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第11話 殺戮の薔薇

 研究棟が、咲いていた。


 カミハラ区地下、旧帝都大学封鎖研究棟。


 そこはもともと、死都東京から回収された標本を保管するための地下施設だった。凍結検体、黒い雪の結晶、死都由来の魔導植物、未完成のEXキメラ、名前を削られた記録核、命令核の抜け殻。人間が扱うには危険すぎるものを、白い壁と封印結界の奥に閉じ込めておくための場所。


 だが今、その白い壁は裂けている。


 壁の中から、薔薇の根が伸びていた。


 黒いケーブルと混ざり合った赤い蔓。

 培養槽の割れ目から溢れる魔導液。

 凍結標本を突き破って芽吹く、死都由来の花。

 床を這う白百合の紋。

 天井から垂れ下がる薔薇の蕾。

 その蕾の中で眠っていた未完成のEXキメラが、ひとつ、またひとつと目を開ける。


 地下施設全体が、生体迷宮へ変わっていく。


 赤い薔薇と白い百合。

 黒い雪と青白い培養液。

 死都の魔気と、M∴R∴の命令術式と、サキのローズ因子。


 それらが絡み合い、腐った花園のように咲き乱れていた。


 その中心で、マダム・ヴィーは陶然と微笑んでいた。


「美しいわ」


 真紅のベールの奥で、ルージュだけが艶やかに笑う。


「やはりあなたは、わたくしの最高傑作」


 サキは仮面の奥から、彼女を見た。


 真紅のマスカレードマスク。

 かつてM∴R∴が作った制御端末。

 サキをローゼンマスクという兵器名へ閉じ込めるための首輪。


 けれど今、サキは自分の意思でそれを被っている。


 仮面の内側で、視界補正が走る。

 ローズウィップの軌道が映る。

 敵性反応、命令核の位置、白百合の制御波、研究棟全体の生体反応が赤い線で可視化される。


 そのどれもが、サキを縛るためではなく、サキが選ぶための情報としてそこにあった。


 サキは言った。


「わたしは、あなたの作品じゃない」


 声は震えていなかった。


 仮面の奥で、サキの瞳はまっすぐマダム・ヴィーを見ている。


「蒼原サキ。ユウリの姉で、イツキの相棒で、ロゼと一緒に戦うわたし。あなたが作った名前じゃない」


 マダム・ヴィーは嬉しそうに首を傾けた。


「ああ、その反抗。なんて甘美なの。自分を作品ではないと言い張る作品ほど、美しいものはないわ」


「聞いてないんだね」


「もちろん聞いているわ。けれど、あなたが何と言おうと、物語は進む。薔薇は咲き、百合は鎮め、蜜蜂は名を呼ぶ。すべて、わたくしの舞台の上で」


 サキの胸の奥で、ロゼが低く笑った。


『あの女の舞台、踏み荒らしてやろうぜ』


「うん」


 イツキが隣にいた。


 左腕のアピス回路が金色に光っている。

 蜂型支援ドローンが六機、彼女の周囲を飛んでいた。完全な群制御ではない。まだ危うい。白百合の制御波に触れるたび、羽音は乱れ、イツキの顔色は悪くなる。


 それでも、彼女は下がらなかった。


「サキ、右の壁。培養槽、割れる」


「わかった」


 サキはローズウィップを伸ばした。


 茨の鞭が壁を這い、割れかけた培養槽の縁を縛る。中で暴れていた未完成キメラが外へ飛び出す前に、アリスの魔導盾がその全体を包み込んだ。


「封印処理、完了」


 アリスは淡々と告げる。


 カリンは前方で大鎌を振るい、白百合の蔓に絡みつかれたEXキメラの進路を断っていた。斬る。だが、殺さない。脚を止め、命令線を断ち、進行方向を変えさせる。


 その奥に、リリウムが立っていた。


 白百合の少年。

 ユウリの顔をした、ローゼン・プリンス。


 彼は無表情のまま、手を上げている。髪に浮かぶ白百合の紋は、研究棟全体の命令系統へ接続されていた。彼の命令核が暴走するたび、施設のどこかでEXキメラが目覚める。彼の呼吸に合わせて、薔薇と百合の蔓が生き物のように蠢く。


