第12話 蒼薔薇と蜜蜂の少女たち
薔薇園の奥へ、二人の少女が走っていた。
カミハラ区地下、旧帝都大学封鎖研究棟。
そこはもう、研究施設ではなかった。白い壁は裂け、黒い魔導ケーブルは根になり、培養槽の割れ目から赤い蔓が這い出している。天井では死都由来の魔導植物が花を開き、床には白百合の紋が脈打ち、壁の奥から未完成のEXキメラたちが低く呻いていた。
施設全体が、生きた迷宮になっている。
けれど、サキはもう立ち止まらなかった。
真紅のマスカレードマスクをつけたまま、前を走る。
髪は紅く染まり、背後には六本のローズウィップが咲いている。怒りに任せて暴れる薔薇ではない。一本一本が、サキの呼吸に合わせてしなやかに揺れ、床の亀裂、壁の棘、襲い来るキメラの命令核を正確に捉えていた。
そのすぐ後ろに、イツキがいる。
左腕のアピス回路は金色に輝き、蜂型ドローンが彼女の周囲を飛んでいる。索敵用、通信補助用、命令核マーキング用、結界補助用。小さな蜂たちは、かつてイツキを檻に閉じ込めるために作られた技術だった。
だが今は違う。
蜂たちは道を開く。
「サキ、右上!」
「見えた!」
壁から飛び出した骨の槍を、サキはローズウィップで絡め取って引き裂いた。続いて天井から落ちてきた未完成キメラの胴体を、斬らずに横へ逸らす。その背中に埋め込まれた命令核を蜂が示し、サキの細い茨がそれだけを抜き取った。
キメラは床に崩れる。
死なせない。
止める。
それが、今のサキの戦い方だった。
背後では、アリスが青白い結界を張っていた。崩れた壁の破片を押し戻し、暴走した培養槽を封じ、白百合の制御波がイツキへ逆流しないよう遮断する。
「左通路、崩落します。三秒以内に通過してください」
「三秒って短いねぇ!」
カリンが笑いながら大鎌を振るった。
落ちかけていた天井梁が、黒い刃で砕かれる。砕かれた破片はアリスの結界に受け止められ、通路の両脇へ流れた。
カリンは最後尾にいた。
誰かが追ってきても斬り払える位置。
誰かが倒れたら引き戻せる位置。
逃げ道を確保するための位置。
サキは一度だけ振り返る。
「カリン、アリス!」
「こっちは平気だよぉ。主役二人は前だけ見て」
「サキ様、イツキ様。最深部まで残り百二十メートル。リリウム様の生命反応を確認しています」
ユウリ。
その名を聞くだけで、サキの胸は痛んだ。
弟はこの奥にいる。
白百合の王子、リリウムとしてではなく。
蒼原ユウリとして、取り戻すべき相手として。
サキは走る。
イツキが隣に並んだ。
「サキ」
「うん」
「もう一人で突っ込んでないね」
こんな時に、そんなことを言う。
サキは少しだけ笑った。
「イツキが隣にいるから」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
イツキは即答した。
「でも、サキも怖いでしょ」
「うん」
「じゃあ、おそろい」
「それ、今言う?」
「今言う」
蜂型ドローンが二人の前方へ広がり、崩れかけた通路の奥に青い誘導線を描いた。
「だって、あたしたち、もう逃亡者と巻き込まれた子じゃないでしょ」
サキはその言葉を胸の奥で受け止めた。
逃げていた少女。
巻き込んでしまった少女。
そうではない。
共に戦う相棒。
「うん」
サキは頷いた。
「行こう、イツキ」
「うん、サキ」
二人は最深部の扉へ飛び込んだ。
そこは、巨大な温室のような部屋だった。
