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第10話 白百合の王子

 カミハラ区の夜は、ホウジュ区よりも静かだった。


 ホウジュ区の夜は、いつも何かが鳴っている。

 屋台の呼び込み。魔導バイクの排気音。修理屋のシャッターが軋む音。高架下で流れる古い音楽。壊れかけの広告ホログラム。人の声。機械の声。どこかで起きている小さな喧嘩。


 だが、カミハラ区の研究棟街は違う。


 夜になれば、白い建物群は呼吸を止める。

 窓の多くは遮光され、警備ドローンは音もなく巡回し、道路の上を走る車も少ない。建物の隙間に植えられた人工樹木だけが、管理された風に葉を揺らしている。


 帝都大学を中心とする知の区画。

 女帝政府の認可研究所、魔導医療施設、機械人形の保守拠点、死都由来標本の封印庫、そして、表向きにはもう存在しない旧施設。


 旧帝都大学封鎖研究棟。


 それは、現在の地図ではただの空白だった。


 地上には、古い講義棟が残っている。

 窓は板で塞がれ、入口には封鎖結界と立入禁止の警告。建物の周囲には仮設フェンスが巡らされ、表向きは耐震調査中と表示されている。


 だが、フェンスの内側に入ると、空気が変わった。


 死都東京から持ち込まれたもの特有の、冷たい濁り。

 古い消毒液。凍結保存剤。劣化した魔導樹脂。錆びた鉄。名前のないものが眠る場所の匂い。


 サキは、その匂いを知っていた。


 肺の奥が強張る。

 腕の中で薔薇型ナノマシンが細く疼く。


 隣にいたイツキが、小さく声をかけた。


「サキ、大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 サキは正直に言った。


 イツキは頷く。


「うん。大丈夫じゃないまま行こう」


「うん」


 二人の横を、蜂型ドローンが三機飛んでいた。

 イツキのアピス・ユニットに同期した小型支援機。金色の翅は以前より安定しているが、静かな研究棟の夜にはその羽音さえ大きく感じられる。


 カリンは黒い外套を羽織り、大鎌をまだ出していない。けれど指先はいつでも刃を呼べる形に開かれていた。


 アリスは先頭に立ち、封鎖結界の前で足を止める。


「旧式の女帝政府封印印章を確認。表層は正規結界、深層はM∴R∴による上書きです」


「開けられる?」


 カリンが訊く。


「可能です。ただし、開封と同時に内部へ侵入が検知されます」


「どうせ中枢まで行くんだから、今さらだねぇ」


 サキは黙って研究棟を見上げた。


 地上の古い建物は、巨大な墓石のように見えた。

 その地下に、ユウリがいる。


 弟が。

 蒼原ユウリが。

 今はリリウムと呼ばれているかもしれない少年が。


 サキの胸の奥で、ロゼが低く呟く。


『気配が悪い』


「うん」


『あの白百合のやつ、たぶんただの被害者じゃ済まないぞ』


「わかってる」


『攻撃してくるかもしれない』


「それでも、ユウリだよ」


『……だろうな』


 ロゼはそれ以上言わなかった。


 アリスの指が封印印章へ触れる。


「開封します」


 青白い光が走った。


 封鎖結界が内側からほどけ、古い研究棟の扉が静かに開いた。


 中は暗かった。


 しかし、完全な廃墟ではない。


 床には最近磨かれた跡がある。壁の一部には新しいケーブルが這い、天井の監視カメラは死んだふりをしてサキたちを見ている。講義室の扉には古い名札が残っていたが、その下にM∴R∴の小さな黒薔薇紋が貼られていた。


