#7昔の坊ちゃん
アグネスについて厨房に入ると、ミアともう一人の女中が片付けをしているところだった。
二人は俺の姿を見て少し驚いた顔をする。
「すぐ終わりますので、そちらに掛けて少しお待ちください」
厨房の片隅の椅子を勧められて腰掛ける。
アグネスも加わった三人は、洗浄した食器や鍋を拭いて片付けていく。……手際が良い。ほどなくして、作業は終わった。
ミアともう一人の女中はこちらに笑顔を向けると軽く会釈し、厨房を出ていった。
アグネスが側に来て、茶の入ったカップを目の前に置く。
「よかったらどうぞ」
「……悪い」
アグネスは隣の椅子を引いて腰掛けると、自分の分の茶に口をつけ、少しだけ飲んでから一息ついた。
俺も、口をつける。淹れたてで熱い。少しだけ飲んで、カップを置いた。
「……どこから話しましょうか」
アグネスは、手に持ったカップに視線を落としながら言う。少しして、もう一口飲んでからテーブルに置いた。
「ライ様はもうご存知かと思いますが、坊ちゃんはよく目立つでしょう? 幼い頃から、そうでした」
それは容易に予想がつく。俺が軽く頷くと、アグネスはそのまま続ける。
「……旦那様は当時からお忙しく、あまり坊ちゃんの側にいられなかった。私はおりましたが、家のこともしなくてはいけないし、何かあった時にお守りすることは難しい。それで、護衛を雇ってみたんですよ。……でも」
アグネスは小さく息を吐いた。
「……坊ちゃんと接するうちに、おかしくなってしまって。かえって危険だということで、全員辞めさせました。使用人も、昔はもっとおりましたが、今はたったの三人。……まあ、仕事は坊ちゃんのお世話だけなので、特に問題もないのですが」
ほんの少し困ったような笑み。
「そういう事情で、坊ちゃんは毒薬のことを学ばれました。まだ、十にも満たない頃だったかと思います。……人に使うわけではなく、いざという時に、自分の身を守るために」
「……実際に、使ったことは」
「ええ。ございます」
「…………」
言葉が、出なかった。
アグネスはカップを持ち上げて一口飲んだ。
「坊ちゃんは何もおっしゃらないと思いますが……昔よりずっと穏やかになりました」
手元に、視線を落としたまま。
「……ライ様が来られてから、夜もきちんと眠るようになりましたし」
視線を上げる。
「私は、それだけでも十分ありがたいと思っています」
そう言って、柔らかく微笑んだ。
「…………そうか」
どうにか、それだけ返す。カップを持って、口をつける。茶は先ほどよりも少しぬるくなり、飲みやすくなっていた。
ハルモンの自室に戻ると、ハルモンはまだ作業を続けていた。
アグネスから渡された二人分の茶と焼き菓子を、テーブルに置く。
「……ハルモン、茶を貰ってきた」
少しして、ハルモンは顔を上げるとこちらを振り向く。
「あ。焼き菓子もあるの? ありがとう」
少し休憩することにしたらしい。作業台の椅子から立つと、こちらに寄ってくる。皿の上の焼き菓子を手に取って、口に放りながら椅子に腰掛けた。
ポットから二人分の茶を注いで、一つをハルモンの前に置く。ハルモンはすぐに一口飲んで、ほっと息を吐いた。……俺は、さっき飲んだばかりだ。手をつけず、置いたままにした。
沈黙が落ちる。先ほどのアグネスの話が、頭の中を反芻していた。
「…………どんな薬を作ってるんだ」
気づけば、そう口にしていた。ハルモンは焼き菓子をつまみながらこちらに視線を向ける。
「どんなって、色々だけど」
「……毒とか、煙幕とか言ってただろ」
ハルモンは「ああ……」と言うと、つまんでいた焼き菓子を口に放り咀嚼する。それから、茶を一口飲んだ。
「……痺れさせるやつとか、一瞬痛いやつとかだよ。向こうは僕は抵抗しないと思って油断してるからさ。ちょっとだけ隙を作って逃げるんだ」
「……なるほどな。……煙幕は?」
「煙幕は外用。時間稼ぎできるでしょ」
ハルモンは茶を一口飲んだ。
俺が何も言えず黙っていると、不思議そうに首を傾げる。
「ライ君、どうかした?」
「……何でもない」
「そう?」
沈黙が落ちる。少ししてから、ハルモンが口を開いた。
「……でも、魔物に効くかは分からないよね。……魔物って、痛み感じるのかな」
「……分からん。だが、牽制したり傷を負わせると動きが鈍るな」
「ふぅん。じゃあ、多少は効果があるかもしれないね……」
その言葉に、俺は思わず息を吐いた。
「……危険だから試そうとするな。ちゃんと守る」
ハルモンは目を丸くする。それから、ほんの少し照れたように微笑んだ。
「……ありがとう」
俺はその笑顔から目を逸らすと、口をつけていなかったカップを手に取って一気に飲んだ。
「……あ、でも別で魔物対策に考えてるやつもあってさ。たぶん、教会が礼拝儀式でやってたやつ。そっちは試してみたいかも」
「……危ないことはするな」
「危なくないよ。たぶん」
休憩を終えたハルモンは、また作業台へ向かう。
俺は、その後ろ姿をじっと見つめていた。
……本当は、抱きしめてやりたかった。幼い頃のお前を、守ってやれなかった分まで。
だが俺は、ただ後ろに立ち尽くし、ズボンの布を握ることしかできなかった。
アルヴィンの休暇申請はすんなり通った。
その知らせを受けて、俺とハルモン、ゼファー、そしてアルヴィンの四人で王都の門を潜った。
ハルモンは旅用の黒い外套を身につけ、大きな鞄を背負っていた。
「王都から出るの久々。嬉しい」
ハルモンは機嫌良く歩いている。
マレディアのことがあってから、ハルモンと共に王都を訪れて、魔物討伐を請け負うようになって。思えば、あれから三年近く経過している。
俺が魔物討伐をしている間、ハルモンは決して王都から離れなかった。
ずっと待っていてくれた。……そう思うと、なんだか胸が詰まるようだった。
「ハルモン、でっかい鞄だなぁ。何入れてるんだ? おやつか?」
「……薬だよ。……おやつも、少し入ってるけど」
二人のやりとりを見ながら、アルヴィンが不安そうな顔でこちらへ寄ってきた。
「……ライ。ゼファーはあれで、大丈夫なのか……?」
「……分からん。だが、ずっとあんな調子だ」
「そうなのか……」
アルヴィンは遠い目をした。
「ライー。ハルモン鞄重いんじゃないか? 持ってやったら?」
ハルモンは即座に振り返る。
「自分で持てる」
「おお、怒られた」
ゼファーは楽しそうに笑った。
しばらく街道を進むと、王都の喧騒は少しずつ遠ざかっていく。石畳は土の道へ変わり、周囲には草原が広がっていた。
白霧の谷の最寄りの街へは、歩いて半日ほど。
ハルモンは時折足を止めて足元の植物を眺めたり、何かを手帳に書き込んだりしている。
その様子を見ながら、俺は前方へ視線を向けた。
遠くの空には、薄く白い雲が流れている。
あの谷には一体何があるのか。ハルモンは何を見つけるのか。
俺には、まだ分からなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この関係がどう転ぶのか、見守っていただけると嬉しいです。
次回、『旅のはじまり』。
明日11時に更新予定です。
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