、自分の身体が怪物みたいに動くところを見たくない。


 でも、足元の屋上フェンスの向こう、地上には人がいる。


 逃げ惑う市民。

 動けずに空を見上げる子ども。

 交通停止した魔導バスの中で泣いている誰か。

 屋上から落ちる瓦礫ひとつで、簡単に壊れてしまう生活。


 クラーケンの触手が一本、ビルの外壁を叩いた。


 亀裂が走る。

 強化ガラスが割れ、破片が空へ舞った。


 少女は息を呑んだ。


 破片は赤い雨の中を滑り落ち、地上へ向かう。


「やめて!」


 ローズウィップが奔った。

 少女の腕から伸びた茨が、落下するガラス片を空中で絡め取り、まとめて屋上側へ引き戻す。棘に砕かれた破片が、赤い光の粒になって散った。


 その一瞬の隙を、クラーケンは見逃さなかった。


「市民保護行動。自律型の癖に、まだ人間気取りか」


 太い触手が横殴りに飛ぶ。


 少女は跳んだ。

 屋上の床を蹴り、アンテナ塔へローズウィップを巻きつける。身体が風に浮く。制服のスカートが翻り、濡れた髪が頬に貼りつく。


 高層ビルの屋上から、さらに上へ。


 地上が遠ざかる。

 夜景が歪む。

 赤い雨が下から降ってくるように見えた。


 少女は空中で身体を捻り、もう片方の茨をクラーケンへ叩きつけた。


 斬撃。

 触手が三本まとめて切れる。


 だが切断面から赤黒い泡が膨らみ、次の瞬間には新しい触手が生えていた。


「雨天環境下では再生速度二百六十パーセント。旧型EXとは違う。おまえの逃亡後に改良された」


「そんなこと……知らない」


「知る必要はない。回収されれば、すべて再教育される」


 クラーケンが腕を広げる。


 屋上の排水溝から、水が逆流した。

 赤い雨を吸った水が、血管のように床を這い、クラーケンの足元へ集まる。水面が波打ち、その中から細い触手が無数に生えた。


 少女は着地した瞬間、足首を捕まれた。


「っ!」


 ローズウィップで切る。

 だが別の触手が手首に絡む。さらに腰、肩、首筋。触手は締め上げるのではなく、神経の位置を探るように肌の上を這った。


 少女の顔から血の気が引く。


 怖い。


 その恐怖を感じた瞬間、体内の薔薇がざわめいた。


 仮面の薔薇紋が淡く光る。


 違う。

 だめ。

 出てこないで。


『代われ』


 声がした。


 少女の内側から。


 自分の声に似ている。

 けれど、自分ではない。

 もっと荒く、もっと強く、もっと怒っている声。


『アタシなら、あんなやつ一瞬で刻める』


 胸の奥で、もう一人の少女が笑っていた。


 ロゼ。


 M∴R∴がサキの中に植え付けた戦闘人格。

 Y核に封じられた、怒りの声。

 怖いものを怖いと言う前に壊すための人格。


『足が震えてるぞ、サキ。怖いなら下がってろ。アタシがやる』


「……いや」


 少女――蒼原サキは、歯を食いしばった。


「わたしは、まだ……わたしでいる」


『それで死んだらどうする?』


「死なない」


『根拠は?』


 サキは一瞬だけ目を伏せた。


 その時、耳元の小さな通信ピアスにノイズが走った。


『――キ。サキ、聞こえる!?』


 赤い雨の向こうから、少女の声が届く。


 サキの肩が震えた。


「イツキ……?」


『よかった、通信戻った! 今、三番補助ドローン飛ばしてる。サキ、そっちじゃない。右の避雷針、使える!』


 声は少し早口だった。

 恐怖を隠しきれていない。

 けれど、必死に平静を保とうとしている。


 サキは首を動かす。


 視界の右端。屋上の設備塔の上に、細い避雷針が立っていた。そこへ赤い雨が集まり、先端に小さな火花を散らしている。


 そのさらに向こう、隣のビルの非常階段に、小型ドローンが三機浮いていた。


 蜂に似た手作りドローン。

 市販品の部品と中古魔導端末を組み合わせた、イツキの機体。


 その一機のカメラアイが、こちらを見ている。


『サキ、上見て。あいつ、水を集めてる。たぶん導電する。避雷針と給水タンクの配管、つなげる?』


「……できる、と思う」


『“思う”じゃなくて、やるの。サキならできる』


 無茶を言う声だった。


 でも、その無茶の中に、サキの名前があった。