地下にあるはずなのに、天井は高く、淡い月光のような光が降っている。床には黒い根と赤い薔薇の蔓が絡み、中央には白百合の紋を刻んだ円形の舞台があった。周囲の壁には無数の記録核が埋め込まれている。人の名前だったもの。被験者の番号。夢の館で奪われた仮名。M∴R∴の検体記録。割れた仮面。白い花弁。
その中央に、ユウリがいた。
白百合の少年。
リリウム。
床から伸びる白い蔓に包まれ、胸元の命令核は強く明滅している。髪に浮かぶ白百合の魔導紋は、暴走する研究棟と接続されたままだ。彼の瞳は開いているが、焦点はない。
そして、その後ろに、マダム・ヴィーが立っていた。
ただし、彼女は以前の車椅子の女主人ではなかった。
真紅のベール。
艶やかなルージュ。
片脚を補う金属義肢。
薔薇の外骨格。
肩から背中へ広がる赤い機械花弁。
義体脚は床の根を踏みしめ、杖は槍のように変形し、腰には夢の館の仮面が幾枚も重なっている。
それは、人の身体というより、マダム・ヴィー自身が自分を「作品」として仕立てた姿だった。
だが、アリスの解析表示が告げる。
「対象、本体反応なし。遠隔操作型戦闘義体です」
カリンが舌打ちする。
「やっぱり本人は出てこないか」
マダム・ヴィーは笑った。
「当然でしょう。女主人は、舞台のすべてを見渡せる場所にいなければ」
その声は、義体の口から出ているのに、どこか遠かった。
夢の館の奥、赤いカーテンの向こうから響いてくるような声。
「けれど、これはただの人形ではないわ。夢の館で美しく整えた名なき者たち。M∴R∴が磨き上げた被験者たち。忘れられた記録核。剥がされた名前。すべてを組み込んだ、わたくしのための礼装」
義体の背中で、赤い花弁が開いた。
そこに埋め込まれた小さな記録核が、一斉に光る。
声がした。
誰かの笑い声。
泣き声。
助けを呼ぶ声。
番号で返事をする声。
名前を思い出せないまま消えていった声。
サキのローズウィップが震えた。
怒りで。
ロゼが低く言う。
『最悪の趣味だな』
「うん」
サキはマダム・ヴィーを見る。
マダム・ヴィーは、まるで講義でも始めるように両腕を広げた。
「人は、自分で自分を定義できない。誰もが誰かの視線を欲し、誰かの言葉で形を得る。ならば、より美しく描ける者が、その者の意味を与えてあげるべきなのよ」
ルージュが笑う。
「名前も、役割も、記憶も、関係も。粗末なまま放置するより、わたくしが美しく仕立て直したほうが幸せでしょう?」
「違う」
サキは即答した。
仮面の奥で、声はまっすぐだった。
「名前は、呼んでくれる人がいて、自分で返事をして、初めて自分のものになる」
イツキがサキの隣へ立つ。
蜂たちが二人の周囲で羽音を立てる。
「勝手に描かれるものじゃない。勝手に奪われるものでもない。誰かに呼ばれて、自分で返事して、間違えたら言い直して、忘れそうになったらまた書いて、そうやって守るものだよ」
マダム・ヴィーはイツキを見た。
「蜜蜂。あなたは、本当にその子の横に立つのね」
「立つよ」
「彼女は兵器よ」
「サキだよ」
「怪物よ」
「サキだよ」
「ローゼンマスクよ」
イツキは一歩も引かなかった。
「それも、サキが選ぶならサキの名前になる。でも、あなたが勝手に貼るなら違う」
サキはイツキを見た。
胸の奥が熱い。
ロゼが小さく笑った。
『ほんと、強いな、あの子』
「うん」
マダム・ヴィーの義体脚が床を鳴らす。
「では、選ばせてあげましょう」
彼女の杖が、ユウリの背に触れた。
白百合の紋が一気に光る。
ユウリの身体が前へ出た。
サキは反射的にローズウィップを引いた。
攻撃できない。
マダム・ヴィーは、その一瞬の迷いを笑った。
「弟を盾にされたら、あなたは止まる。想定通りだわ」
