#20倒したはずだ
次の日。
俺とナギ、そして騎士団の皆は、谷から少し距離のある地点にいた。
すでに戦闘準備は整っており、そのまま、しばらく様子を見ていた。
今日は、天気は問題なかった。
だが、谷の周囲だけが霧に包まれている。
「白霧の谷と言われる所以といったところだな。どうする、隊長」
ゼファーが軽く聞く。
「……このまま待っていても、あまり状況は変わらなそうだな」
アルヴィンは立ち上がると、周囲を見回す。
「突入しよう。……準備はいいな」
その言葉に皆、頷いた。
「湧くなら、長期戦は避ける。突破して奥を見る。ゼファーは前方の視界確保。ナギは後方支援。散開しすぎるな」
谷の周囲、視界は白く閉ざされていた。
「……濃いな」
「任せろ」
ゼファーが前に出る。
軽く手を振ると、風が巻き起こり、霧が押し流された。
「……囲まれているな」
前方、左右、そして、いつの間にか後方にも。
無数の影が、こちらを取り囲んでいた。
「来るぞ。……数は想定通りだ」
一斉に魔物が動き出す。
「各自、散開! 無理はするな! 囲まれるな!」
剣を抜き、目の前の個体を斬り伏せる。
だが――
「……速いな」
振り下ろした刃を、寸前で躱される。
次の瞬間、横から別の個体が飛びかかってきた。
「数だけじゃない!」
「力も強いぞ!」
押し返し、間合いを取る。
「空から来るぞ!」
見上げると、翼を持つ魔物が旋回していた。
「……ちっ」
風が唸る。
ゼファーが片手を上げると、空中の魔物の軌道が乱れた。
「落ちろ」
その隙を、ナギの矢が貫く。
「……助かる」
「空の敵は任せてください!」
戦線は、徐々に安定していった。
「……だいぶ減ったな」
その時だった。
(……あれは、なんだ)
言葉を失う。
視線の先に、鹿のような魔物がいた。
いつからいたのか分からない。
ただ、そこに“いる”。
「……気づかなかったのか?」
「いや……さっきまでは……」
普通の鹿よりも一回り大きいだけの体躯。
だが、その存在だけが、妙に浮いて見えた。
鹿は、こちらを見ている。
動かずに、ただ、見ている。
(……気配が、違う)
騎士の一人が、前に出る。
「様子を見る。少し近づくぞ」
一歩。
――その瞬間だった。
「っ!?」
気づいた時には、騎士の体が宙に浮いていた。
角で弾き飛ばされたのだ。
「下がれ!」
地面に叩きつけられた騎士を、別の者が引きずる。
鹿は、動いていない。
ただ、そこに立っている。
「……近づくな、ってことか」
近づかなければ、攻撃してこない。
だが、現れた魔物をそのまま放置するわけにもいかない。
「……下がっていろ」
俺が低く言うと、アルヴィンは静かに手を上げた。
「……全員、距離を取れ」
先ほどの鹿の動きは単純だった。
近づいた瞬間に、弾く。
なら――
踏み込みを半歩遅らせる。
角が通り過ぎる。
その内側へ滑り込み、足を払う。
重心が崩れる。
そのまま、刃を振り抜いた。
首。
確かな手応え。
鹿の体が、ぐらりと傾く。
――落ちる。
「……やったか」
その瞬間、違和感が走った。
倒れたはずの体が、傾いたまま、地面に触れていない。
「――ッ」
横から衝撃。
ズッ。
何かが深く、めり込んだ感触に、体が止まる。
遅れて、熱が弾けた。
息が抜ける。
視線を落とすと、黒い角が、脇腹を貫いていた。
布が裂け、肉が押し広げられる。
じわりと赤が滲み――すぐに溢れた。
(……倒したはずだ)
思考が追いつかない。
だが、鹿は目の前にいて、俺の脇腹を貫いている。
体の中で、肉が引き裂かれる。
「……っ」
息を吐く。
だが、まだ、動ける。
鹿が頭を振り上げようとする。
突き飛ばす気だ。