 ローゼンマスクではなく。

 RZ-X01でもなく。

 危険検体でも、失敗作でもなく。


 サキ。


 その二音だけで、胸の中の黒い棘が少し緩む。


 クラーケンの触手が通信ドローンへ向いた。


「支援者がいるのか」


 クラーケンの目が、細く歪む。

 人間の顔に残っていたわずかな輪郭が、怒りとも喜びともつかない表情を作った。


「なるほど。自律維持の外部要因。回収対象に追加する」


「だめ」


 サキの声が低くなった。


「イツキには、触らないで」


「所有物に執着するか。興味深い」


「イツキは、ものじゃない」


「では何だ?」


 クラーケンの触手が、ビル外壁を叩いた。


 今度は下ではなく、隣のビルへ。

 イツキのいる非常階段側へ。


 サキの視界が赤く染まった。


 ロゼが笑う。


『ほらな。壊せ、サキ。あれはあんたの大事なものを狙った』


 違う。

 壊すだけじゃだめ。

 でも、止めなきゃ。


 サキは自分に絡む触手へ力を込めた。ローズウィップの棘が内側から展開し、拘束していた触手を裂く。粘液混じりの水が飛び散り、制服の袖を赤黒く染めた。


 足首が自由になる。

 手首も。


 だが次の瞬間、クラーケンの口から霧が吐き出された。


 薄い青紫の霧。

 赤い雨に混ざり、屋上全体へ広がっていく。


「神経毒散布。対象、RZ-X01。運動制御を停止する」


 サキは息を止めようとした。


 遅い。


 霧が肌に触れた瞬間、指先の感覚が消えた。

 膝が震える。

 ローズウィップが力を失い、床に落ちる。

 呼吸はできる。意識もある。けれど、身体が自分のものではなくなる。


「く……」


『だから言っただろ。代われ』


「いや……」


『サキ』


 ロゼの声が、今度は少しだけ低くなった。


『あの子を守りたいんだろ』


 サキは返事ができなかった。


 守りたい。


 イツキを。

 地上の人たちを。

 まだ自分の名前を呼んでくれる誰かを。


 でも、ロゼに渡したら。

 グローリア・モードを起動したら。


 自分が戻ってこられないかもしれない。


 ローゼンマスクになってしまうかもしれない。


 クラーケンの触手が、サキの仮面に触れた。


 真紅のマスカレードマスクの端に、黒い粘液が染み込む。仮面内部の制御術式が反応し、薔薇紋が警告灯のように明滅した。


『外部制御信号を検出。旧マスターキー照合。M∴R∴回収コード、認証中――』


 仮面の内側で、機械的な声が鳴った。


 サキの全身が硬直する。


 視界に文字が浮かぶ。


 RZ-X01

 Rosen Mask

 Return Order

 Madame-V Authorization Pending


「や……めて……」


 仮面が熱い。

 顔に貼り付いて、皮膚の奥へ針を伸ばしてくるような感覚がした。


 クラーケンが囁く。


「帰ろう、ローゼンマスク。マダムがお待ちだ。おまえの怒りも、恐怖も、友人への執着も、すべて調整される。美しい作品に戻してもらえる」


 サキの喉が震えた。


 作品。


 その言葉が嫌いだった。


 ガラス管の中で目覚めた時も。

 手術台の上で腕から薔薇が生えた時も。

 仮面をつけられ、名前を呼ばれなくなった時も。


 誰かが優しい声で言った。


 あなたは美しい作品になる、と。


 そのたびに、自分の名前が遠くなった。


「……わたしは」


 サキは動かない身体で、必死に声を絞った。


「作品じゃ、ない」


 通信にノイズが走る。


『サキ! 仮面に何か入ってる! 制御信号、逆流してる!』


 イツキの声が震えていた。


 サキは見えないはずの隣のビルを見た。


「イツキ、逃げて」


『嫌』


「お願い、逃げて。わたし、たぶん……」


『嫌だって言ってる!』


 通信越しに、何かを叩く音がした。

 金属音。端末のキーを乱暴に打つ音。

 息を詰めたイツキの声。


『サキが自分じゃなくなりそうな時に、逃げるわけないでしょ!』


「でも……」


『でもじゃない。聞いて。今からビルの電源落とす。非常灯も、屋上広告も、監視ドローンの給電も一回全部切る。そっちの仮面に入ってる信号、電源系統に乗ってる。だから――』