 サキは彼を傷つけたくない。


 だが、止めなければ、研究棟そのものが帝都の地下へ根を伸ばす。


 マダム・ヴィーはその迷いさえ、美しいものとして眺めている。


「さあ、蒼薔薇。弟を守りたいのでしょう? ならば戦いなさい。けれど彼を傷つけてはならない。あなたの怒りも、愛情も、恐怖も、すべてこの花園を育てる肥料になる」


「あなたのためには使わせない」


 サキが一歩踏み出した瞬間、迷宮の奥から獣の咆哮が響いた。


 薔薇の壁が破裂する。


 そこから、黒い巨体が飛び出してきた。


 ノーガだった。


 かつてツインタワー地下でサキと戦った犬型EXキメラ。

 だが、その姿は以前よりもさらに歪んでいた。黒い獣毛の下に生体装甲が増設され、両腕の鉤爪は大型化し、背中からは追跡用の感覚器だけでなく、白百合の制御針が何本も突き出している。胸部には亀裂の入った命令核があり、その周囲を赤黒い薔薇の根が縫うように覆っていた。


 理性は、ほとんど残っていない。


 赤い目がサキを捉える。


「ロォォ……ゼン……マスク……!」


 声は割れていた。


 以前のような挑発も、嘲笑もない。

 ただ、命令だけが喉を引き裂いて出ている。


『対象、RZ-X01。排除。回収。排除。回収。排除』


 ノーガは自分の言葉を持っていなかった。


 命令核が、壊れかけた身体を無理やり動かしている。


 カリンの顔が険しくなる。


「限界まで改造されてる。あれ、長くは保たないよぉ」


 アリスが解析を走らせる。


「命令核の過負荷を確認。肉体損壊率、危険域。停止させなければ自壊します」


 ノーガが床を蹴った。


 巨体が弾丸のように飛ぶ。


 サキはローズウィップを構えた。


 仮面の視界が、彼の動きを補正する。

 右爪。左脚。背中の制御針。胸部命令核。白百合補助線。損傷部位。再生経路。


 見える。


 以前より、ずっとよく見える。


 だからこそ、わかってしまう。


 このまま正面から倒せば、ノーガの身体は命令核ごと砕ける。

 それは簡単だ。

 でも、それでは救えない。


 イツキが叫んだ。


「サキ、胸の核じゃない!」


 蜂型ドローンがノーガの周囲を飛ぶ。

 金色の視界が命令系統を読み取り、赤いマーキングを空中に描いた。


「胸の命令核は囮! 本命は背中の白百合針の根元! そこから命令が上書きされてる!」


「わかった!」


 ノーガの爪が迫る。


 サキは正面から受けなかった。

 ローズウィップの一本で天井の薔薇蔓を掴み、身体を横へ引く。爪が床を抉り、黒い大理石ごと生体樹脂を裂いた。


 ロゼが短く言う。


『右から来る』


「うん」


 サキは身体を反転させる。


 ノーガの尻尾状に伸びた感覚器が鞭のように振るわれる。サキの頬を掠め、仮面の縁に火花が散った。


 ロゼが怒る。


『頭を落とせば早い』


「だめ」


『わかってる。言ってみただけだ』


「言わないで」


『じゃあ、背中を開ける。サキ、抜け』


「うん」


 サキのローズウィップが二本に分かれた。


 一本はノーガの鉤爪を絡め取る。

 もう一本は床を走り、彼の脚を縛る。

 サキは力任せに引かない。相手の突進力を利用し、関節の動きをずらす。


 ノーガの巨体が傾いた。


 カリンがそこへ滑り込む。


「開けるよぉ」


 大鎌の刃が、ノーガの背中の装甲だけを斬った。肉を深く裂かない。制御針を固定する外殻だけを削る。黒い破片が散り、白百合の針の根元が露出した。


 ノーガが吠える。


「ガアアアアアッ!」


 痛みではない。


 命令核が異常を検知して、身体を暴れさせている。


 イツキの蜂が赤いマーキングを強める。


「サキ、今!」


 サキは踏み込んだ。


 ノーガの赤い目がサキを捉える。


 その奥に、一瞬だけ、別の色が見えた。


 人間だった頃の目。


 サキは息を呑む。


 だが、止まらない。


「あなたを殺すためじゃない」


 ローズウィップが伸びる。


「命令を、切る」


 茨の先端が、白百合針の根元へ入り込んだ。