 アリスが監視カメラを一つずつ無効化する。

 イツキの蜂が先行し、通路の熱源と魔導反応を拾う。

 カリンは後方を警戒する。


 サキは中央を歩いた。


 前衛。


 それはカリンが言った役割だった。

 でも、今のサキはただ敵を切り裂くために前へ出ているわけではない。


 ユウリに一番先に声が届く場所へ行くために、前にいる。


 地下への階段は、講義棟の奥にあった。


 降りるにつれて、空気が冷えていく。


 地下第一層。

 古い標本保管室。


 扉が開くと、サキは息を止めた。


 そこには、死都東京から回収されたものが並んでいた。


 黒い雪の結晶を閉じ込めた密閉容器。

 凍結した街路樹の枝。

 時間が止まったままの駅名標。

 半分だけ石化した自動販売機。

 影が貼りついたままのコンクリート片。

 人の形をしていたかもしれない黒い氷塊。


 棚の一つには、子ども用の赤いリュックが保存袋に入れられていた。


 サキは思わず足を止めた。


 ユウリのものではない。

 形も色も違う。

 それでも、あの日の駅前を思い出すには十分だった。


「サキ」


 イツキがそっと呼ぶ。


 サキは頷いた。


「行ける」


 声は少し掠れていた。


 地下第二層。


 凍結検体保管区。


 そこには、ガラス管が並んでいた。


 空のもの。

 液体だけが残ったもの。

 中に何かの輪郭が沈んでいるもの。

 すでに運び出されたあと、台座だけが残っているもの。


 サキの足が止まった。


 保管室の奥。

 ひとつのガラス管の前で。


 青白い液体は抜かれている。

 内側には乾いた跡が残り、外側の表示パネルは黒く焼けていた。けれど、そこに刻まれていた文字はまだ読めた。


 RZ-X01

 Rosen Mask Candidate

 Rose Factor Stabilization Completed


 サキはその場から動けなくなった。


 自分が眠っていた場所。


 あの日、夏の東京で弟の手を握ったあと。

 次に目覚めた場所。


 ガラスの内側から見た白衣の影。

 液体の中で泡になった叫び。

 誰かが自分をRZ-X01と呼ぶ声。

 弟の手がないことに気づいた瞬間の、あの冷たい空洞。


 サキの手が震える。


 イツキがすぐに近づいた。


「触っていい?」


 サキは答えられなかった。


 ただ、頷いた。


 イツキの手が、サキの指先に触れる。


 金色のアピス回路が淡く光る。

 サキの薔薇紋が微かに反応する。


「ここに、いたんだね」


 イツキの声は震えていた。


「うん」


「怖かったね」


 その一言で、サキの喉が詰まった。


 怖かった。

 言葉にすれば、それだけのことだった。


 けれど、誰もそう言ってくれなかった。

 M∴R∴は記録した。解析した。分類した。適合したと表示した。けれど、怖かったのだと誰も言わなかった。


 サキは小さく頷く。


「怖かった」


「うん」


「ユウリがいなかった」


「うん」


「わたしだけ、ここで」


「うん」


「でも、ユウリも、どこかにいた」


「うん。迎えに行こう」


 イツキはそう言って、サキの手を握った。


 サキはその手を強く握り返した。


 アリスが静かに告げる。


「奥に新しい搬送痕があります。ローゼン・プリンス保管区へ続いている可能性が高いです」


 カリンは部屋全体を見渡した。


「長居したくない場所だねぇ」


「うん」


 サキはガラス管から目を離した。


 過去はここにある。


 でも、ユウリはこの奥にいる。


 進まなければ。


 地下第三層へ降りると、研究棟はもう旧大学の施設ではなくなっていた。


 壁は生体樹脂で覆われ、黒いケーブルが血管のように脈打っている。培養槽の中には未完成のEXキメラが浮かび、時折、指や尾や羽根のようなものが液体の中で震えた。天井から垂れる管には、赤や白や青の魔導液が流れている。