 イツキが一瞬だけ息を吸った。


『逆に、ぶつける』


 サキは目を見開いた。


「そんなことしたら、イツキの端末も……」


『壊れるかもね』


「だめ!」


『いいの! 端末は直せる。でも、サキがサキじゃなくなるのは、直せない!』


 その声に、サキは何も言えなくなった。


 屋上の照明が一斉に落ちた。


 ホウジュ区第七街区の一角が、ふっと暗くなる。

 ビル壁面の巨大広告が消え、空中歩道の誘導灯が赤から黒へ変わり、街の一部が夜そのものに沈んだ。


 次の瞬間、隣のビルの屋上から青白い火花が走った。


 イツキのドローンが一斉に展開する。

 三機ではない。さらに小さな補助機が六機、空調ダクトの陰から飛び立つ。蜂の群れのように雨を裂き、クラーケンの触手の間を抜け、サキの周囲へ散った。


『通信妨害、反転。いっけええええっ!』


 青白い魔導ノイズが、仮面の制御信号へ逆流した。


 仮面内部の文字が乱れる。


 RZ-X01

 RZ-X――

 Error

 External Voice Priority

 Name Anchor Detected


 名前のアンカー。


 通信の向こうで、イツキが叫ぶ。


『蒼原サキ!』


 その名前が、仮面の内側で光った。


 サキの中で、ロゼが舌打ちした。


『……ずいぶん派手に呼ぶじゃねえか、あの子』


 サキは小さく笑った。


 怖い。

 まだ怖い。


 身体は痺れている。

 仮面は熱い。

 クラーケンは強い。

 M∴R∴は、自分を諦めない。


 でも、今だけは。


 自分の名前が聞こえる。


「ロゼ」


『なんだよ』


「力、貸して」


 ロゼは少し黙った。


『代われ、じゃなくて?』


「うん。代わらない。わたしがやる。でも、一人じゃ足りない」


 胸の奥で、ロゼが笑った。


 それは初めて、サキを嘲る声ではなかった。


『いいぜ。だったら、刻み方だけ教えてやる』


 サキの髪の先が、淡く紅に染まった。

 仮面の薔薇紋が光る。だが、完全なグローリア・モードではない。サキの瞳は蒼いままだった。


 ローズウィップが再び立ち上がる。


 一本。

 二本。

 さらに細い茨が、指先から枝分かれする。


 サキは痺れの残る足に力を込め、屋上床を蹴った。


 クラーケンの触手が一斉に襲いかかる。


 サキは避けない。

 茨を避雷針へ伸ばす。


 一本が避雷針の根元を掴み、もう一本が給水タンクの金属配管を縛る。三本目が屋上の補強フレームへ食い込み、四本目がクラーケンの胴体に巻きついた。


「何を――」


「引っ張る」


 サキは息を吐いた。


 自分の身体が軋む。

 肩が外れそうになる。

 腕の内側から生えた薔薇が骨に食い込み、痛みが白く弾けた。


 それでも離さない。


『サキ、今! 雷、来る!』


 イツキの声。


 空が裂けた。


 赤い雲の中から、白い雷が落ちる。

 避雷針へ。

 サキのローズウィップへ。

 クラーケンの濡れた身体へ。


 音が消えた。


 光だけがあった。


 雷はローズウィップを伝い、クラーケンの触手を焼き、雨水に溶けた魔導毒を逆流させた。クラーケンの再生膜が一瞬だけ硬直する。


 その一瞬で十分だった。


 サキは屋上の縁を蹴った。


 身体が空へ投げ出される。


 地上百数十メートル。

 赤い雨。

 黒いビルの谷間。

 避難警報。

 遠くで止まった交通の光。

 自分を呼ぶ通信の声。


 ローズウィップを軸に、サキの身体が振り子のようにビルの間を飛んだ。


 クラーケンも引きずられる。

 屋上に貼り付いていた触手が剥がれ、巨体が空へ浮く。水と粘液が雨のように散り、魔導広告の消えたビル壁面に赤い軌跡を描いた。


「あり得ない。RZ-X01の出力では――」


「わたしは」


 サキは空中で身体を捻った。


 茨が一本、細く鋭く集束する。

 刃ではない。槍でもない。

 命令核を引き抜くための、棘。


「RZ-X01じゃない」


 クラーケンの胸部。

 黒薔薇の紋章の奥。

 雨と雷で浮かび上がった、黒い結晶体。


 命令核。


 サキのローズウィップが、それを貫いた。


「わたしは、蒼原サキ」


 棘が核を抉る。


 クラーケンが叫んだ。


 それは怪物の咆哮だった。

 でも、最後の一瞬だけ、人の声が混じった気がした。


「M∴R∴は……おまえを……諦めない……」


 黒い核が砕けた。


 クラーケンの身体から力が抜ける。

 再生していた触手がほどけ、水に戻り、膜が崩れ、筋肉繊維が赤い光の粒になって散っていく。


 サキはローズウィップを避雷針へ巻き直そうとした。


 指が動かない。


 神経毒の痺れが戻ってきた。

 ロゼの補助も切れかけている。

 仮面の内側で警告音が鳴る。


『サキ!』


 イツキの声。


 サキは何とか笑おうとした。


「大丈夫」


 嘘だった。


 身体が落ちる。


 ビルの壁面が上へ流れていく。

 赤い雨が頬を叩く。

 地上の光が近づく。


 だが、ローズウィップが最後の力で屋上の手すりを掴んだ。

 サキの身体は大きく揺れ、壁に叩きつけられながらも、屋上の縁へ戻される。


 肩から落ちた。


 息が止まる。

 膝を打ち、手首を擦り、仮面の端が床にぶつかる。


 サキは屋上に倒れ込んだ。


 赤い雨は、もうほとんど降っていなかった。


 クラーケンの残骸は、屋上の隅で黒い水たまりになっている。水面には砕けた命令核の破片が浮かび、赤い光を失っていく。


 遠くで市民避難誘導のアナウンスが復旧した。


『ホウジュ区第七街区の魔導災害反応は低下傾向にあります。市民の皆様は係員の指示に従い――』


 その声も、サキには遠かった。


 身体が重い。

 腕が動かない。

 仮面が熱い。

 心臓の奥で、ロゼが眠るように沈んでいく。


『……今回は、まあまあだったな』


「……うるさい」


『呼ばれたら起きてやるよ、サキ』


 ロゼの声が消えた。


 代わりに、屋上扉が乱暴に開く音がした。


「サキ!」


 イツキが駆け込んできた。


 息を切らしている。

 髪は雨で乱れ、頬には煤がついていた。背負った工具バッグの肩紐が片方切れかかっている。片手には壊れかけた操作端末。もう片方の手には、飛行を終えた小型ドローンが一機、羽を閉じてぶら下がっていた。