 マダム・ヴィーが目を細める。


「あら」


 サキは歯を食いしばった。


 命令核は深く根を張っていた。

 ノーガの神経、記録核、再生制御、白百合の補助線。そのすべてが絡み合い、引き抜けば身体ごと壊れそうになる。


『乱暴にやるな』


 ロゼが言った。


「わかってる」


『違う。もっと怒れ。でも、手は丁寧にしろ』


「難しいこと言うね」


『あんたならできる』


 サキは息を吸った。


 怒っている。


 ノーガをこうしたM∴R∴に。

 名前を奪い、理性を削り、命令だけで身体を動かしているこの支配に。

 その怒りを、刃ではなく指先に変える。


 ローズウィップが細くほどけた。


 無数の赤い根が、白百合針と命令核の隙間に入り込む。

 切るのではなく、ほどく。

 裂くのではなく、剥がす。

 命令だけを、身体から引き離す。


 ノーガの咆哮が途切れた。


 赤い目が揺れる。


 サキは最後の一本を掴んだ。


「抜くよ」


 返事はなかった。


 けれど、ノーガの喉が小さく震えた。


 サキはローズウィップを引いた。


 白百合の命令核が、ノーガの背中から引き抜かれた。


 黒と白の結晶体が、茨に絡め取られて空中へ出る。

 同時に、ノーガの身体から力が抜けた。


 巨体が倒れる。


 カリンが支えようとしたが、重すぎる。アリスが魔導盾を床に展開し、衝撃を和らげた。


 ノーガは床に横たわった。


 赤い目の光が消えていく。


 サキは仮面をつけたまま、彼のそばに膝をついた。


「聞こえる?」


 ノーガの口がわずかに動いた。


 獣の声ではなかった。


 壊れかけた、人間の声だった。


「俺の……名前は……」


 サキは身を乗り出す。


「うん。教えて」


「おれ……は……」


 だが、その先は出なかった。


 喉が震え、息が漏れ、言葉にならない音だけが残る。


 名前は、もう失われていた。


 それでも、ノーガの目はさっきまでとは違っていた。


 命令ではなく、自分で何かを思い出そうとする目。


「……わる、かった」


 最後に、それだけ言った。


 誰に向けた謝罪なのか、サキにはわからなかった。


 サキにか。

 かつて傷つけた誰かにか。

 自分自身にか。


 ノーガの身体から、白百合の制御光が消えた。


 完全に救えたわけではない。

 名前は戻らなかった。

 人間の姿にも戻らない。


 でも、命令からは解放された。


 サキは命令核を握りつぶさなかった。

 茨で包み、静かに床へ置いた。


「あなたの名前、わたしにはわからない」


 サキは言った。


「でも、命令だけの怪物じゃなかったことは、忘れない」


 ノーガの目が、ほんの少しだけ細くなった。


 笑ったのかもしれない。


 次の瞬間、彼の身体は黒い灰になって崩れ、薔薇の根に吸われることなく、床の上に静かに残った。


 マダム・ヴィーの拍手が響く。


「素晴らしい」


 サキは立ち上がった。


 仮面の奥で、目が冷えている。


「何が」


「殺戮の薔薇が、殺さずに刈り取る。ああ、なんて皮肉で美しい完成形」


「違う」


 サキのローズウィップが、床に置かれた命令核の周囲を守るように広がった。


「殺戮の薔薇は、命を奪う薔薇じゃない」


 イツキがサキを見る。


 カリンも、アリスも、マダム・ヴィーも、白百合の少年も、動きを止めた。


 サキはゆっくりと言った。


「名前を奪う支配を刈り取る薔薇」


 胸の奥で、ロゼが笑った。


『いいじゃん』


「うん」


「あなたたちが奪った名前を、全部取り戻せるわけじゃない。アラクネの名前も、ノーガの名前も、わたしは救えなかった。でも」


 サキはマダム・ヴィーを見据える。


「命令だけは、断ち切れる。あなたが貼った仮面も、あなたがつけたコードも、あなたが作った物語も、刈り取れる」


 マダム・ヴィーの笑みが深くなる。


「では、刈ってみなさい」


 彼女が杖を掲げた。


 白百合の紋が、リリウムの胸で強く光る。


 サキの足元から、白い花弁が舞い上がった。