ユウリが手を上げる。
白百合の制御波がサキへ向かって広がる。ロゼの熱が鈍り、仮面の内側に警告が走る。Y核沈静。ローズウィップ出力低下。
サキは歯を食いしばる。
攻撃すれば、弟を傷つける。
止まれば、研究棟ごと飲まれる。
一人で選ぼうとすれば、どちらかを失う。
その時、イツキがサキの手を握った。
「一人で選ばなくていい」
サキは息を止める。
イツキの手は震えていた。
怖いのだ。
でも、離さない。
「あたしも一緒に選ぶ」
サキの目が揺れる。
「イツキ」
「ユウリくんを傷つけないで止める。できるでしょ、サキ」
「でも、白百合が」
「マーキングする」
イツキのアピス回路が強く光った。
蜂型ドローンが一斉に展開する。
一機がユウリの背後へ。
一機が胸元の命令核へ。
一機が白百合の蔓の根へ。
二機がサキの仮面とローズウィップの軌道補助へ。
最後の一機が、イツキ自身の耳元で羽音を立てる。
「ユウリくんの命令核は胸じゃない。胸の白百合核は制御増幅器。本命は首筋のリングの奥、背骨のすぐ前。そこから研究棟の中枢へつながってる」
サキの視界に、金色の線が走った。
イツキが見つけた命令核の位置。
傷つけずに、命令だけを抜き取るための細い道。
サキは息を吸った。
「ロゼ」
『聞こえてる。白百合が邪魔だが、動ける』
「ユウリを傷つけない」
『わかってる』
「でも、命令は切る」
『それもわかってる』
「一緒に」
『行くぞ、サキ』
サキは踏み込んだ。
マダム・ヴィーの義体が反応する。
背中の赤い花弁から、記録核の刃が飛ぶ。夢の館の仮面が空中に開き、サキの視界へ幻影を流し込もうとする。RZ-X01。ローゼンマスク。作品。蒼薔薇。
イツキの蜂が、その幻影にノイズをぶつけた。
「サキ、まっすぐ!」
「うん!」
ユウリの白百合波が広がる。
サキのローズウィップが弱まる。
だが、完全には止まらない。
イツキの手の温もり。
ロゼの怒り。
仮面の中に残されたサキの名前。
それらが、白百合の霧を切り開く。
サキは弟の正面に立った。
ユウリの瞳に、サキは映っていない。
でも、呼ぶ。
「ユウリ」
返事はない。
「蒼原ユウリ」
白百合の紋が揺れる。
「お姉ちゃん、来たよ」
その言葉に、ユウリの指が微かに震えた。
マダム・ヴィーが眉を動かす。
「リリウム、制御を上げなさい」
ユウリの白百合核が強制的に光る。
サキの意識が揺れる。
でも、その瞬間、イツキが叫んだ。
「サキ、今!」
ローズウィップが細く伸びた。
それは、攻撃というより手術だった。
茨の先端がユウリの首筋のリングへ入り込む。皮膚を深く傷つけない。血管を避ける。神経を避ける。白百合の命令線だけを探る。
マダム・ヴィーの義体が突進してくる。
「させないわ」
カリンが割り込んだ。
大鎌が義体脚の一撃を受け止める。
「こっちの台詞だよぉ」
金属義肢と大鎌が激突し、赤い火花が散った。カリンの身体が後ろへ滑る。相手は遠隔義体とはいえ、無数の記録核で強化された戦闘外骨格だ。重い。
アリスが結界を張る。
「カリン様、右脚部の出力が高いです。義体左側、記録核三番から五番を破壊すれば動作が鈍ります」
「了解!」
カリンとアリスがマダム・ヴィーを押さえる。
その間に、サキはユウリの命令核へ到達した。
白い結晶。
百合の花弁の形をした命令核が、ユウリの神経と研究棟の中枢へ深く根を張っている。
サキの手が震える。
これは弟の中にある。
抜けば痛いかもしれない。
失敗すれば傷つける。
イツキの手が、サキの手に重なった。
直接ローズウィップを握れるわけではない。