 イツキは屋上の水たまりを踏み、滑りそうになりながらも、まっすぐサキのもとへ走ってきた。


「サキ、返事して。ねえ、どこ痛い? 毒は? 仮面、熱持ってる? 目、見える?」


「……質問、多い」


「答えられるなら答えて!」


 イツキは膝をつき、サキの肩に触れた。


 サキの身体が小さく震える。


 イツキはすぐに手を引きかけた。


「ごめん、痛かった?」


「違う」


 サキは首を振った。


 触れられるのが嫌だったわけではない。

 怖かっただけだ。


 自分の身体がまだ毒を持っているかもしれない。

 棘が勝手に出るかもしれない。

 仮面がまた制御信号を受けて、イツキを傷つけるかもしれない。


 でも、イツキの手は温かかった。


 雨で冷えたサキの肩を、壊れ物みたいに、けれど逃がさない強さで支えている。


「仮面、外すよ」


 イツキが言った。


 サキは一瞬、息を止めた。


 この仮面は、サキを隠すものだった。

 同時に、サキを縛るものだった。

 つけていればローゼンマスクになる。

 外せば、蒼原サキに戻れる気がする。


 でも、外しても本当に戻れるのか。

 素顔を見せた時、イツキが怖がったらどうしよう。


 サキは弱々しく笑った。


「見ないほうが、いいかも」


「見る」


「……怪物みたいな顔かもしれない」


「それ、サキが決めることじゃない」


 イツキは即答した。


 少し怒っている声だった。

 泣きそうなのを怒りで押さえている声でもあった。


「それに、仮面越しじゃ表情わかんない。サキが痛いのか、怖いのか、強がってるのか、ちゃんと見えない」


 イツキの指が、仮面の留め具に触れる。


 サキは目を閉じた。


 かちり、と小さな音がする。


 真紅の仮面が外れた。


 雨の冷たさが、直接顔に触れる。

 夜風が頬を撫でる。

 視界が少し広くなる。


 イツキは何も言わなかった。


 だからサキは怖くなって、目を開けた。


 イツキは、サキを見ていた。


 怯えてはいなかった。

 驚いてもいなかった。

 ただ、ひどく苦しそうな顔をしていた。


「……サキ、顔、傷できてる」


 イツキは工具バッグから小さな治療パッチを取り出し、サキの頬に貼った。


 それだけだった。


 怪物だとも。

 怖いとも。

 可哀想とも言わなかった。


 サキはそのことが、どうしようもなく苦しくて、少しだけ安心した。


「ごめん」


 声が零れた。


「ごめん。やっぱり、わたし、普通じゃない」


 イツキの手が止まった。


 サキは笑おうとした。

 笑えば、冗談みたいにできると思った。


「腕から薔薇とか出るし、仮面つけたら変な声聞こえるし、怪物に名前で呼ばれるし、ビルから落ちそうになるし……普通の子は、こんなことしない」


 イツキは黙って聞いていた。


 サキは続けた。


「イツキは、普通だから。普通の学校に行って、普通に笑って、普通に……」


「普通って、誰が決めたの?」


 イツキの声は静かだった。


 サキは言葉を止める。


「街の端末? 学校の名簿? M∴R∴? それとも、その仮面?」


 イツキは、外した仮面を睨んだ。


 真紅の仮面は屋上の床に置かれ、赤い雨の名残を受けて鈍く光っている。


「普通かどうかは知らない」


 イツキはサキの手を取った。


 その手は冷たく、震えていた。

 でも、逃げなかった。


「でも、サキでしょ」


 サキの喉が詰まった。


 返事をしようとした。

 うまく声にならなかった。


 イツキは困ったように笑う。


「それとも、あたしが知らないうちに名前変わった?」