 白い百合の紋章が、ところどころに刻まれていた。


 サキの胸が重くなる。


「リリウム……」


 その名を口にした瞬間、奥の扉が開いた。


 白い光が漏れる。


 そこから、一人の少年が歩いてきた。


 サキは息を止めた。


 小さな頃のユウリより、少し背が高い。

 けれど、顔立ちは確かに記憶の中の弟だった。やわらかい髪。細い首。あの日、駅前で泣いていた目に似た瞳。


 ただし、その瞳には感情がなかった。


 髪には、白百合の魔導紋が淡く浮かんでいる。

 胸元には、薄い白の戦闘服。首筋には金属の小さなリング。両手の甲には、命令核へ干渉するための術式回路が刻まれている。


 少年はサキを見た。


 でも、そこに姉を見る目はなかった。


『侵入者確認』


 冷たい声。


『対象、RZ-X01。ローゼン・マスク候補体。制御試験を開始します』


 サキの唇が震える。


「ユウリ……?」


 少年は反応しない。


『当個体名称、Lilium。ローゼン・プリンス制御核。ユウリという識別名は登録されていません』


 その言葉で、サキの胸の奥が裂けた。


 ユウリの声なのに。

 ユウリの顔なのに。

 ユウリの身体なのに。


 その口が、ユウリを否定している。


「違う」


 サキは一歩前へ出た。


「あなたは、ユウリ。蒼原ユウリ。わたしの弟」


『該当記録なし』


「あるよ。わたしが覚えてる」


『記録照合不能』


「手を握ってた。東京の駅前で、アイス買いたいって言って、でもジュース飲んだでしょってわたしが言って。空が割れて、黒い雪が降って、あなたが怖いって言って……」


『該当記録なし』


 リリウムの手が上がった。


 白百合の魔導紋が開く。


 サキの胸の奥で、Y核が凍った。


『っ……!』


 ロゼの声が途切れる。


 サキは目を見開いた。


「ロゼ?」


 返事がない。


 さっきまで胸の奥で燃えていた怒りが、一瞬で薄くなる。

 ロゼの熱が、白い霧に包まれたように遠ざかる。


 リリウムの能力。


 戦闘人格や命令核への干渉。

 ローゼン・プリンス。

 サキのロゼを沈黙させるために作られた、制御特化型の少年キメラ。


 サキの腕から伸びていた薔薇の茨が、力を失って床へ落ちた。


 カリンが大鎌を構える。


「サキちゃん、下がって!」


「だめ!」


 サキは叫んだ。


「攻撃しないで!」


「でも、あの子は――」


「ユウリなの!」


 サキの声に、カリンは歯を食いしばった。


 リリウムは無表情のまま、手を横へ動かした。


 白い術式が波のように広がる。


 アリスの魔導盾が展開される。

 白百合の干渉波が盾に触れ、青白い火花を散らした。


「対象の能力、命令核および人格核への鎮静干渉です。サキ様のY核反応が急速に低下。ロゼ様の応答を確認できません」


「ロゼ……」


 サキは胸を押さえる。


 怖い。


 ロゼがいない。

 怒りを支えてくれていた声がない。

 自分の中の棘が、白百合に包まれて動かない。


 それなのに、目の前には弟がいる。


 サキは攻撃できなかった。


 リリウムが一歩近づく。


『RZ-X01、グローリア出力低下。制御可能』


「ユウリ、やめて」


『ユウリではありません。当個体名称、Lilium』


「その名前は、あの人たちがつけた名前だよ」


『登録名です』


「あなたの名前は、ユウリ」


『該当記録なし』


「ある!」


 サキは叫んだ。


「わたしが覚えてる! イツキも覚えてる! シンの記録にも残した! ユウリは、消えてない!」


 リリウムの瞳が一瞬だけ揺れた。


 ほんの一瞬。


 だが、すぐに白百合の紋が強く光る。


『記録照合不能。制御継続』


 その時、部屋の奥から拍手が響いた。


 ゆっくりと。

 優雅に。

 舞台の幕が上がる時のように。


 マダム・ヴィーが現れた。


 真紅のベール。

 艶やかなルージュ。

 片脚を補助する美しい義体脚。

 手には細い杖。杖の先端には白百合と薔薇を絡ませた装飾がついている。


「素晴らしい再会ね」


 彼女は微笑んでいた。


「姉は泣きそうで、弟は何も覚えていない。けれど身体だけは互いを覚えている。ああ、やはり姉弟という素材は美しいわ」


 サキの身体が震える。


「ユウリに何をしたの」


「名前を消したの」


 マダム・ヴィーはあまりにも自然に答えた。


「姉への記憶も消した。泣き虫だった過去も、駅前で手を握っていたことも、黒い雪の下で震えていたことも。すべて邪魔だったから」


 サキの拳が震える。


 ロゼがいない。

 でも、怒りはある。


 自分自身の怒りが。


「返して」


「返す?」


 マダム・ヴィーは首を傾げた。


「名前は物ではないわ、サキ。奪われた名前を取り戻すには、呼ばなければ。思い出さなければ。本人が返事をしなければ。そうでしょう?」


 サキは言葉を詰まらせる。


 マダム・ヴィーは楽しそうに続けた。


「だから、試してみせて。あなたが本当に姉なら、その子を取り戻してみせなさい」


 リリウムは無表情でサキを見ている。


「呼びかけて。泣いて。怒って。手を伸ばして。拒絶されて。絶望して。それでも立ち上がる。そうしてローゼンマスクは完成する」


「わたしを、あなたの物語にしないで」


「もうなっているわ」


 マダム・ヴィーの声が甘くなる。


「あなたは弟を取り戻したい。愛しい蜜蜂はあなたを止めたい。内なるロゼは怒りで燃えている。でも、弟の白百合がその怒りを鎮める。姉は何もできず、最後に仮面へ手を伸ばす。完璧な構図よ」


