#4戻って
家に帰った後も、俺はハルモンとほとんど口を利いていなかった。
ハルモンは、何も起きていないと言った。
あいつはいつもそうやって、こちらに何も明かしてくれない。
別に、怒っているわけではない。ただ、何を話していいのか分からないだけだ。
……向こうは、いつも通りで。だから、何も言えなかった。
食堂で無言で食事をし、ハルモンの後に風呂に入る。
そして部屋に戻ると、ハルモンはいつものように机に向かっている。
下ろされた金髪が机の上のランプの光に照らされて、輪郭が暖かく染められている。
俺はその姿から目を逸らすと、窓の方へ歩いて行った。
出窓の窓台に浅く腰掛け、外を見る。
日はすっかり暮れて、月が高く登っている。
俺は、月と星空をぼんやりと眺めていた。
しばらくすると視界の隅で、部屋の中のランプの光が揺れた。
目をやると、ハルモンが机の上のランプを手に取り、こちらを向いた。
「ライ君、そろそろ寝よっか」
その言葉に、俺は答えない。
「……ライ君?」
ハルモンは少し首を傾げた。
俺は再び窓の方を向いて言う。
「先に寝ろ」
ハルモンはしばらく黙っていた。
視線を感じる。振り向かなくても、見られているのがわかる。
数秒が経って、それから、床が小さく軋む音がした。
ランプの光が近づいてくる。
「……ライ君」
ランプを持ったハルモンがすぐ目の前に立ち、こちらを見上げていた。
その目が、少しだけ細くなる。
「……静かだね」
俺は答えない。……言い返す言葉が、見つからない。
沈黙が続く。
ハルモンはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと小さく息を吐いた。
「……まあ、いいや」
ハルモンは、少しだけ体を前に傾けた。
「ライ君、ほら。……こっち見て」
その言葉に、しぶしぶ目を向けると、ハルモンの手がこちらに伸びてくる。
そして、俺の髪に、触れた。
ハルモンの手が、俺の髪を撫でる。
優しく、何度か。
「そのままでもいいけど、戻らないでしょ」
その声は、いつも通りだった。
……本当に、いつも通りだ。
俺はしばらく何も言えなかったが、やがて、小さく息を吐く。
「……お前な」
呆れたように言ったつもりだったが、声に力はなかった。
ハルモンは少しだけ首を傾げる。
「なに?」
「……別に」
俺は視線を逸らす。
ハルモンは少しだけ考えるような顔をして、それからまた小さく笑った。
「まだ戻ってない」
「戻ってる」
「戻ってない」
「……」
ハルモンの手が、もう一度だけ俺の髪を撫でた。
それから、ふっと離れる。
「ほら」
そう言って、今度は俺の手首を掴んだ。
「寝るよ」
「……おい」
「明日は仕事だよ」
そのまま、ぐいっと引かれる。
ハルモンはこちらを振り返ることもなく、ランプを持ったまま、俺の手を引いてベッドへ向かう。
引かれながら、俺はため息をついた。
「……なに?」
「……なんでもない」
ハルモンはベッドの前まで来ると、掴んでいた俺の手首を離し、先に腰を下ろした。
「ほら」
軽く顎でベッドを示す。
「早く」
「……命令するな」
「命令じゃないよ。お願い」
そう言って、軽く首を傾げる。目を細め、うっすらと笑みを浮かべながら。
……全くお願いしている顔ではない。
俺はもう一度息を吐いてから、ハルモンの隣に腰を下ろし、靴を脱ぐ。
ランプの光が揺れて、金髪がやわらかく光った。
「ライ君」
「……なんだ」
「まだ戻ってない」
「戻ってる」
「戻ってない」
「……」
ハルモンは小さく笑って、布団を持ち上げるとベッドに潜り込んだ。
俺もその隣に横になる。距離は、思ったより近かった。さっきまで窓の前にいた時より、ずっと。
ランプの光が、天井に揺れている。
ハルモンが手を伸ばし、ランプの火を小さくする。
部屋が、少し暗くなった。
そのまま横を向くと、目の前に金髪が落ちた。
月明かりとランプの残り火に照らされて、淡く光って見える。
ハルモンは少しの間、じっとこちらを見ていた。
それから、ふっと息を吐く。
「……まだ戻ってないね」
「戻ってる」
「戻ってない」
そう言うと、ハルモンは布団の中で少し体を動かした。
ごそ、と布が擦れる。
「……?」
次の瞬間。
ハルモンの体が、ころりとこちらに転がってきた。
そしてそのまま――俺の胸の上に、乗る。
「……っ」
思わず息が止まった。
ハルモンは俺の胸の上に手を置き、体を支える。
金髪が、顔の横に落ちてくる。
――近い。さっきより、ずっと。
ハルモンは少しだけ首を傾げて、俺の顔を覗き込んだ。
「これなら逃げないでしょ」
「……お前」
「ほら」
そう言って、また俺の髪を撫でる。
「元気出して」
俺は天井を見上げた。
「……お前な」
「なに?」
「……なんでもない」
ハルモンは俺の顔をしばらく見つめた後、満足したように小さく笑った。
胸の上に置かれた腕の力が抜ける。胸の上の重みが、わずかに増えた。
「……ここ、落ち着く」
胸の上に、ハルモンの頭が乗る。
「ライ君、あったかい」
「……」
こんな顔で、こんな距離で。