けれど、アピスの補助線がサキの視界に重なる。
「一緒に」
イツキが言った。
サキは頷いた。
「一緒に」
ローズウィップが命令核を包み込んだ。
切るのではない。
砕くのでもない。
抱えるように掴み、周囲の命令線を一本ずつほどく。
ユウリの身体が震える。
白百合の紋が悲鳴のように明滅する。
「ユウリ、少し痛いかもしれない。ごめん」
サキの声が震える。
「でも、戻ってきて。今すぐじゃなくていい。覚えてなくてもいい。返事できなくてもいい。だから、あなたの名前を、あの人に渡さないで」
最後の命令線が外れた。
サキは引いた。
白百合の命令核が、ユウリの身体から抜けた。
その瞬間、研究棟全体を覆っていた白百合の制御波が途切れた。
ユウリの身体が倒れる。
サキはローズウィップを消し、両腕で弟を受け止めた。
「ユウリ!」
軽い。
記憶より、少しだけ重くて。
でも、まだ子どものように軽い。
サキは彼の首元に手を当てる。
脈がある。
呼吸もある。
「生きてる……」
サキの声が掠れた。
イツキがすぐ隣で頷く。
「生きてる。サキ、ユウリくん、生きてるよ」
その言葉に、サキの目に涙が滲んだ。
だが、泣くにはまだ早かった。
マダム・ヴィーの義体が、カリンを弾き飛ばした。
カリンは床を滑りながら受け身を取る。
「ほんと、しつこいねぇ」
マダム・ヴィーは笑っていなかった。
真紅のベールの奥で、ルージュがひび割れたように歪んでいる。
「なぜ」
彼女は言った。
「なぜ、そこで美しく壊れないの」
義体の背中に埋め込まれた記録核が一斉に光る。
「姉は弟を選び、蜜蜂は薔薇を支え、仮面は主を縛る。そのはずだったのに」
「縛れないよ」
イツキが言った。
マダム・ヴィーの視線が彼女へ向く。
「仮面の術式、もう書き換えたから」
サキはユウリをそっと床へ寝かせた。
アリスがすぐに結界で彼を保護する。
マダム・ヴィーの義体が、サキへ杖を向ける。
「ならば、直接制御しましょう。ローゼンマスク、帰還なさい」
仮面が熱を帯びた。
サキの視界に、赤い命令文が走る。
Return Order
RZ-X01
Madame-V Authorization
Rosen Mask Control?
その文字が、途中で止まった。
仮面の内側で、別の文字が浮かぶ。
蒼原サキ。
そして、小さな署名。
Itsuki Repair Patch Ver.1.0
サキは一瞬、こんな時なのに笑いそうになった。
「イツキ、何これ」
「え、見えた?」
「見えた」
「かっこよくない?」
「ちょっとかわいい」
「かわいいかぁ」
マダム・ヴィーの制御術式が仮面へ侵入しようとする。
だが、イツキの修復パッチとアリスの遮断層、そしてサキ自身のX核が、その命令を拒絶した。
仮面は、サキを縛る道具ではなくなっていた。
サキが自分で被り、自分で外す道具になっていた。
サキは仮面に手をかけた。
ゆっくりと外す。
紅い髪が肩に落ちる。
仮面の下から、蒼原サキの素顔が現れる。
マダム・ヴィーが息を呑んだ。
「なぜ外すの」
「必要なくなったから」
サキは仮面を左手に持ち、右手からローズウィップを伸ばした。
素顔で、構える。
「わたしはローゼンマスクじゃない」
静かな声だった。
「でも、ローゼンマスクの名前を、あなたには返さない」
マダム・ヴィーのルージュが動く。
サキは続ける。
「これは、わたしが守るために選んだ名前だから」
ロゼが胸の奥で笑った。
『言ったな』
「うん」
『なら、刈るぞ』
「うん」
サキのローズウィップが伸びた。