 その花弁は、ただの花ではなかった。

 記憶干渉の術式。

 名前認識を曇らせる夢の館の粉。

 白百合の制御波に乗せられた、マダム・ヴィーの仮面術式。


 それが、サキの仮面へ流れ込む。


 マダム・ヴィーが囁く。


「では、次はあなた自身を刈ってみましょう」


 リリウムが両手を上げた。


 姉弟の核が、強制的に接続される。


 サキの胸が裂けるように痛んだ。


 X核が揺れる。


 記憶、名前、感情、弟への思い、イツキへの想い。

 それらを束ねていた青い核が、白百合の制御波に触れて崩れ始める。


 視界が白くなる。


 サキは膝をついた。


「っ……!」


 仮面の内側に文字が走る。


 RZ-X01

 Rosen Mask

 Sister-Link Established

 X-Core Destabilizing

 Name Anchor Lost


 名前。


 自分の名前。


 蒼原――。


 サキは思い出そうとした。


 だが、白い花弁が記憶の上に積もっていく。


 夏の東京。

 弟の手。

 イツキの修理屋。

 ホウジュ区の朝。

 赤い雨。

 アラクネの白い糸。

 ツインタワーの蜂。

 ロゼの声。


 すべてが、花びらに覆われていく。


「わたし……」


 声が震える。


 マダム・ヴィーの声が甘く響く。


「そう。名前は重いでしょう。怖いでしょう。持っているから痛むの。なら、手放してしまいなさい」


 サキの仮面が熱を帯びる。


「あなたはローゼンマスク。殺戮の薔薇。姉でも、少女でも、相棒でもない。ただ、美しく戦うための――」


「違う!」


 イツキの声が響いた。


 サキは顔を上げようとした。


 だが、視界が定まらない。


 イツキの姿がいくつもに分かれて見える。

 蜂の羽音が遠く、近く、何重にも重なる。


 イツキは左腕を掲げていた。


 アピス・ユニットを全展開する。


 蜂型ドローンが六機、十機、十二機。

 訓練用に制限されていた小型機体が、研究棟内のM∴R∴通信網へ接続される。危険な接続だった。逆侵入されれば、イツキの名前もまた曇らされる。


 アリスが警告する。


「イツキ様、負荷が危険域です」


「切らないで!」


 イツキは叫んだ。


 額に汗が浮かぶ。

 左腕のアピス回路が金色に発光し、皮膚の上に蜂の巣状の光が広がっていく。


 痛みがあるはずだった。

 恐怖もあるはずだった。


 それでも、イツキは一歩も下がらない。


「サキの名前を、流す」


 イツキは端末へ指を叩きつける。


 蜂型ドローンが、研究棟内の通信網へ侵入した。

 M∴R∴の命令系統。

 白百合の制御波。

 仮面術式の名前上書き。

 そのすべての隙間に、イツキはひとつの名前を書き込む。


 蒼原サキ。


 蒼原サキ。


 蒼原サキ。


 蜂の羽音が、名前を運ぶ。


 壊れた監視カメラへ。

 培養槽の端末へ。

 白百合の制御線へ。

 薔薇の根へ。

 仮面の内側へ。

 サキのX核へ。


 イツキの声が、通信網全体に流れた。


「蒼原サキ。蒼原サキ。蒼原サキ」


 サキは白い花弁の中で、その声を聞いた。


「聞こえる? あたしが呼んでる。サキ、戻ってきて」


 サキ。


 その名前が、遠くで光る。


 でも、白い花弁はまだ降っている。


 自分の名前が遠い。

 イツキの声も、手も、顔も、少しずつぼやけていく。


 サキは心の奥で膝をついていた。


 そこは、白い花園だった。


 何もない場所。

 薔薇もない。蜂もいない。東京の駅前も、ホウジュ区の修理屋も、ツインタワーもない。


 ただ、白百合の花びらだけが降っている。


「わたしは……」


 声が自分のものかどうかもわからない。


 その時、赤い棘が白い花園を突き破った。


 ロゼが立っていた。


 紅い髪。

 鋭い目。

 乱暴な口元。

 サキによく似ていて、でもサキではない少女。


 ロゼは肩に赤い茨を担ぎ、呆れたようにサキを見下ろしていた。


「何してる」