 サキは唇を噛む。


 マダム・ヴィーの言う通りに進んでいる。

 ユウリを前にして、攻撃できない。

 ロゼは沈黙している。

 怒りはあるのに、形にならない。


 サキは一歩前へ出た。


「ユウリ」


 声が震える。


「覚えてないかもしれない。でも、聞いて。わたしは蒼原サキ。あなたのお姉ちゃん」


 リリウムは動かない。


「あなたは、蒼原ユウリ。夏の日に、一緒に駅前を歩いてた。アイスを買いたがって、お母さんに怒られるよって言ったら、わたしが怒られるんじゃなくて? って言った」


 記憶がこぼれる。


「黒い雪が降った時、あなたは怖いって言った。手を離さないでって言った。わたしは、離さないって言った」


 サキの声が濡れる。


「でも、離れちゃった。ごめん。ずっと、探してた。名前を変えなかったのは、あなたに見つけてもらうためだった。蒼原サキじゃないと、ユウリがわたしを探せないと思ったから」


 リリウムの白百合紋が揺れる。


 だが、返事はない。


『該当記録なし』


 その声は、あまりにも冷たかった。


 サキの膝が折れそうになる。


 届かない。


 自分の声が、弟に届かない。


 イツキが前へ出た。


「イツキ?」


 サキが驚く。


 イツキは怖がっていた。

 リリウムの干渉波は、アピス・ユニットにも影響している。蜂型ドローンの羽音は乱れ、イツキの腕の金色回路が不安定に点滅している。


 それでも、イツキはサキの前に立った。


「ユウリくん」


 イツキは言った。


 リリウムの視線が動く。


『該当個体、Apis Unit適合者。制御補助端末候補』


「違う。あたしはイツキ」


 イツキははっきり言った。


「サキの相棒」


 サキの胸が熱くなる。


 マダム・ヴィーが目を細めた。


「あら。蜜蜂が王子に語りかけるの?」


「はい」


 イツキはマダム・ヴィーを見なかった。


 ただ、リリウムを見ていた。


「ユウリくん。あたしは、あなたのことを知らない。昔のあなたと会ったこともない。あなたがどんな声で笑ったのか、どんなふうにお姉ちゃんって呼んだのかも知らない」


 サキは息を止める。


「でも、サキのことは知ってる」


 イツキの声が、少し震える。


「サキは、ずっとあなたを探してた。追われるなら名前を変えたほうが安全だってわかってても、変えなかった。蒼原サキのままでいた。あなたがいつか探しに来た時、見つけられるように」


 リリウムの瞳がわずかに揺れた。


 イツキは一歩近づく。


「サキは怖がりだよ。自分の身体が人を傷つけるかもしれないって、いつも怖がってる。なのに、誰かが危ないと逃げられない。敵の命令核だけを抜こうとして、名前を救えなかったって泣く。ローゼンマスクって呼ばれるのが嫌で、でも必要なら仮面を持って走る。ロゼっていう怒りも抱えてる。それでも、サキでいようとしてる」