狙うのは、マダム・ヴィーの義体ではない。
義体に組み込まれた仮面制御術式。
夢の館由来の名前剥奪術式。
ローゼン計画の中枢記録核。
サキの身体に仕込まれた支配権。
ユウリの白百合核へつながっていた残留線。
イツキのアピス回路を再侵食しようとする細い赤糸。
すべてを、仮面の視界なしで見た。
イツキの蜂が、最後のマーキングを送る。
「サキ、中央の赤い核! でも周りに名前の記録が絡んでる。雑に切ったら、記録核ごと壊れる!」
「壊さない」
サキは言った。
「奪われた名前は、壊さない」
ローズウィップが細く、さらに細く分かれる。
無数の茨が、義体の背中に咲く記録核の間へ入り込む。赤い糸をほどき、黒い命令線を引き抜き、仮面術式だけを刈り取る。
マダム・ヴィーが叫ぶ。
「やめなさい! それはわたくしの作品よ!」
「違う」
サキは一歩踏み込む。
「あなたが奪った人たちの名前だよ」
茨が中枢記録核へ届いた。
サキはそれを貫いた。
砕くのではなく、支配術式だけを断ち切る。
研究棟全体が震えた。
壁に埋め込まれていた記録核が、一つ、また一つと光を放つ。声が溢れる。名前になりきれない音。泣き声。笑い声。誰かを呼ぶ声。消されていた記録が、支配から解放され、短い光となって昇っていく。
マダム・ヴィーの戦闘義体が崩れ始めた。
薔薇の外骨格が割れ、金属義肢が折れ、真紅のベールが燃えるように舞い上がる。
だが、中に人の身体はなかった。
空洞。
遠隔義体。
マダム・ヴィー本人は、ここにはいない。
崩れ落ちる義体の中から、ルージュの声だけが響いた。
「蒼薔薇」
サキは顔を上げた。
「貴女はわたくしの作品ではなくなった。ええ、それは認めましょう」
声は悔しさと愉悦を同時に含んでいた。
「けれど、作品が作者の手を離れる瞬間もまた、芸術なのよ」
サキは怒鳴らなかった。
もう、怒りだけで返す相手ではないと思った。
サキは仮面を左手に持ったまま、素顔で言った。
「違う」
短い言葉。
けれど、それがすべてだった。
「わたしは、最初からあなたの作品じゃない」
赤いベールが燃え落ちた。
マダム・ヴィーの声は消えた。
義体は砕け、床に散り、薔薇の外骨格は灰になった。
同時に、研究棟の中枢が完全に崩壊を始める。
警報が鳴る。
アリスの声が鋭くなる。
「地下構造、崩落開始。三分以内の脱出が必要です」
「三分って、また短いねぇ!」
カリンが大鎌を肩に担いだ。
「走るよ!」
サキはユウリを抱き上げた。
眠ったままの弟の身体は、温かかった。
「ユウリ、帰ろう」
返事はない。
でも、サキは抱きしめる。
イツキの蜂型ドローンが通路へ飛び出し、青い誘導光を描く。
「こっち! 右の通路、生きてる!」
「アリス、結界!」
「展開済みです」
アリスの青白い結界が落石を受け止める。カリンの大鎌が瓦礫を砕く。サキはユウリを抱え、ローズウィップで足場を作る。イツキはアピスで先行し、崩れかけた道の安全なルートを示す。
それは、逃亡ではなかった。
帰還だった。
崩れる研究棟の中を、彼女たちは走る。
死都由来の標本室を抜ける。
ガラス管の並ぶ保管区を抜ける。
サキが眠っていた空の管の前を通り過ぎる。
そこに、もうサキは閉じ込められていない。
地上への階段が見えた。
最後の天井梁が崩れる。
カリンが大鎌を振り上げる。
「これで最後!」
刃が瓦礫を砕く。
アリスの結界が破片を押し返す。
イツキの蜂が出口の位置を示す。
サキはユウリを抱えて、その光へ走った。
外へ出た時、空は群青色だった。
夜明けが近い。