「ロゼ……」


「呼ばれてるぞ、サキ。返事しろ」


 サキは顔を上げる。


「でも、名前が」


「あるだろ」


 ロゼは白い花弁を踏みつけた。


「イツキがあれだけうるさく呼んでる。蒼原サキ、蒼原サキ、蒼原サキって。蜂の羽音まで全部あんたの名前だ。これで忘れるほうが難しい」


「でも、ユウリが」


「ユウリを助けに来たんだろ。なら、まずあんたが戻れ」


 ロゼは手を差し出した。


 初めてだった。


 ロゼが、サキに手を差し出したのは。


「怒りも、怖さも、全部持って戻れ。あんたが消えたら、アタシだけじゃ意味がない」


「ロゼは、わたしがいなくても戦える」


「戦えるよ」


 ロゼは即答した。


「でも、それじゃローゼン・ドールと同じだ。命令はなくても、怒りだけの空っぽだ。アタシは、あんたがいて初めてロゼなんだよ」


 サキの胸が震えた。


「わたしも」


「あ?」


「わたしも、ロゼがいてくれてよかった」


 ロゼは目を逸らした。


「今言うな、そういうの」


「今じゃないと言えない」


「面倒くさい女だな、ほんと」


 それでも、ロゼの手は下がらない。


 サキはその手を取った。


 熱い。


 怒りの熱。

 守るための棘。

 生き延びるために生まれた声。


 その向こうから、イツキの声が届く。


「サキ!」


 サキは目を閉じ、息を吸った。


 白い花弁が散っていく。


 名前が戻る。


 蒼原サキ。


 ユウリの姉。

 イツキの相棒。

 ロゼと一緒に戦う少女。

 殺戮の薔薇の意味を、自分で変える者。


 サキは目を開いた。


 現実へ戻る。


 仮面の内側に走っていたRZ-X01の文字が、砕けて消えた。


 イツキが叫ぶ。


「サキ!」


 サキはゆっくり立ち上がった。


「うん。ただいま」


 その一言で、イツキの目に涙が浮かんだ。


「おかえり」


「泣くの、あと」


「サキが言うの?」


「イツキの真似」


 イツキは泣きそうなまま笑った。


 サキの髪が紅く染まる。


 だが、今度は暴走ではなかった。


 仮面の薔薇紋が、サキの意思に合わせて静かに開く。

 ローズウィップが背後に咲く。一本、二本、三本、六本。

 それぞれが獣のように暴れるのではなく、サキの呼吸と同期してしなやかに揺れている。


 X核は安定している。

 Y核も沈んでいない。

 青と赤の光が、サキの胸の中で重なっている。


 アリスが解析結果を告げた。


「グローリア・モード、発動」


 カリンが笑う。


「暴走じゃないねぇ」


 アリスは頷いた。


「完全制御状態です」


 マダム・ヴィーの笑みが、初めてわずかに歪んだ。


「……美しいわ」


 それでも彼女は笑おうとした。


「けれど、わたくしの想定より――」


「違う」


 サキはマダム・ヴィーを見た。


 仮面の奥で、瞳は赤と青を宿している。


「これは、あなたの想定じゃない」


 ロゼの声が重なる。


『アタシたちの選択だ』


 サキはローズウィップを広げた。


 研究棟全体に張り巡らされた白百合の制御線が、仮面の視界に浮かび上がる。ユウリの命令核へつながる線。マダム・ヴィーの仮面術式へつながる線。M∴R∴の中枢へ伸びる線。


 サキはそのすべてを見た。


 殺すためではなく。


 奪われた命令を刈り取るために。


「行くよ、ロゼ」


『遅いくらいだ』


「イツキ」


「見てる。マーキングする。サキの名前も、ユウリくんの名前も、絶対消させない」


「うん」


 サキは一歩踏み出した。


 白百合の少年が、無表情のまま手を上げる。

 マダム・ヴィーが杖を掲げる。

 研究棟の薔薇園が、最終実験のために咲き乱れる。


 その中心へ、完全制御されたグローリアの薔薇が走った。


 殺戮の薔薇。


 その名はもう、命を奪うためのものではない。


 名前を奪う支配を、刈り取るための薔薇だった。

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