「イツキ……」


「ユウリくん」


 イツキは続ける。


「あなたが覚えてなくても、サキは覚えてる。あなたが返事できなくても、サキは呼ぶ。だから、今すぐ思い出せなくてもいい。せめて、サキの声を消さないで」


 白百合の紋が強く揺れた。


 リリウムの指先が震える。


『……サ……』


 サキの心臓が跳ねた。


「ユウリ?」


『サ……』


 リリウムの目に、わずかな痛みが浮かぶ。


 命令核が、彼の胸元で赤白く明滅した。


 マダム・ヴィーが微笑む。


「ええ。いいわ。その揺らぎが欲しかったの」


 リリウムの身体が跳ねた。


『制御異常。姉弟リンク反応。ローゼン・プリンス命令核、強制安定化』


「やめて!」


 サキが叫ぶ。


 白百合紋が一気に開いた。


 その波が、研究棟全体へ広がる。


 地下施設の奥で、培養槽が一斉に割れた。


 警報が鳴る。

 赤い光が走る。

 未完成のEXキメラたちが液体の中から目を開ける。黒い植物の蔓が壁を突き破り、凍結検体の保管槽がひび割れ、標本室の死都由来魔導植物が急速に芽吹く。


 研究棟そのものが、目を覚まし始めた。


 アリスが叫ぶ。


「全域でEXキメラ反応上昇。白百合核が中枢命令系統と接続されました」


 カリンが大鎌を構える。


「つまり?」


「ユウリ様の命令核が暴走し、施設全体を制御下に置いています」


 壁を突き破って、未完成キメラが現れた。

 腕の代わりに鎌状の骨を持つもの。背中に羽根の痕跡があるもの。顔のない獣。薔薇と百合の蔓に縫われた人工生物。


 カリンが前へ出る。


「アリスちゃん、雑魚は任せた」


「了解。殺傷を避け、停止を優先します」


「サキちゃん!」


 カリンの声に、サキはリリウムを見たまま答える。


「わかってる」


 イツキがサキの手を握った。


「サキ」


「うん」


「ロゼは?」


「沈黙してる。でも、たぶんいる」


「うん」


「ユウリを傷つけずに止める」


「うん」


「命令核だけを抜く」


「できる?」


 サキは息を吸った。


 ユウリの命令核は、アラクネやノーガとは違う。

 白百合の制御波がサキのY核を沈め、ローズウィップの出力を鈍らせる。弟を傷つけたくないという感情も、足を止める。


 普通に戦えば、止められない。


 だから、必要だった。


 仮面。


 サキは腰のケースから、真紅のマスカレードマスクを取り出した。


 それを見たマダム・ヴィーの唇が美しく弧を描く。


「ああ、やはり」


 イツキの手に力が入る。


「サキ」


「大丈夫」


「本当に?」


「怖い」


 サキは正直に言った。


「すごく怖い。これを被ったら、またローゼンマスクになる気がする。あなたの言う通りになる気がする」


 マダム・ヴィーが笑う。


「でも、被るのでしょう?」


「うん」


 サキは仮面を見る。


 真紅の仮面。

 自分を縛ってきたもの。

 名前を隠したもの。

 M∴R∴の首輪。

 マダム・ヴィーの美学。


 でも、イツキが書き換えた術式がある。

 アリスが追加した遮断層がある。

 ロゼと一緒に戦うと決めた自分がいる。


 これは、もう完全に敵の道具ではない。


 意味は、変えられる。


 サキはイツキを見る。


「手、少しだけ離すね」


 イツキの目が揺れる。


「戻ってくる?」


「戻ってくる」


「名前、呼ぶよ」


「うん。呼んで」


「サキ」


 イツキが言った。


「蒼原サキ」


 その名前を胸に刻む。


 サキは仮面を顔へ近づけた。


 マダム・ヴィーの声が甘く響く。


「おかえりなさい、ローゼンマスク」


 サキは仮面を被った。


 視界が赤く染まる。


 術式が走る。

 神経へ接続。

 ローズウィップ運用補正。

 グローリア・モード待機。

 RZ-X01認証。

 ローゼンマスク――。


 その文字を、サキは内側から踏み潰した。


「違う」


 仮面の薔薇紋が光る。


 サキは顔を上げた。


「ローゼンマスクとしてじゃない」


 髪が紅く染まる。

 だが、サキの意識は消えない。

 ロゼの沈黙したY核の奥に、ほんの小さな熱が戻る。


『……聞こえる』


 ロゼの声が、遠くで掠れた。


 サキは小さく笑った。


「ロゼ」


『白百合の霧がうざい。けど、まだいる』


「一緒に」


『言われなくても』


 サキはローズウィップを展開した。


 真紅の仮面の奥で、瞳はまっすぐリリウムを見ている。


「蒼原サキとして、戦う」


 白百合の少年――ユウリが、無表情に手を上げた。


 研究棟全体が、薔薇と百合の迷宮へ変わり始める。


 その中心で、姉は弟を傷つけずに止めるため、初めて自分の意思で仮面を選んだ。

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