カミハラ区の研究棟街はまだ眠っている。遠くの空に、わずかに白い線が差していた。旧帝都大学封鎖研究棟は、背後で沈むように崩れていく。地上部分は大きく傾き、地下から赤い光と白い花弁が一度だけ噴き上がり、それから静かになった。
サキは芝生の上に膝をついた。
ユウリを抱いたまま。
「ユウリ……」
弟は目を覚まさない。
サキは震える手で、彼の手を握った。
細い指。
あの日、東京の駅前で握った手より大きい。
でも、確かにユウリの手だった。
サキはその手を両手で包む。
「ユウリ。お姉ちゃんだよ。サキだよ」
返事はない。
だが、ユウリの指が、ほんのわずかに動いた。
サキは息を止めた。
もう一度、指が動く。
握り返すほど強くはない。
ただ、そこに反応があった。
サキの目から、涙が落ちた。
「ユウリ……」
声が崩れる。
ずっと泣けなかったものが、一気に溢れた。
弟を見つけた。
名前を取り戻したわけではない。
記憶が戻ったわけでもない。
目を覚ましたわけでもない。
それでも、手が反応した。
生きている。
サキは声を殺せなかった。
泣いた。
イツキが隣に膝をつき、そっとサキの肩を抱いた。
何も言わない。
ただ、隣にいる。
サキはユウリの手を握りしめたまま、イツキの肩に少しだけ額を預けた。
「イツキ」
「うん」
「連れて帰れた」
「うん」
「まだ、戻ってないかもしれない」
「うん」
「でも、名前、呼べる」
「うん。何度でも呼ぼう」
サキは泣きながら頷いた。
朝の光が、少しずつ帝都の空に広がっていく。
M∴R∴ローゼン計画は壊滅した。
旧帝都大学封鎖研究棟は崩落し、ローゼン・プロトコルの中枢記録核はサキのローズウィップによって断ち切られた。夢の館由来の仮面制御術式も、サキへの支配権を完全に失った。
だが、M∴R∴そのものは完全には消えなかった。
いくつかの関連企業は、事件の前夜にはすでに清算されていた。
研究員の一部は別会社へ移り、死都回収業者の台帳は途中で途切れ、資金経路はいくつもの名義に分散していた。女帝政府の外部委託記録にも、都合よく空白があった。
帝都エデンから、死都由来の違法研究が消えたわけではない。
マダム・ヴィーもまた、捕まらなかった。
夢の館の所在は再び不明になった。
帝都裏社会には、赤いベールの女主人が次の館を開いたという噂だけが残る。森の奥、海沿いの洋館、空中ホテルの一室、あるいは夢の中。噂は場所を変え、形を変え、それでも消えない。
けれど、彼女はサキをもう支配できない。
蒼原サキは、彼女の作品ではない。
その事実だけは、確かに残った。
ユウリは帝都大学付属の保護施設へ移された。
白百合の命令核は抜かれたが、ローゼン・プリンスとして施された処理は深く、すぐに目を覚ますことはなかった。記憶が戻るかどうかもわからない。蒼原ユウリという名前に反応することはあるが、それが記憶なのか、身体に残った反射なのか、医師にもアリスにも判断はできなかった。
それでも、サキは通った。
毎日のように、ガラス越しではないベッドの横へ座る。
「ユウリ」
呼ぶ。
「蒼原ユウリ」
呼び続ける。
「お姉ちゃんだよ。今日はイツキが、変な蜂の名前をつけようとしてアリスに止められたよ」
「変じゃないよ。はちまる一号、かわいいじゃん」
「かわいくないと思う」
「ユウリくん、サキってたまに厳しいよね」
イツキがそう言うと、サキは少し困った顔をする。
ユウリはまだ目覚めない。
けれど、二人は話しかける。
名前を呼ぶ。
それが、今できることだった。
やがて、サキとイツキは帝都月影高等学院・夜間特別課程へ編入することになった。