 サキは小さく首を振った。


「変えてない」


「じゃあ、サキ」


「……うん」


「返事、ちっちゃい」


「うん」


「よし」


 イツキは満足そうに頷いた。


 その顔を見て、サキは初めて少しだけ笑えた。


 その時、屋上の隅で音がした。


 ぴしり、と。


 クラーケンの残骸。

 黒い水たまりの中に沈んでいた命令核の破片が、ひとつ、割れた。


 イツキが振り向く。


「まだ動くの?」


「違う……これは」


 サキは痛む身体を起こそうとした。


 黒い水面に、薔薇の紋章が浮かび上がっていた。


 先ほど街頭モニターに現れたものと同じ。

 黒い薔薇。

 花弁の奥に、眼のような空洞を持つ紋。


 紋章は水面に浮かんだまま、赤い光を一度だけ放った。


 その光が、空へ昇る。


 まるで信号弾のように。

 誰かへ、ここにいると知らせるように。


 サキの顔から血の気が引いた。


「……見つかった」


 イツキがサキの手を握り直す。


「誰に?」


 サキは仮面を見る。


 真紅のマスカレードマスク。

 M∴R∴の制御端末。

 自分をローゼンマスクと呼ぶ者たちの鎖。


 そして、クラーケンが最後に言った言葉。


 M∴R∴は、おまえを諦めない。


「わたしを作った人たち」


 サキは言った。


「わたしを、ローゼンマスクに戻そうとしてる人たち」


 イツキは一瞬だけ黙った。


 恐怖はあった。

 サキにはそれがわかった。

 握った手の力が、ほんの少しだけ強くなったから。


 でも、イツキは離さなかった。


「じゃあ、逃げよう」


「……イツキ」


「戦う時は戦う。でも今は逃げる。サキ、歩ける?」


「たぶん」


「たぶん禁止。肩貸す」


 イツキはサキの腕を自分の肩に回した。


 サキは反射的に腕を引こうとする。


「だめ。重いし、危ないし」


「サキ、今それ言える立場じゃない」


「でも、棘が出たら」


「出そうになったら、名前呼ぶ」


 イツキは顔を上げた。


 その瞳は、赤い雨の残りを映して揺れていた。

 でも、まっすぐだった。


「何回でも呼ぶ。サキが嫌になるくらい呼ぶ」


 サキは泣きそうになった。


 泣かなかった。

 泣いたら、屋上に立っていられなくなりそうだった。


「……うん」


 サキは小さく頷いた。


 イツキに支えられながら、屋上扉へ向かう。


 背後では、黒い薔薇の紋章が水面の中でゆっくり沈んでいった。


 ホウジュ区の空から、赤い色が薄れていく。

 魔導広告が一つ、また一つと復旧し、街に青と金の光が戻っていく。地上では人々が顔を上げ、何が起きたのかわからないまま、日常へ戻るために動き出していた。


 だが、ビル屋上に残された黒い水たまりの底で、砕けた命令核が最後の信号を送り終える。


 遠く、どこかの地下施設。


 暗い培養槽の並ぶ部屋で、眠っていた端末が起動した。


 黒い画面に、赤い文字が浮かぶ。


 RZ-X01

 Location Confirmed

 Rosen Mask Recovery Sequence Restart


 画面の前に、誰かの影が立つ。


 真紅のベール。

 艶やかなルージュ。

 片脚を覆う義体フレームの、微かな駆動音。


 その人物は、画面の中の名を見て、愛おしげに笑った。


「逃げた薔薇ほど、美しく咲くものよ」


 赤い雨は止んだ。


 けれど、帝都の夜に、黒い薔薇の香りだけが残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