(させるか)
刺さったままの角を、掴む。
血で、手が濡れていて滑る。
それでも力を込めて、そのまま一歩踏み込む。
ぐ、と。
角が、さらに奥に食い込んで、視界が白く弾けた。
喉の奥で、息が詰まる。
だが、止まらない。
鹿の体に、密着する。
近すぎる距離。
だが、獣の匂いはしない。
温度も、なかった。
(……今、ここにある)
それだけでいい。
逃げ場のない位置で、剣を振るう。
刃が、鹿の首元を斬り裂いた。
肉を断つ手応えは、ない。
代わりに、何かがほどける感触がした。
――その瞬間。
鹿の輪郭が崩れ、光の粒子のように、ばらけていく。
残留物が、カランと音を立てて地面に落ちると、体内にあった圧が、ふっと消えた。
支えを失った体が落ち、同時に血が一気に溢れる。
地面に叩きつけられ、肺の空気が抜けた。
咳き込むと、鉄の味が口に広がる。
脇腹から、熱いものが流れ続けている。
仰向けになり、手で脇腹を押さえた。
(……倒した)
理由は、分からん。
だが――終わった。
「師匠――!」
ナギの声には焦りが混じっている。
ふと、白い影が視界に入った。
スイだ。
胸元にひょいと乗ってくる。
その小さな体が傷口に触れると、淡い青い光が、滲むように広がった。
じくじくとした痛みの中に、別の熱が混ざる。
溢れる血の流れが、ゆるやかになる。
裂けた感触が、わずかに閉じていくようだった。
「……スイ……?」
側に来たナギの声は、震えていた。
スイは小さく鳴くと、ナギの膝の上に移り、登っていく。
ナギの服の襟元に入ると、動かなくなった。
息を吐く。
「……あとは、任せる」
体から力が抜けていく。
視界が揺れて、そのまま、意識が沈んでいった。
「師匠! 嫌です……目を開けて……!」
「ナギ、落ち着いて」
振り向くと、アルヴィンさんが側に来ていた。
師匠の脇腹に触れて、傷の状態を確認する。
「……さっきはかなり出血していたように見えたが、今は少し収まっているな」
アルヴィンさんは顔を上げ、声を張る。
「繋ぎ手様は!?」
「朝に確認しましたが、いませんでした! 礼拝堂は空です!」
一瞬の沈黙。
「……王都へ戻る!」
「荷を下ろせ!軽くしろ!後続に回す!」
騎士たちが慌ただしく荷車から荷を降ろす。
「全部か!?」
「いい、置け! 後で回収する!」
地面に荷が積み上がる。
「負傷者を乗せるぞ! 急げ!」
「動かすな、支えろ!」
荷車に師匠の体が横たえられる。
「ナギ、押さえていろ!」
「はい!」
荷車に乗り、師匠の横についた。
荷車に、アルヴィンさんと怪我をしている騎士が数名、そしてゼファーさんが乗り込む。
「ゼファー、頼む」
「分かってる」
ゼファーさんが荷車を引く馬のすぐ後ろに付く。
「飛ばすぞ」
風が吹いた。
次の瞬間、荷車が前へ跳ねた。
「――っ!」
強い揺れ。
荷台が跳ね、師匠の体がわずかに浮く。
「……っ!」
咄嗟に押さえつける。
手のひらに、ぬるい感触が広がった。
……血だ。
(揺らしたらダメ……でも、止めたら……)
「大丈夫ですか、師匠……」
返事はない。
車輪が地面を叩き、速度が上がる。
風が荷車を押し、景色が一気に流れていく。
「そのまま行け!」
「止めるか?」
「止めるな!」
荷車はそのまま、王都へと突き進んだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この関係がどう転ぶのか、見守っていただけると嬉しいです。
次回、『非常用』。
明日11時に更新予定です。
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