よく平然としていられるものだ。
ハルモンは俺の胸の上に頭を乗せたまま、少しだけこちらを見ていた。
それから手を伸ばし、俺の髪を指で梳く。
さっきと同じように、ゆっくりと。
「……」
何も言わず、ただ、撫でる。
俺は視線を逸らしたまま、布団を握る。
指先に、少しだけ力が入った。
「……元気になった?」
「……別に」
「ふーん」
ハルモンは小さく笑って、また髪を撫でる。
しばらく、そのまま続いた。
部屋は静かで、ランプの残り火だけが小さく揺れている。
やがて、ハルモンの手の動きが、少しずつゆっくりになってくる。
「……ライ君」
「……なんだ」
「眠い」
「……」
「もういい?」
「……最初から、好きにしてるだろ」
ハルモンは少し笑うと、髪を撫でていた手を止めた。
次の瞬間、ころり、と体が横に転がって、俺の胸の上から、俺の体の横へ滑り落ちた。
布が小さく擦れる。
ハルモンはそのまま、すぐに静かになる。
見ると、ハルモンはもう眠っていた。
乱れた金髪が、枕の上に広がっている。
さっきまで俺の胸の上にあった重みだけが、まだ残っている気がした。
***
目を覚ますと、まだ部屋は薄暗かった。
窓から差し込む朝の光が、ゆっくりと部屋を照らし始めている。
僕は、しばらくぼんやりと天井を見ていた。
寝直そうかと少し体を動かすと、足に、何か触れていることに気づいた。
視線を下げると、自分の足が、ライ君のお腹の上に乗っかっていた。
(……僕、けっこう寝相悪いんだな)
ライ君はまだ寝ている。
穏やかな顔で、静かな寝息を立てている。
僕はそのままの姿勢で、しばらくライ君を観察した。
(……重くないのかな)
そう考えてから、ふと思い出す。
「昨日は胸だったね」
ライ君は寝ているので、当然、返事はない。
なんだか可笑しくなって、少しだけ笑ってしまった。
それから、足をどけようとして――やめた。
もう一度、ライ君の顔を見る。まだ起きる様子はない。
起きている時とは違う、穏やかな顔。……見ていたら、少し悪戯心が湧いてきてしまった。
僕は、足にほんの少しだけ力をかける。
ぐっ。
ライ君の眉がわずかに動いた。
「……」
僕は、少しだけ身を乗り出してライ君の顔を見る。
「起きた?」
返事はない。
もう一度、ほんの少しだけ体重をかけてみる。
ぐっ。
「……っ」
今度は、はっきり息が詰まる音がした。
「おはよう、ライ君」
***
朝、ミアはいつものように食堂にいた。
最初に食堂に現れるのは、ゼファー様だ。
出来上がった料理を運び、先に食事を始めてもらう。
パンを切りながら、ちらりと扉の方を見る。
(……そろそろかな)
昨日のことを思い出して、深い溜め息が出た。
……だって、だって、仕方ないでしょう?
忌々しき縁談め!
ハルモン様とライ様を引き離そうとする、この世界が許せない。
なのに、ハルモン様は帰ってきた後もいつもと特に変わらなかった。
なんなの、本当になんなのあの人!!
……でも。ライ様の方は、いつもよりも確かに沈んだ顔をしていた。
そしてそのまま、二人はいつも通り、同じ部屋に戻っていったのだ。
(あの後、どうなったんだろう……)
「ミアちゃん、今日は元気ないなー」
ハッと顔を上げると、ゼファー様がしげしげとこちらを見ていた。
「……ハルモンの縁談のこと気にしてる?」
ミアが口元を引き結ぶと、ゼファー様は少し笑った。
「気にしても仕方ないぞー。国のために生まれて、国のために生かされてる。俺たち魔導士ってのは、そういう生き物なのさ」
ゼファー様はそれだけ言って、また食事を再開した。
……分かってる。でも、私は推しの幸せな生活を願う女中だ。気持ちがついてこないこともある。
その時。上の階で扉が開く音がした。
ミアは勢いよく顔を上げる。
(来た!)
階段を降りる二つの足音が聞こえて、しばらくして、扉が開く。
まず目に入ってきたのは、ライ様の姿。
髪は少し乱れていて、顔がやや疲れている。
(……!!)
ミアの目が光る。
そして、ハルモン様が部屋に入ってくる。
金髪はゆるく纏められ、毛束に少しだけ寝癖がついている。
「おはようミア」
「お、おはようございます!」
二人はそのまま食卓へ向かう。ライ様が椅子を引いて、いつもの席に座った。
「おはよう、ハルモン。今日も美人だなぁ」
「……おはよう」
後半は無視である。
ライ様も何も言わず、隣の席に腰を下ろす。
(……)
ミアは二人を交互に見る。
(……隣)
いつも通り。まるで何もなかったかのように。
ハルモン様が口元に手を当てて、大きく欠伸をした。
「よく寝たー」
その横で、ライ様がぼそっと言う。
「……俺は寝てない」
ミアは、思わず手元のパンを握り潰した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この関係がどう転ぶのか、見守っていただけると嬉しいです。
次回、『止まらない人』。
明日11時に更新予定です。
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