昼の学校には戻れなかった。
サキの戸籍はまだ整理途中で、死都由来の検体記録と旧東京の災害保留記録が複雑に絡んでいた。イツキも、アピス・ユニットの後遺症とM∴R∴事件の証人保護の関係で、普通の学校へそのまま戻るのは難しかった。
でも、夜の学校があった。
帝都月影高等学院・夜間特別課程。
そこには、名前を変えた者がいる。
帰る場所を探す者がいる。
普通ではない身体を持つ者がいる。
昼の教室では息ができなかった者たちが、夜の窓辺で少しだけ呼吸をする。
サキは初めてその校門を見上げた時、少しだけ肩の力を抜いた。
「学校……なんだね」
「学校だよ」
イツキが隣で笑う。
「夜だけど」
「うん」
「普通じゃないかもだけど」
「うん」
「でも、サキと一緒」
サキはイツキを見る。
「それ、理由になる?」
「なるよ。あたしの中では」
サキは少し笑った。
鞄の中には、真紅の仮面が入っている。
以前なら、それは恐怖の象徴だった。
M∴R∴の首輪。ローゼンマスクという兵器名。マダム・ヴィーの支配。
今は違う。
必要な時には被る。
誰かを守るために。
名前を奪う支配を刈り取るために。
でも、眠る時にはもう被らない。
自分の顔で眠る。
自分の名前で目を覚ます。
それでいい。
月影学院の教室は、思っていたより静かだった。
夜の窓の外には、帝都の明かりが見える。遠くにホウジュ区の雑多なネオン、カミハラ区の白い研究棟、さらにその向こうにツインタワーの影。事件は終わったのに、街は何も知らない顔で光っている。
サキは自分の机に座り、引き出しを開けた。
中に、真紅の仮面をしまう。
少し迷ってから、その横に小さなメモを入れた。
蒼原サキ。
イツキが書いてくれた文字。
何度も、何度も、忘れないように書いてくれた名前。
そこへ、小さな蜂型ドローンが飛んできて、机の端に止まった。
「授業中は飛ばしちゃだめって言われたでしょ」
サキが言うと、窓辺のイツキが振り向いた。
「まだ授業前だからセーフ」
「セーフかな」
「セーフだよ、たぶん」
「たぶん」
サキは蜂型ドローンの背をそっと撫でた。
金色の小さな機体は、逃げずに羽を震わせる。
机の上には、誰かが置いた一輪の造花があった。
真紅の薔薇。
派手ではない。
小さく、静かな薔薇。
サキはそれを手に取る。
「誰が置いたんだろう」
「カリンさんじゃない?」
「ありそう」
「“入学祝いだよぉ”って言いそう」
イツキの真似が少し似ていて、サキは笑った。
笑ってから、ふと気づく。
こんなふうに笑える日が来るとは思わなかった。
赤い雨の屋上で。
ガラス管の中で。
ツインタワーの地下で。
白百合の迷宮で。
自分はずっと、どこかへ戻りたかった。
でも、戻る場所は過去だけではないのかもしれない。
これから作る場所も、帰る場所になる。
イツキが窓辺に立っていた。
夜風が髪を揺らしている。左腕のアピス回路は制服の袖の下に隠れているが、窓から差す月光でほんの少し金色に光った。
彼女はサキを見て、少しだけ照れたように笑う。
「おかえり、サキ」
その言葉に、サキの胸が小さく震えた。
帰ってきた。
どこへ、と訊かれれば、まだうまく答えられない。
家。
学校。
イツキの隣。
自分の名前。
仮面を外していられる場所。
その全部なのかもしれない。
サキは真紅の薔薇を机に置き、小さな蜂型ドローンを指先に乗せた。
それから、少し照れながら答える。
「ただいま、イツキ」
窓の外で、帝都の夜が明けていく。
真紅の薔薇と、小さな蜜蜂が、同じ机の上で静かに光っていた。




